自分軸を大事にする生き方
Facebook五島 秀一さん投稿記事
善だと思っていたものが、悪でもあり、悪だと思っていたものが、善でもある。
被害者だと思っていたものが、加害者でもあり、加害者だと思っていたものが、被害者でもある。自分の外にあるものは、常に不安定であり、真の光は、自分の内側にしかない。
誰かを批判する事は、無意味であり、ひたすら自分の内なる光と対話しながら、より良きものを生み出すしかない。
https://note.com/shuoffice/n/n3b46ea82c8bf?fbclid=IwAR2LKg8VI_3dc-UKdd6BSy6NNMui7heaUm-dvjNqToBKJ7CWGcSCPckhA6Q 【反復する歴史【スサノオを演じた織田信長】】より
人間の心理描写に目を向ける
僕は昔から歴史物語が大好きだ。
それはフィクションではなくノンフィクション、そこには生きた人間の真実がある。
例えば、戦国武将の物語ひとつとっても、その物語の中には、サラリーマンでも主婦の人でも、身近な人との小さな諍いにしても、すべての人、すべての人生のヒントになるものが散りばめられている。
事実として何が起きたか?よりも、人間の心理描写に目を向けると、自分と共通するものを見つけて、それは現実の問題を解決する糸口のきっかけとなるのだ。
今日のようにカリスマ性を失った時代、国もそう。アメリカも急速に求心力を失いつつあるし、次はどこの国が取って代わるのか。
日本国内を見てもそう。このような無極時代というか、極のない時代は、またすごい統率力を持った人間が必ず出現する。
それは時代がどうであれ、無風状態で無秩序な状態。しかし必ずいつの日か、極、渦、中心が生まれてくる。
ランダムになるほど渦が生じる
コップの中の水の水分は、非常にランダムな動きをしている。これがどんどん加速すると、最終的に無秩序になるのではなく、逆に渦ができる。
渦は一つだけでなく、あちらこちらにたくさん生じ、無秩序状態が続けば続くほど、逆に小さな秩序を作っていく。
ちょうど今の世界のように、グローバリズムが広がっていくと、逆にナショナリズムの小さな世界が展開していく。
皮肉なものだ。広がっていくと逆に縮まっていく。
同じことがコップの水の中の渦にも起きる。ランダムになればなるほど、だんだん渦ができてくる。
この渦が生じることを、数学で証明することもできる。
無秩序になればなるほど次第に渦が生じて、秩序化して渦の中心を作る。
世界から自分を見た信長の生き様
新しい時代が必ずはじまる。
戦国時代もまさにそうだった。
群雄が割拠する戦国大名、戦国大名の役目の一つは領主だ。「安堵する」と言うのは、領主が認可すれば土地を所有することができるというもの。
今の日本は、国が認可しない限り自分の私有地を確保することができない。しかし戦国時代は、領主がいて、その勢力が及ぶ範囲内で、例えば信長や信玄などの認可状さえあれば、土地を所有することができた。それが領主の働きだ。
そのように群雄割拠して、日本国中が入り乱れていった時に、織田信長という一人の英雄が出現した。
第一に信長からわかることは、武田信玄にしても、上杉謙信にしても、自分の城の拠点を、生涯一度も変えたことがないのに対し、信長は不思議なことに、岐阜に移動したり滋賀の安土城を拠点としたり点々とした。
自分の拠点に全く執着しない信長が天下を取っていく。これはある意味、重要なヒントになるものだ。
それは、自分の職業や居場所に全く執着しない。外から見るとジプシーのように彷徨ってるようにしか見えない。時には人生観すら変えてしまうかもしれない。
そんな信長が天下統一の道しるべを作った。それは、「自分から世界を見ていた」のではなく、「世界から自分を見ていた」ということ。
当時は宣教師が持ってくる地球儀を見て、世界と判断するしかなかったはずだ。しかし信長は、少なくとも日本全体を見て、今の自分はどこにいるべきなのかと考えた。
今は岐阜、次は安土城だ、というように、全体から見て自分の居場所を決めるという、不思議なバランス感覚を持っていたのが信長だった。
時には朝に言ったことと夕方言ったことが変わってもいいじゃないか。
全体を俯瞰する能力、全体を見て自分の意見を決める。
だから宣教師から地球儀を渡されて、「地球は丸い」と言われた時に、「そうだろうな」と言った。普通の戦国大名だったらそんな反応はしない。
反復する歴史
古事記の中に出てくるスサノオは、出雲に行ってヤマタノオロチを退治し、尾から剣を発見する物語だ。
剣は銅ではない、鉄だ。古代に鉄器文明が行われていた暗示であろうと思われる。
しかし銅にしても鉄にしても、従来の石や木に変わる非常に合理的な文明のはじまりを象徴している。
事実はともかくとして、どうも歴史というのは、太古の人が行なったことを、近世現世の人が反復する傾向があるようだ。
その点から考えると、信長というのは歴史的に見るとスサノオの役割を演じたのではないか。公家を相手にあしらっていく。公家はアマテラスだ。
アマテラスは偉大で素晴らしいリーダーだったと思うが、それだけでは外国の文明にやられてしまう。だからスサノオが悪役を買って出た。
平和的な農耕文明に対し、スサノオは国家を強くするための鉄器文明を作った。それまでの農耕文明にとっては、鉄器文明は大きな脅威となり、信長が急進的に合理的な文明を進めていったことは、スサノオと信長が重なるところだ。
アマテラスと公家、スサノオと信長、歴史は反復されていく。
そうするとアマテラスや信長に象徴されるような出来事が確かにあったはずだ。
人間は魚類、両生類、哺乳類と二十数億年の生命の歴史を、母親の胎内で十月十日の間に反復するように、歴史には反復性があると言える。
そのように、合理的な時代がもたらすスサノオのような存在がいたことを、信長の生き様を見て、スサノオの存在を理解することができるはずだ。
なぜ光秀は謀反を起こしたのか
大河ドラマなどを見ていて疑問に思ったことは、果たして光秀はなぜ謀反を起こしたのか?ということだ。
その動機を知りたい。しかし納得できる解説されたものがない。
秀吉がバックで糸を引いたのではないか? 一番特をしたのは家康だから家康が仕組んだのではないか?
果たして歴史上の登場人物たちは皆、いかなる時も理性的に合理的に動いたのであろうか? 私たちも止むに止まれぬ衝動で起こす出来事がたくさんあるはずだ。
後世の人間はそれを振り返った時に、きっと何か意味があったに違いないと、歴史家たちは合理的で知的な側面からだけ過去を推理する。
その手法が功を奏することもあるが、どうも光秀はそれでは解せないところがある。一体なぜ謀反を起こしたのか?
僕の個人的見解では、明らかに光秀は、信長の家来からするとよそ者だ。長く信長に仕えていた人たちから見たら、足利政権と仲の良い光秀が突然やってきて雇用される。
だから光秀は、昔からいる家臣たちにとっては面白くない存在で、仲間外れにされる傾向があった。
信長は、男性も女性も好んでいたと思われる形跡があり、真実かどうかは別として、前田利家は信長の寵愛を受けていたという説もある。
うごめく巨大な嫉妬心
光秀と利家のエピソードを追いかけていくと、面白いことが浮かび上がってきた。
1581年、利家は二十三万石の領地を安堵された。その一年前の1580年には、光秀は丹波一国を与えられ三十四万石となっていた。
時系列に並べてみると、1580年に光秀は先に大領主となっていた。その後を追いかけるようにして、利家は能登の国の城主となっていく。光秀のすぐあとを利家が追いかけてくる、その差が十一万石と言っても光秀はヒヤヒヤの状態だ。
そして1582年5月、光秀は突如家康の饗応役を解任される。無作法があったのか。出世レースにすると、一歩先を走っていた光秀に異変が起きたことになる。
突然大役を解かれ、あとを追いかけてくる利家のことが気になっていたとすると、居ても立っても居られない状態だ。
そして1582年6月21日、本能寺の変が起きた。
どれだけ頑張って実力で凌駕しようとしても、利家が寵愛を受けているせいで、光秀は出世レースから外されていく。
その巨大な嫉妬心が光秀に働いたのではないだろうか。
光と闇の両方を持つ英雄
信長は、欲しいものは全て手に入れるという、ある意味ものすごい闇の力を持っていた。それは光にも闇にもなる可能性があるが、どちらかというと闇の方が強い。
一方で、秀吉など外から来た人間にも活躍の場を与えるという光も持っていた。
信長は光と闇の両方を持っていた。
光秀は信長の闇の部分を一手に引き受け、それを浄化する役目として引き受けざるおえなかった。
寵愛を受けたのは利家で光秀ではなかった。信長に愛されたい一心で闇を引き受け、精神的に追い詰められた。その嫉妬心から突発的に起こしたのが、「本能寺の変」だと思われる。
歴史で活躍した偉人や英雄たちというのは、光のエネルギーが強いと同時に闇のエネルギーも強い。
近くにいる人間は、光だけをとりいれるか? 闇だけをとりいれるか?
それは、命を削った戦国時代の運が開くか開かないかの、非常に重要なファクターだった。
力が強ければ強いほど闇のエネルギーも強く、その闇に巻き込まれないよう自覚して努力しないと、出世はおろか謀反として処罰されたり転落していく運命だ。
この世は力を持てば持つほど、光が強く闇も強くなる。その闇の部分に巻き込まれないようにすることで戦国時代を生き延びていった。
すべてを光に変えていく
今日、戦争の時代が続いている。
まさに歴史は光と闇のエネルギーが満ち満ちている。
現実の社会も光と闇のエネルギーが満ち満ちている。
政治家にも、経営者にも、光と闇がある。
人間も世の中も、光と闇などと、簡単に分けられるほど単純なものではない。
この人は正しくてこの人は間違っていると色眼鏡で見たら、とんでもないどんでん返しにあう可能性もあるだろう。
大事なことは、光であろうと闇であろうと、すべてを光に変えていこうとする勇気だ。
利家は信長の光も闇も知り尽くした上で、光だけをとったのではないか。
主体性を持って生きること。
光も闇もあなた次第だ。
自分軸を大事にする生き方
土壌の中には良い菌もいれば悪い菌もいる。
悪い菌は寒い時期に死滅する、そのために寒い冬が来るのだ。そしてその年を越した良い菌だけが、春に向かってグングン成長していく。
土壌の中の、良い菌も悪い菌も選別しながら生命力に変えていく雑草のような強さ。それは人の闇や光にとらわれず、自分の軸を大事にして生きること。
私たちは歴史上の先人たちの良い部分だけをとりいれ、それが自分にとって良い運を作っていくに違いない。
そして果たされなかった先祖の想いや先人の想いを我が人生に招き入れるためには、強い意欲を持つことだ。
できる!信念を持て!意欲を持つとセロトニンがどんどん出てくる!
このように僕は、歴史物語を自分なりに解釈し、自分の人生に取り入れることで闇を光に変えていく。
2021年8月 Dr.Shu 五島秀一