元敬王后 閔氏
★王后(太宗夫人)
元敬王后閔氏(ウォンギョン ワンフ キム氏)
本貫:驪興閔氏
☆生没年
1365年〜1420年
☆在位期間
1400年〜1418年(17年10ヶ月)
☆宗室
【父】
閔霽(ミン ジェ)
【夫】
太宗/靖安君(チョンアングン)/李芳遠(イ バンウォン)
【王子】
譲寧大君(ヤンニョン テグン)
孝寧大君(ヒョリョン テグン)
世宗/忠寧大君(チュンニョン テグン)
誠寧大君(ソニョン テグン)
【王女】
貞順公主(チョンスン コンジュ)
慶貞公主(キョンジョン コンジュ)
慶安公主(キョンアン コンジュ)
貞善公主(チョンソン コンジュ)
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元敬王后閔氏は本貫が京畿道駆興で、驪興府院君、閔霽の娘で、1365年、驪興で生まれました。彼女は1382年に芳遠に嫁ぎ、1392年、朝鮮開国後には靖寧翁主(チョンニョン オンジュ)に封じられました。
彼女は1400年2月に芳遠が世子に冊封されると、世子嬪として正嬪に封じられ、この年11月に芳遠が朝鮮第三代王に即位すると、王妃に冊封され、正妃の称号を受けました。太宗より2歳上の関氏は太宗の執権にさまざまな面で助力しました。1398年8月、彼女は鄭道伝(チョン ドジョン)勢力の急襲の可能性があると判断して、太祖の病床で他の王子たちとともに宿直していた芳遠を密かに呼び出し注意を喚起しました。この情報のお陰で、芳遠は先手を打って、鄭道伝一派を除去することができました。また、〝第1次王子の乱〟の10日前に、鄭道伝一派が、王子たちの率いる侍衛牌を廃止し、彼らの軍装備を火に燃してしまった時、彼女は密かに武器を隠しておき、乱の直前に取り出して芳遠の兵士たちに与え、先手を打てるようにしたのです。
しかし、王妃となってからは、太宗との不和が絶えませんでした。不和はまず宮女問題から始まり、太宗の後宮の揀擇問題に続きます。この問題はさらに悪化し、結局、王后の同腹の閔無咎(ミン ムグ)と閔無疾(ミン ムジル)の兄弟問題で不和は頂点に達しました。
太宗は外戚の権力を分散させ、王権の強化を図ることを目的に、後宮を多く娶ろうとしましたが、閔氏はこれに嫉妬し、太宗の機嫌を損ねました。また、それが彼女や同腹の兄弟に影響を与え、太宗との仲がさらに悪化する結果を招き、さらには兄弟が自決に追い込まれると、彼女は太宗に対して不遜な行動をとり続けて王后の座から追われそうな状況にまで陥りました。しかし、太宗は世子と王子たちに及ぼす影響を考え、廃位することはしませんでした。元敬王后閔氏は1420年、56歳で死去。
閔氏は4男4女を生みました。王后から生まれた息子は王位継承と関連した逸話を残し、後代の人たちにもよく知られていますが、四男の誠寧大君は太宗の寵愛を受けたものの、13歳の時に麻疹で夭折しました。
墓は献陵で、太宗の墓と並んでいます。
献陵