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Okinawa 沖縄 #2 Day 198 (23/07/22) 旧宜野湾間切 (16) Aichi Hamlet 愛知集落

2022.07.24 14:50

旧宜野湾間切 愛知集落 (あいち)



今日は少し気張って、四つ目の集落の愛知集落も見ることにした。暑さでバテているが、神山集落は愛知集落と合併しているので、神山と愛知は一つと考えて、両方見たほうが良いと思った訳だし、文化財もそれ程無いので、もう少し頑張れそうだ。




旧宜野湾間切 愛知集落 (あいち)

戦前の愛知集落はこの地域のメインストリートが通るアイチカジマヤー (愛知交差点) を中心に、旧神山村に広がる旧士族層の屋取 (ヤー ドゥイ) 集落だった。各屋敷は耕作地の中に点在し、集落は散村の形態だった。愛知は現在の宜野湾市の中央部、普天間飛行場の東側の地域になる。愛知の主な生業は農業で、サトウキビ栽培で、サトウキビはサーターヤーで自家製造していた。 サーターヤーの数が多く、親兄弟などの血縁関係で運営しているところが多かった。愛知には近所 (チンジュ) と呼ばれる相互扶助組織があり、家を建てるような大掛かりな作業を共同で行っていた。 明治の頃まで、愛知はその1つの近所 (チンジュ) の一つだった。家が増えるとともに上近所と下近所に分裂し、大正の頃には下近所が前近所、後近所に分かれていき、沖縄戦の直前頃には、愛知は8つに区分けされていた。1939年 (昭和14年) に 宜野湾の愛知原 (アイチバル)、胡麻川原 (グマガーバル)、 神山の塑良増原 (クンダマシーバル)、東原 (アガリバル) が分離独立し、愛知区となった。現在の愛知は国道330号が北東から南西方向に貫き、国道沿いには小売店・飲食店・事業所 病院・交番などが所在している。 宜野湾との境には、いこいの市民パークがあり、住民の憩いの場となっている。 

また、県営愛知高層住宅、沖縄県住宅供給公社愛知団、市営住宅愛知団地などが建設され、閑静な住宅街となっている。戦前の道を残し、戦前からの屋敷に住む旧愛知の住民も多い。愛知の住民は、愛知かじまや一会を設立している。

戦前までは、民家が散在している程度で、昔からあったそれぞれの屋取集落が、それほど変化なくあったように思える。戦後1948年の地図では、帰還した住民も元の集落に戻っている様に見える。その後、1972年の本土復帰までは、屋取集落が少しづつ拡張していき、その後、住宅地や集合住宅開発で急速に拡大している。

愛知区の人口については神谷集落訪問記で記述してので、ここではグラフにのみ掲載しておく。


沖繩戦当時、愛知集落内の民家や村屋 (ムラヤー) には、日本軍が駐屯していた。日本軍がガッコー (宜野湾国民学校) に駐屯すると、学校で授業を受けることが出来なくなり、愛知の生徒は神山の民家で授業を受けたり、嘉手納の飛行場建設に借り出されていた。愛知では、県外への学童疎開や今帰 仁村への疎開者はいなかった。米軍が上陸すると、米軍は4月4日頃には愛知に侵攻し、家屋を焼き払っていた。 集落内の避難壕に避難した住民は4月4‐5日頃には捕虜となったが。 住民の3分の1ほどは南部に逃げ、そのために多くが命を落とした。これは隣の神山が戦没者が少ないことと対照的だ。 愛知の米軍上前、1944年 (昭和19年) 10月1日現在の愛知の人口は527人で死者行方不明者は124人とされ、全住民の23.5%にあたっている。(沖縄県平和の礎調査では、防衛隊、県外での死者を含めた犠牲者 211人)

米軍の捕虜となった愛知の人々は、県内各地の収容所から野嵩収容所へと集められたが、 元の居住地には戻れず収容所生活が続いた。1947年 (昭和22年) 2月28日に、元の居住地へ移動許可がおり、 4月30日に愛知へ戻ることができた。愛知は、基地に接収されることはなかったが、集落の中央を軍道5号線 (現在の国道330号) が貫いており、軍道建設で家屋や土地を奪われた住民もおり、集落も分断された形になっている。隣接する神山は、愛知と接するごく一部の土地を除き、ほぼ全域を普天間飛行場に接収されていたため、残された神山の土地と軍道5号線の北西側の愛知の土地に居住していた。

愛知では、村としての行事には、旧暦2月2日、3日の腰憩い (クシッキー)、旧暦7月の盆のエイサーなどがあった。拝む場所は、ヌールガーやフッチャ ガーなどの井泉だった。 屋取集落だったこともあり、ウマチーなど他の行事はそれぞれ屋取の一族ごとに行っていた。 愛知は神山の一部だったので、宜野湾ノロの管轄地域だった。しかし屋取集落だったので、御嶽や殿などは存在せず、村全体としての祭祀行事はなく、宜野湾ノロが愛知で祭祀を行うことはなかっただろう。


愛知集落訪問ログ



村屋跡

まずは公民館に向かう。公民館への道の途中に、以前の村屋が置かれた場所がある。現在の公民館とはそれ程離れていない。現在は住宅が建っている。


愛知公民館

村屋跡がある坂道を下った所に松ぼっくり公園がありその向こうに公民案が建てられている。公民館の向こうには、1992年 (平成4年) に建てられた172戸の県営愛知高層住宅で、3LDKの家族向きになっている。一棟が半円を描くように建てられている。一般的な何棟の並列に並ぶ集合住宅とは異なり、面白い形になっている。

公民館入り口には琉歌碑が置かれていた。石碑裏には愛知集落の生い立ちを簡単に記したものがあった。


愛知の誕生

愛知の開拓が始められたのは、尚温王時代一1800年の初期頃と推定される。当時は、宜野湾上原とか、神山上原或いは神山の東などと呼ばれ宜野湾村の一部と神山村の一部で村から人里離れた松林と原野に覆われた淋しい未開の地であった。ここに入植して来た先駆者達は、あらゆる困難と闘いながら愛知屋取を築き上げてきた。時を経て二世三世と繁栄し愛知に根を下ろし人口戸数も増えてきた明治の中期頃から愛知屋取と呼ばれるようになり、明治の末期頃には、上下近所の地縁組織が出来た。

この様な過程を経て、発展した愛知屋取は、1939年8月14日に宜野湾と神山村から分離独立した新行政区愛知が誕生しました。

しかし、生活は貧しく、生きる事が精一杯の時代でしたが若者達は、愛知かじまやに集い、三線に合わせて歌い、語らいや遊びを通して、お互いの親睦を深めていました。その力強く生き抜く精神は、私達の 心を打つものがあります。また、心の拠り所としての、「愛知かじまや」にまつわる琉歌を数多く残しました。私達は、先人の残してくれた不撓不屈の精神を継承し「愛知」の誕生から60年の還暦を迎えた今、最も親しまれた歌の碑を建立して長く保存します。

平成12年8月14日 愛知かじまや会


  夕間暮 (ゆまんき) となりば

  肝ぬわさみつさ

  花ぬかじまやに

  行ちゃい遊しば


「夕暮れ時になり、心が騒ぐなら、花のカジマヤー (4叉路、交差点) に行って遊ぼう」という意味だと思う。このカジマヤーは愛知集落中心にあった4叉路で、若者たちがいつも集まっていた場所だ。村でも何かがあればここに集まったのだろう。なんとなく、当時の様子が浮かんでくるようだ。昔からの住民の郷友会を愛知かじまや会と名付けてるように、村民にとっては特別な場所なのだろう。屋取集落は一般的に住民同士の繋がりが希薄だった事から、村としてのまとまりがないのだが、この愛知の様に後世に伝える活動をしている屋取集落は珍しい。


まつぼっくり公園、闘牛場 (ウシナー) 跡

公民館の隣は公園になっている。まつぼっくり公園という。公園の入り口には牛の像が置かれている。戦前は、この公園の広場は闘牛場 (ウシナー) だった。牛組合所有のウシナーで、周囲に観覧席が設けられていたそうだ。

当時、闘牛は畜産奨励と娯楽の両面から盛んに行われていた。。 勢子 (闘牛士) が、牛の鼻綱を握ってヤグイ (掛け声) をかけ、角を突き合わせて勝負を行う。 勝負は一方の牛が舌を出し たり逃げ出したら負けと判定された。 神山では、当初、後原のウ シナーで闘牛を行っていたが事故が起き、集落北方の黒数原に新たに闘牛場を造り、更にその後、観客席を増やすために中原と共同で造ったウシモーに移転している。このウシナーは1915年 (大正4年)、愛知屋取の胡麻川原に開設され、夏から秋にかけて毎月行われていた。

公園の名の通り、公園内は松林になっている。


ウトゥシ (滝)

公園は高台にあり、公園から下る道がある。階段横の排水路となっている。この道はかつては、川の中流でウトゥシ (滝) だった。滝つぼは3mほどあったそうで、雨が降ると500mほど離れた所までウトゥシの音が聞こえたという。残念ながら、落石の危険があるという事で、ここへの立ち入りは柵で閉鎖されていた。


下イの後の泉 (サガイヌクシヌカー) 

国道330号線から南に外れたところ、かつての愛知集落中央の屋号 下イ (サガイ) あたりに下イの後の泉 (サガイヌクシヌカー) がある。 住宅地の中の擁壁に井戸があった。ヒャーイ (旱魃) でも水が枯れなかったそうで、今でも水が沸いている。


フッチャガー

下イの後の泉 (サガイヌクシヌカー) から少し南側、ここも愛知集落中央あたりで、ヤー小加那の下にフッチャガーと呼ばれる井泉があると資料にあり、地図の場所に来てみた。細い路地を通り民家の裏に水路となっている場所があった。写真などが見つからず、ここがそうなのかははっきりしないのだが、石垣もあり、井泉跡のようにも見える。フッチャーガーは愛知の産井 (ウブガー) ともいわれ、水が染み出るジーシル (地汁) 形式だった。洗濯に利用していたが、ヒャーイ (旱魃) の時には水を汲んだという。愛知は比較的水に恵まれていた地域で、各家庭に井戸があり、生活用水は主に家庭の井戸を利用したが、井戸のない家庭は近隣の井戸を借りたり、ヌールガーやフッチャガーなどの湧き水を利用していた。


大堂毛 (ウフドーモー)、愛知の拝所

愛知集落は高台に広がっている。愛知集落の南側は丘陵の斜面となっている。ちょうど、愛知と長田の境界あたりになる。この丘陵の山は大堂毛 (ウフドーモー) と呼ばれて、大昔は寺があったと伝わっている。坂道を下った所から、ウフドーモーにの上り口があった。そこを登って所に愛知の拝所が置かれている。祠内には「大堂権現 (ウフドーゴンゲン)」が祀られ、その隣にはビジュル (霊石) が置かれていた。権現は神仏習合の神 (観音) なので、かつてここにあった寺の名残なのも知れない。


ヌールガー

ここは旧神山区なのだが、愛知集落北側、宮城の裏の森の中にある神山の井泉で、神山集落訪問時に来ているのだが、案内板には「神山・愛知のヌールガー」と紹介されているので、愛知の住民にも使われた井泉だろう。宜野湾ノロに関係するカーだそうだ。ヒャーイ (干ばつ) の時にはここから水を汲んだ。普段から冷たく、美味しい水であったという。


今日は気張りすぎた。帰路についたのだが、自転車をこいでいると、軽く吐き気がする。また、軽い熱中症の症状の様だ。日陰をゆっくりと無理をせず走り、途中、冷房の効いたスーパーで休憩をしてなんとか家にたどり着いた。気をつけているつもりだったのだが、次回からは、更に注意しなくてはと思った。



参考文献

  • 宜野湾市史 第5巻 資料編4 民俗 (1985 宜野湾市史編集委員会)
  • 宜野湾市史 第8巻 資料編7 戦後資料編 (2008 宜野湾市史編集委員会)
  • 宜野湾市史 別冊 写真集「ぎのわん」 (1991 宜野湾市教育委員会)
  • ぎのわん市の戦跡 (1998 宜野湾市教育委員会文化課)
  • 宜野湾 戦後のはじまり (2009 沖縄県宜野湾市教育委員会文化課)
  • 沖縄風土記全集 第5巻 宜野湾市・浦添村編 (1968 沖縄風土記社)
  • ぎのわんの地名 (2012 宜野湾市教育委員会文化課)