Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

たいしょーの朝鮮王朝史

斉献王后 尹氏(廃妃 尹氏)

2018.02.02 17:59

★廃后(成宗第2夫人)

    斉献王后尹氏(チェホン ワンフ ユン氏)

    ※廃妃尹氏

    本貫:咸安尹氏

☆生没年

    1455年〜1482年

☆在位期間

    1476年〜1479年

☆宗室

【父】

尹起畎(ユン ギギョン)

【母】

申氏

【夫】

成宗

【王子】

燕山君(ヨンサン グン)

--------------------


    尹氏は判奉常寺事、尹起畎の娘で、1473年に成宗の後宮に選ばれ、淑儀に封じられました。1474年、恭恵王后韓氏が死去すると王后に冊封されました。王后に冊封された年に世子、㦕(燕山君)を生みましたが、嫉妬深く、成宗をたびたび困らせました。

    1477年、劇薬のヒ素を隠していたことが発覚し、王の周辺の後宮を毒殺しようとした疑いで降格されそうになりましたが、成宗の取り計らいで助かります。ところが1479年、王の顔に爪で傷を付け、これに成宗と仁粹大妃が激怒し、廃位されました。

    世子の母という理由で大臣たちは廃位に反対しましたが、成宗と大妃は許しませんでした。そのため、尹氏は実家に戻され、外部との接触は禁じられます。そうした境遇に陥ると、彼女は自分の行動を反省し、謹慎していましたが、1482年、朝廷では尹氏の問題が新たな政治の懸念となっていました。王となる世子の母を一般人のように暮らさせるわけにはいかないという上疏が相次いだのです。一方で、これに反対するものたちは尹氏を誹謗し始めました。

    廃后を擁護する者たちは、朝廷から彼女のために住居を提供し、生活費一切を宮府から支給すべきだと主張しました。しかし、これに反対する側も頑強で、特に成宗の母である仁粹大妃と継后、貞顕王后の反発が強かったため、成宗も簡単には廃后の住む家を提供するわけにはいきませんでした。しかし、成宗は内心、世子が成長するにつれて、廃后尹氏に同情心を抱きはじめ、内侍と宮女たちを派遣して彼女の行動の動静を探らせます。ところが、彼ら宮人は仁粹大妃の指図によって、廃后尹氏にはまったく反省の様子がないと王に偽りの報告を行いました。

    成宗はその言葉を聞き、大臣たちに尹氏問題を議論させ、賜薬を下すことを決めました。

    廃后尹氏の墓には墓碑も建てませんでしたが、成宗は世子の将来を考慮して〝尹氏之墓〟という墓碑銘を与えました。そして、成宗は自分の死後100年間は廃后問題に関して論じないよう遺言をのこしました。しかし、燕山君は即位後、母の廃后事件を知ると、その事件の真相を調べさせました。そして、尹氏廃后事件の関連者と尹氏の王后追尊に反対する人たちを処刑しました。これが〝甲子士禍〟です。1504年には成宗の遺命も守らず、尹氏を斉献王后に追尊し、墓も懐陵と改称しました。

    しかし、1506年に〝中宗反正〟で燕山君が廃位されると、尹氏の冠爵も奪われ、二度と名誉回復することはありませんでした。


懐陵