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服部雅人さんインタビュー 前編

2022.07.22 11:37

今回特別ゲストとして、アン・バレンタイン日本代理店「グローブスペックス」からエグゼグティブマネージャー・服部雅人さんが二日間来場。皆さまに眼鏡をお見立ていたします。


服部さんってどんな人ーー?アン・バレンタインを日本に導いたその人です。一見クールな印象なれど実は冗談が大好き。ウィットに富んだトークと経験に裏打ちされたセンスでみるみる女性を変身させます。もちろん男性も。そんな服部さんに恐れ知らずにも電話インタビューをお願いしました。いざ突撃!



ーー服部さんといえば上品な山の手言葉が印象的です。どんな青春を過ごされましたか?


服部「いえいえ、私は下町の蔵前で生まれましたので、べらんめい口調のほうが馴染み深いです。子供の頃は、どちらかといえばませガキでした。早くから洋楽にハマり中学ではストーンズ、バッドカンパニーなどロック三昧。その後は70年代のブラックミュージック全盛時代にクラブ活動(ディスコ)が始まり、赤坂、六本木界隈を夜な夜な彷徨っていました」


ーーディスコブームど真ん中ですね!羨ましい。


服部「28歳でNY に移り住み、そこでも本格的なクラブ活動を継続していました。面白かった経験としては、渡米して数ヶ月後に黒人の父と日本人の母をもつ女性と知り合いました。彼女を誘ってリンカーンセンターでやっていたドラマティックスのコンサートに勇んで出かけたんですが、会場に来ていた客のほぼ全員が年配者で、中には居眠りしているヤツもいるありさまでした…。自分的にこのコンサートは当時日本のディスコの最先端という認識でしたので、めちゃくちゃショックを受けました(笑)。さながら日本でいう五木ひろしショーの状態でした…。彼女は日本がかなり遅れている国だと思ったらしく、真剣に心配してくれて、僕にRUN D.M.CのCDをプレゼントしてくれました。当時ネットがまだなかったのでカルチャーのギャップがかなりあったことは今でも忘れられません!」


ーー思わぬかたちでRUN D.M.Cゲットですね。眼鏡人としてスタートとなった出来事について聞かせてください。


服部「学生時代に好きだった原宿のBEAMSのそばにクラフツマンシップというメガネ屋がありそこに通ってました。その店は某老舗眼鏡店の代表が家業を継ぐ前に、ロンドン留学から帰国した後のわずかな期間だけ営業していた知る人ぞ知る店でした。その後、その方はクラフツマンシップを閉めて暖簾を継ぎ現在は確固たるスタイルを持った眼鏡店の経営者として今も活躍されています。当時まだアイウェアのセレクトショップが無い時代にクラフツマンシップは大変感度の高い店であったため私は大変刺激を受けてました。そして自分も将来こんな素敵な眼鏡店を作りたいと思うようになりました」


■かつて原宿にあった眼鏡店『クラフツマンシップ』に多大な影響を受けた服部さん。その後、国内の眼鏡店に就職。眼鏡人として第一歩を記します。同じ会社の2年先輩に現グローブスペックス代表・岡田哲哉さんがおられました。89年、米国支店勤務を命ぜられます。


ーー米国時代のいちばんの思い出を聞かせてください。


服部「先述のガールフレンド、ダイアンが個人的には一番刺激的な体験でした(笑)。ニューヨークの眼鏡店に赴任したことが一番の思い出です。セールスマネージャーはロイス・ブロードウィンさんという60代の女性。カリスマセールスレディーでした。


ーーどんなふうにカリスマだったんですか?


服部「日本の眼鏡屋では考えられない、喩えるならホテルのコンシェルジュのような接客をされる方でした。たとえばダスティ・ホフマンのような人たちが彼女と話をしに、ただそれだけのために店に来るんです。ロイスさんは『ハーイ!ダスティ』とオーバーに出迎えていきなりキスをして。まるで映画のワンシーンを観ているようでした。僕たちは裏方でしたが、ロイスさんに言われてダスティさんにフィッティングをして差し上げていました」


ーー年表に照らし合わせると「レインマン」で絶頂期のダスティ・ホフマン…。それはそうとう緊張の場面ですね。私がIOFTで初めて服部さんに面接をしていただいたときの緊張に勝るとも劣りません…。どんなお話をされたんですか?


服部「ほぼすべて身の上話ですね。お付き合いしている女性の話とか。ほら、眼鏡屋で人生相談ってよくあることじゃないですか。その外国版を見ているようでしたよ(笑)」


ーーたしかに。私の父もよく人生相談を受けていました。中には結婚相談をした女性も。当時、ニューヨークの他の眼鏡店はどんな雰囲気でしたか?


服部「赴任した年に『ヴィジョン・エキスポ』(*ニューヨークで年に一度開催される眼鏡の国際展示会)を見に行き衝撃を受けました。日本ではセレクトショップというものがほとんど存在しなかった時代にニューヨークではすでにアイウェアのシーンが確立されていました」


ーー“紀元前”の貴重なお話です!


服部「89年はちょうどオリバー・ピープルズのデビューの年でもありました。しかしブースは白い壁で囲われていてアポイントなしには中の様子を窺うことが出来ませんでした。それゆえにオリバー・ピープルズっていったい何だ?という関心につながったことを記憶しています。余談ですが『ヴィジョン・エキスポ』が行われる会場はイーストエンドにあって、めちゃくちゃ治安の悪いところでした。信号待ちをしているといきなり毛皮のコートを着た娼婦が助手席に乗り込んできたり。展示会場にたどり着くまでが命がけでした(笑)。そうした危なかったことを含めて色々なことをニューヨークという街から吸収しました」


後編につづく


インタビュー・文:奥瀧隆志

イラスト:kozi69