河童忌につき、芥川龍之介作品特集
こんにちは。
本日は河童忌ですね。
小説家、芥川龍之介の命日です。
先日も芥川賞、直木賞と発表されました。
毎年2回、直木三十五と合わせてメディアに名前が出る、近代文学の作家の中でも指折りの著名人です。
芥川氏には古典を参考にした短編の傑作が多く、例えば「羅生門」なども『今昔物語集』を題材にしています。彼の作品をあまり読んでいないなぁという人には、もしかするとそうしたイメージで、お堅いんじゃないか、敷居が高いのでは、と思われているかもしれません。日常や色恋という話ではないですから、ちょっと一理あります。
しかしまぁ、短く、面白い。これがまず素晴らしいことです。
そして非日常に身をおく登場人物たちがあまりにも人間的で移入できてしまう。
芥川さんに優れた批評家としての側面があるからか、生まれもった感性なのか、とにかく面白いです。
ポラン堂古書店び近代文学棚は現在「河童忌」仕様になっています。
そちらから今回短編3作を紹介します。
「芋粥」
写真の中だと『羅生門 杜子春』(岩波少年文庫)に収録。
『宇治拾遺物語』の一話を題材にした話です。
主人公は「五位」、ですがそれは名前ではなく位です。名前は明かされません。藤原家に勤める小役人ですが、背が低く、赤鼻で、外貌がすぐれない為に周囲から馬鹿にされています。しかし五位は腹を立てたことがありません。それが聖人君子だったなどと表現されないのが、芥川文学のあらわす人間です。「一切の不正を、不正として感じない程、意気地がない、臆病な人間だつた」のです。
彼にはたった一つ願望がありました。「芋粥を飽きるほど食べてみたい」という夢でした。「芋粥とは山の芋を中に切込んで、それを甘葛の汁で煮た、粥の事」だそうで、年に一度、臨時の客の折に、それもわずかに喉を通るだけだと言います。
私だってじゃがいももさつまいもも好きですし、誰にも話したことがない五位の欲望を読むにつけ、甘いどろどろの芋粥を思い浮かべては美味しそうだなぁと単純に思ったりするわけです。
で、この五位の願望を知った藤原利仁は面白がって彼にたらふく食べさせようとする。
そんな話です。
岩波少年文庫に収録されるほど、有名な芥川の初期の短編になります。結末やある種教訓めいた筋のみ切り取ると、後味は良くないのかもしれない。五位を馬鹿にする嫌な奴しかいない、という感想も目にするのですが、芥川の描写の巧さゆえなのか、私にはそれほど悪いように見えないのです。
五位の願望に興味をもち、ちょっと遊んでやろうという利仁も魅力的に見えなくはない。その利仁の意図とは全く異なる感情へ辿り着いてしまう五位も言わずもがなです。最後の段落、どう感じるかは読者次第に違いないのですが、とても密度の濃い文学性がある文章だと思います。
「蜜柑」
写真の中だと『羅生門 杜子春』(岩波少年文庫)、『蜘蛛の糸 杜子春』(新潮文庫)に収録。古典の元ネタはない、掌編です。
「私」ははっきりと何で、とは語られないながらも「云いようのない疲労と倦怠とが、まるで雪曇りの空のようなどんよりした影を落としていた」心境の中、汽車に乗って出発を待っている。だが発車の汽笛が鳴ったのち、「けたたましい日和下駄の音」とともに、「十三四の小娘」が「私」のいま寛ごうとしていた二等室の戸を開けて、入ってくる。
腹立たしいが為にその娘を見ながら、下品だし不潔だと頭の中で並べ立てるのだけど、彼女から意識を逸らそうと夕刊を見渡せばまた憂鬱な内容ばかり。
この隧道の中の汽車と、この田舎者の小娘と、さうして又この平凡な記事に埋つてゐる夕刊と、──これが象徴でなくて何であらう。不可解な、下等な、退屈な人生の象徴でなくて何であらう。
しかし、この鬱屈した空間は小娘が窓を開けようとしたところから変わり始めます。
掌編ですから、粗筋は言えてここまでです。ただすぐに読める上に、後味が良いのでファンがとても多い作品だと思います。
私もとても好きで、とにかく芥川さんってこんな人だったんだろうなと好意をもって読んでしまう、思い入れの深い作品です。
「偸盗」
写真の中では、表紙おきをしている『地獄変・偸盗』に収録。こちらも『今昔物語集』に元ネタがあるとされています。実際、羅生門も登場しますので、あの同じ平安時代の物語だと思っていただければわかりやすいと思います。
河童忌の特集を前に先生(ポラン堂古書店主)に芥川さんのおすすめは? と訊いたところ即答されたのが「偸盗」でした。恥ずかしながら私はそれまで知らなかった作品で、首を傾げてしまったのですが、本当に面白く大好きだと熱意を込めて薦めていただきました。
で、読み終わってなんですが、この作品は映画化とかしないんでしょうか。
なんでもっと有名じゃないのか、はなはだ疑問でならない。それほどに面白かった。
芥川龍之介が長編小説を完成させることはできなかった、のは有名ですが、中編だとしてもみっしりと人間模様の詰まった群像劇になっています。
偸盗とは、盗賊のこと。疫病や飢餓の蔓延する平安京に、偸盗として生きる兄弟がいます。兄の太郎と弟の次郎、彼らは偸盗の頭である容姿端麗ながら残忍な性格の女性、沙金に惚れ込んで込んでしまっています。
沙金は奔放で、誰にでも身体を任せてしまうような女性です。沙金の為に盗みも殺しもする太郎は、これまで彼女の奔放さを目をつぶって見過ごしていましたが、その誘惑が次郎にいき、二人が関係を持ってしまったとなると話が変わってくる。沙金も弟も失うとなれば、弟を敵として殺すしかないという結論が目の前に迫っているのです。
次郎もまた、沙金に会うたび、兄にすまないと思っている。沙金とも太郎とも別れて東国へ下れば、誰も憎まずに楽になれるだろうとか、何ならいっそ太郎に殺されたいとすら思っています。しかし一度関係を持ってしまった為に、沙金の心が自分のほかに移ることも許せないともなってしまうのです。
そうしてある屋敷に盗みに入る折、次郎は沙金がその屋敷の者と話しているところを見てしまいます。彼女は今夜その屋敷に盗みに入ると自らばらしてしまったのだと言うのです。そして、どうしてそんなことをしたのか、と問い詰める次郎に、あなたのために太郎を殺す、という企みを話すのです。
そうして侍たちが待ち構える屋敷に偸盗たちは向かうのですが……。
ここまでで頁数にしてまだ半分もないのですが、相当に重厚で濃ゆい愛憎劇です。
家というかどれも脆そうな小屋たちや、蠅の飛ぶ羽音や、彼らの鬱屈をさらさらと砂塵が撫でていくような風景が良い。太郎と次郎で沙金を慕う心境が異なるのも、互いへの感情やその感情への道筋が異なるのも良い。沙金が、その美貌以外に散々に語れそうな彼女が、それはそれでまた魅力的に見えるのも良い。『芋粥』の利仁もそうですが、翻弄する側というのが物語テーマとして不要なほどに只の悪党をしていないというのが、芥川作品の巧みさなんじゃないかと思えます。
この後、この屋敷に入り案の定偸盗たちは窮地に陥るのですが、まぁなんていうか、稲光がさす程にかっこいいシーンがありまして、シーンと言ってしまうのは、そこでもう映画やん、となったからでして、実際に調べてみると『美女と盗賊』という映画が1952年に上映されているようですが(太郎:森雅之、次郎:三國連太郎)、ちょっと画で観た過ぎるぞと昂奮した場面でした。
三人以外の登場人物もおり、彼ら彼女らの結末に至るまで、凄まじい筆力をもった作品です。とにかく読んでいただければ。
ということで、濃く人間を描写しながらも、ストーリーとして整頓された起承転結を見せてくる芥川龍之介の作品たち、その一端の紹介でした。
35歳で自らその短い一生を閉じた彼ですが、「歯車」や「ある阿呆の一生」などその手で死を選ぶ寸前までの文章たちが世に出ていることや、一方で、それこそ芥川賞をつくった菊池寛など彼に敬意をもって彼を慈しんだ友人がたくさんいたこと。このような背景も見え、鋭い感性をぶつけられると、多くの文学者や読書家がハマってしまう感覚がわからなくはない気がします。
けれど、そんなことはさておいても──さておいていいと思うんです──、とにかく出来のいい、彼がたった数年でたくさん世に出した面白い短編中編を味わう贅沢を、享受しましょう、しなきゃ損ですというわけです。
どなたかの手に取るきっかけになれば幸いです。それではまた。