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たいしょーの朝鮮王朝史

禧嬪 張氏(張禧嬪/大嬪)

2018.02.06 04:53

★王后(粛宗第3夫人)

    禧嬪張氏(ヒビン チャン氏)

    ※大嬪(テビン)

    本貫:仁同張氏

☆生没年

    1659年〜1701年

☆在位期間

    1689年〜1694年

☆宗室

【父】

張炯(チャン ヒョン)

【母】

坡山府夫人坡平尹氏(パサンブ プイン パピョン ユン氏)

【夫】

粛宗

【王子】

景宗

李盛壽(イ ソンス)

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    禧嬪張氏は訳官、張炯の娘で、名は玉貞(オクチョン)。幼い時に宮女となり、22歳になった1680年に粛宗の目にとまり、後宮となりました。しかし、その年に〝庚申換局〟で南人派が追放されると、後ろ盾だった張炫(チャン ヒョン)も配流され、張氏も明聖大妃の命で宮殿から追い出されました。

    1684年に明聖大妃が死去すると、2年後に東平君(トンピョングン)の取り持ちで宮女に復帰しました。

    こうして宮殿に復帰したその年に淑媛となり、1688年に昭儀のときに王子、昀(後の景宗)を生んで粛宗の寵愛を独占するようになりました。

    1689年、粛宗が昀を元子に定めると、昭儀から禧嬪に昇格します。翌年、昀が世子に冊封されると、閔氏と南人派は策略をめぐらして仁顕王后閔氏を廃位し、張氏は王后となりました。

    一介の宮女から後宮生活を経て、王后にまで上り詰めた張禧嬪でしたが、傲慢さと独占欲が災いし、1694年の〝甲戌換局〟で再び禧嬪に降格。その後、張氏が仁顕王后を呪詛したことを淑嬪崔氏が粛宗に訴え、張氏は42歳で賜死。

    粛宗は張氏の行いに憤慨し、それ以後は後宮が王后に昇格することを禁止する法を作りました。張氏の死後、再び老論派が勢力を伸ばすことになりました。


大嬪墓