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たいしょーの朝鮮王朝史

神徳王后 康氏

2018.01.31 20:37

★王后(太祖第2夫人)

    神徳王后康氏(シンドク ワンフ カン氏)

    本貫:谷山康氏

☆生没年

    1356年〜1396年

☆在位期間

    1392年〜1396年

☆宗室

【父】

康允成(カン ユンソン)

【母】

晋山府夫人晋州姜氏(チンサンブ プイン チンジュ カン氏)

【夫】

太祖/李成桂

【王子】

撫安君(ムアングン)/李芳蕃(イ バンボン)

宜安君(ウィアングン)/李芳碩(イ バンソク)

【王女】

慶順公主(キョンスン コンジュ)

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    太祖の二番目の夫人で継妃の、神徳王后の本貫は黄海道谷山で判三司事、康允成の娘。康允成は元支配下の高麗で賛成事を務めた人物です。

    彼女は神懿王后(シヌィ ワンフ)とは違って権門勢家の生まれであったため、太祖の奪権闘争に参加するばかりでなく、朝鮮開国の後にも背後で強い影響力を発揮し、太祖は彼女の子供である芳碩を世子に決めるほどでした。

    康氏との間には第一次王子の乱の際に芳遠(バンウォン)に殺害された芳蕃、芳碩の兄弟と慶順公主がいます。

    李成桂が朝鮮を開国した後、康氏は顕妃に冊封されましたが、1396年に死去した後、諡号を神徳王后、陵号を貞陵と定めました。しかし、李成桂の死去後、太宗は貞洞にあった貞陵の移葬を断行し、彼女に対する王妃の祭礼を廃止し、庶母に行うものとしての忌晨祭を行うようにしました。

    その後、260年後の顕宗の時代に当代の学者、宋時烈(ソン シヨル)の主張で康氏は再び宗廟に合記され、王妃としての忌晨祭も復活します。宋時烈が名分主義に立脚した儒教理念を強調し、康氏が李成桂により正妃に冊封されただけでなく、貞陵が王妃の陵として造成された点を思い起こさせたためでした。

    神徳王后康氏が埋葬されている貞陵は現在、ソウルの城北区貞陵洞にあります。陵がこの地に移葬されたのは、李成桂が死去した後の1409年のことでした。太宗が康氏の墓を移葬したのは、李成桂が芳碩を世子に決めたのに対する腹いせからです。太宗は陵を移した後も丁字閣を破壊し、石彫りの十二支神像を運び出して石橋に使うなど、康氏に対する怒りを露骨に表しました。このため、貞陵は顕宗の時に復旧されるまで約二百六十年の間、主のいない墓として放置されていたのです。

    太祖李成桂の息子は全部で8人で、神懿王后の子供が6人、神徳王后の子供が2人です。これら8人の兄弟は朝鮮開国以後、王位継承権をめぐって殺戮戦を繰り広げ、老年の李成桂をひどく苦しめました。特に神懿王后の子たちが団結して神徳王后の王子たちを惨殺した〝第一次王子の乱〟は、朝鮮開国の歴史を血で染めた最初の事件でした。


貞陵