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古代エジプトと、日本の神話の世界

2024.11.09 07:45

https://www.asahi.com/event/DA3S14820455.html  【日本と重なる、この世の始まり 「国立ベルリン・エジプト博物館所蔵 古代エジプト展 天地創造の神話」】より

 古代エジプトと、日本の神話の世界。時代も場所も異なる壮大な神々の物語に重なり合うところはあるのか――。東京・両国の江戸東京博物館で、約3千年にわたる古代エジプトの名品約130点を展示している「古代エジプト展 天地創造の神話」にちなみ、監修者の近藤二郎早稲田大学文学学術院教授と、古事記の研究で知られる古代文学研究者の三浦佑之さんが対談。神話の類似点や相違点を語った。

 ■生と死、コントラストくっきり 展覧会監修者・近藤二郎さん/来世との境の「戸」、古事記にも 古代文学研究者・三浦佑之さん

 近藤 展覧会は天地創造の物語だけではなく、古代エジプト人の精神世界や死生観、思想、宗教にも焦点をあてて掘り下げました。

 三浦 面白いと思ったのは、小さな副葬品の「シャブティ像」=[1]=です。埋葬された人にかわって農作業をする人形だそうで、死後の世界も働かされるのか、こりゃつらいなと。死後の世界観への考え方が、日本の神話の中の世界と違うのかなと思いました。印象的だったのは木棺や、冥界の指南書の「死者の書」=[2]=などにびっしりと書かれていた文字(ヒエログリフ)で、文字の威力を感じましたね。

 ――エジプトの気候が思想にどう影響しましたか。

 近藤 古代エジプト人は緑豊かなナイル川流域に住んでいました。砂漠や高地もあり、国土にコントラストがはっきりしています。晴れているから毎日、朝日と夕日が見られ、太陽が再生の象徴になっています。すべてが二元論的に考えられました。生と死、南北などが明快な世界です。

 ――古代エジプトと日本の神話の相違や類似点は?

 近藤 世界の始まりは混沌(こんとん)としていて、原初の海の「ヌン」がありました。具体的な海をイメージしたというより、ナイル川であり、地中海でもあったのでしょう。

 三浦 古事記では、泥の海から葦牙(あしかび)のように萌(も)えあがってきたものが、人の誕生を語っています。何もない所に葦の芽が出てくるイメージが最初の生命として意識されたのですね。黄泉(よみ)の国(死者の国)に行ったイザナキが人のことを「青人草(あおひとくさ)」といいますが、青々とした人である草は、枯れてもまた生えるととらえ、種が落ちてもまた芽吹くように循環的な生命を意識していたのではないでしょうか。

 ――神々と人の関係は?

 三浦 日本の神話では高天原のアマテラスオオミカミの子孫が地上におりてくる天孫降臨という、垂直的な構造がありますが、それ以前の時代では、海から神々がくるという水平的な構造がありました。古事記は、その二重構造が織り交ざっています。古代エジプトはどうだったのですか。

 近藤 神々が住む世界と、人間が住む世界が同じところにあると考えられていました。ただ、次元が違うという感じですね。死者の楽園は葦原、「イアル野」と言いますが、現世と同じところにあると考えられていました。ナイル川が流れ、ナツメヤシが生える現世と同じ楽園が死後もあるのです。現世は仮の世界で、死後の世界が本物だと考えられていたのです。

 三浦 現世と来世をつなぐものとして興味深かったのは「クウイトエンプタハの偽扉(ぎひ)」=[3]。日本の神話でも「戸」は異界との境界として度々、登場します。イザナキが黄泉の国からイザナミに追いかけられて逃げる時も、この世との間に大岩を置いて「事戸(ことど)」を渡し、絶縁しました。「言葉による戸」、別れの言葉を言ったのです。

 ――エジプトでは再生に備え、肉体を保存するためにミイラが作られました。

 近藤 死の世界である砂漠が人の住む所に隣接しています。死はすごい恐怖だったのでしょう。古代エジプト人はたくさんの神様を創造し、護符を並べ、再生のオシリス神=[4]=と同じように木棺の顔を緑色にし=[5]=、さらに「死者の書」も作るなど、死後の再生に力を注いでいます。

 三浦 再生にかける情熱はすごいですね。日本の古代の人たちがそこまで死後の世界に情熱を燃やしたかというとよく分からない。湿潤な気候の中で、人間は死んだら腐ってなくなるというのが、自然に分かっていたのでしょうか。

 近藤 死を見つめることは生を見つめること。コロナ禍の今だからこそ、展覧会で生死について考える良い機会になると思います。(聞き手・山根由起子)

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 こんどう・じろう 早稲田大学文学学術院教授、同大エジプト学研究所所長。1951年、東京都生まれ。76年から40年以上にわたってエジプト各地で発掘調査に従事。著書に「ものの始まり50話」「エジプトの考古学」「古代エジプト解剖図鑑」など。

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 みうら・すけゆき 千葉大学名誉教授。1946年、三重県生まれ。千葉大学、立正大学教授など歴任。「口語訳 古事記(完全版)」で第1回角川財団学芸賞受賞。著書に「古事記を読みなおす」「読み解き古事記 神話篇(へん)」など多数。長女は作家の三浦しをん。

 <古代エジプト神話> 宗教都市ヘリオポリスにおける創世神話では、原初の海ヌンに自力で出現した創造神アトゥムから、大気の神と湿気の女神が生まれた。オシリス神話では、弟セト神に殺されたオシリスが妻イシス女神によりミイラとして復活する。古代エジプト人は太陽は西に沈んだ後、船に乗って冥界を東へと旅し、毎日再生すると考えた。

 <古事記(712年)・日本書紀(720年)の神話> イザナキとイザナミの兄妹神が神々を生んで国土を創成する。火の神を生んで死んだイザナミをイザナキが追って黄泉の国に探しに行く。スサノオのあまりの傍若無人ぶりに、姉神のアマテラスオオミカミが天の岩戸にこもる神話や、スサノオのヤマタノオロチ退治、海幸彦と山幸彦の神話などがある。


https://www.surugabank.co.jp/d-bank/event/report/160901.html【仏教の源流を求めて】より

戦後の競争世代といわれてきた団塊の世代が定年を迎え、それぞれが第二の人生を考えるとともに、終着点である「死」を意識するようになった。仏教の祖である釈迦もわからないと言った「死後の世界」は、古代から人類永遠のテーマとして考えられ、さまざまな信仰を経て現在に至っている。宗教の発展は、まさに現実に生きている人間と必然として理解される「死」との相克に立脚しているといっても過言ではない。仏教の祖 釈迦は、インドの王族の王子として生まれたが、出家し高貴な身分を捨て、修行の道に入った。その釈迦がはじめた仏教の起源ははたしてインドの固有の思想なのだろうか。今回は、釈迦以前の古代文明であるエジプト、メソポタミアに仏教の源流を求めながら考察していただいた。

釈迦の教えと古代ギリシア文化が融合して生まれたガンダーラの仏像

d-laboでは3回目の登壇となった細矢隆男氏。今回は「仏教の源流」をテーマに「あまり本には書かれていない」という古代エジプトやメソポタミアが仏教にもたらした影響について、それを示すさまざまな美術品や遺跡などの画像を見ながら語っていただいた。

仏教の開祖である釈迦が生きたのは紀元前485年前後から405年前後。若かった釈迦が山にこもって断食修行をし、下山した後に菩提樹の下で悟りを開いた話は有名だ。インドの博物館には瞑想中の釈迦像が保管されている。あばら骨が浮いた姿からは苦行の凄まじさが窺われる。この仏像が造られたのはパキスタンのガンダーラ地方。悟りを開いた釈迦は、その後、弟下たちに教えを説き仏教をこのガンダーラを含む周辺の国々や地域へと広めていった。やがてそこへやって来たのがアレキサンダー大王。ガンダーラに持ち込まれた彫像技術などの古代ギリシア文化と釈迦の教えが融合して生まれたのが、世界最古と言われているガンダーラ産の仏像だったという。

「このガンダーラの仏像というのは日本の古美術界でも大変に人気が高く、欠片や顔だけのものなら今でも市場に出ています」

その後も仏教は中央アジアから中国へ、スリランカから東南アジアへと広まっていく。4世紀頃には朝鮮半島に達し、6世紀頃には日本へと伝来する。ここまで広く信仰されたのは、もちろん釈迦その人の教えが優れていたからだ。

「お釈迦様はもともとマガダ国の王子でした。しかし、苦しんでいる庶民を見て修行に入り仏教の開祖となった。そういうところが人々の尊敬を呼んだんでしょうね」

古代エジプトと仏教との共通

一方で、釈迦が始めた仏教は、その後さまざまなものの影響を受けてそれを取り込んでいく。その源流となったのが古代エジプトではないかと細矢氏は考えている。

たとえばピラミッド。階段状のピラミッドといえば最初に思い浮かぶのはエジプトだが、「実は日本にもある」という。場所は奈良。遠い古代エジプトの文化がどうやって日本に伝わったか。その答が仏教にあるであろうことは容易に想像がつく。

ピラミッドの特徴は正三角錐の形状。そのもととなっているのは山。ファラオたちの墓所がある王家の谷にそびえるアル・クルン山がそれだという。この山は谷から仰ぐと頂上が三角形に見える。古代エジプト人たちはそれを母体のふくらみ、山とみて、その子宮を谷の奥と考えた。それゆえに多くの王の墓が谷、すなわち「王家の谷」に集中している。古代エジプトでは死は「魂と肉体が離れること」と考えられていた。だからいつの日か来るであろう再生を信じて遺体をミイラにして保管した。そして彼らは再生は母親の胎内で行なわれるものと考えた。

「だから古代のエジプト人たちはアル・クルン山の下に墓所を造ったり、ピラミッドにこだわったんですね。そこには子孫繁栄や豊穣(ほうじょう)といった意味も込められていたようです」

他にも古代エジプトの出土品を見ると仏教や日本の神道との共通点があることに気付く。そのひとつが「蛇信仰」だ。ツタンカーメン王の内臓を保管したカノポス壺を守った黄金の聖櫃(せいひつ)にはコブラの装飾が施されているし、ラムセス2世の王冠にもコブラがとぐろを巻いている。猛毒を持つコブラはエジプト人にとっては最強の動物。そこから生まれたのが蛇信仰だった。似たようなものは奈良の仏像にもあるし、出雲大社の注連縄(しめなわ)は絡みあった二匹の蛇を象ったものだと言われている。

こうした共通点の中でも興味深いのは死後の世界に対する考え方だ。仏教の阿弥陀信仰では死後の世界には極楽と地獄があることになっているが、実は釈迦は「そんなことは言っていない」という。

「お釈迦様はお弟子さんから、死んだら人間はどうなるんですか、と訊かれて、私は死んだことがないのでわからない、と答えています。阿弥陀様の世界、浄土教はお釈迦様の世界ではないんですね」

阿弥陀信仰となって伝わった古代エジプトの死後の世界

では、極楽と地獄という概念はどこから来たのか。それは古代エジプトのオシリス神を見ればわかる。エジプトでは人は死ぬとナイル川の東岸から西岸へと渡り、そこで冥界の王であるオシリス神によって地獄か極楽のどちらに行くかを裁かれる。何に似ているかといえば、三途の川や閻魔大王。紀元前数千年の昔に古代エジプトで考えられた死後の世界が、仏教の中では浄土教となって日本に伝わった。ここはそう考えるのが自然だろう。

「古代エジプトでは死者の魂をあの世に運ぶのはバーという人の頭を持つ鳥ということになっていました。仏教にも同じ鳥が迦陵頻伽(かりょうびんが)という名前で存在します。中尊寺金色堂の藤原清衡の祭壇にも国宝の華鬘(けまん)という形で残されています」

パピルスなどにある「死者の書」を見ても、縦書きのヒエログリフはほとんどお経のように見える。遡ぼって考えると経の原点はこの「死者の書」にあるのかもしれない。

また日本でも文様などでお馴染みの蓮は、古代エジプトにおいてもよい香りのするものとして貴族に愛された。それだけではなく、正倉院にある柄香炉(えごうろ)や、鎌倉室町時代の板碑など、古代エジプトでも見られるものが日本には数多くある。由来が定かでないと言われている諏訪の御柱も、推量していくとエジプトの神殿にあるオベリスクによく似ている。

こうした中で、いちばん注目すべきは宮殿や陵墓の位置関係だ。エジプトのルクソールを見ると、ナイル川を挟んで東側にカルナック神殿があり、西側に王家の谷がある。そこには川の東岸は現世であり、西側は死者たちの世界という考え方がある。同じように日本の飛鳥・藤原京を見てみると、やはり飛鳥川を挟んで藤原宮跡と高松塚古墳などの王族の陵墓が対峙している。どちらもポイントとなるのは川の存在だ。

「西という字は逆さにすると〈しに〉。日本にも古代エジプトと同じような考え方があったことは間違いない。仏教にはそれが深く根ざしているのだと思います」

セミナー中は、細矢氏のコレクションであるガンダーラの2~3世紀の舎利容器(しゃりようき)や、ミイラとともに棺に入れたというオシリス神やオオカミの顔をしたアヌビス神の護符(ごふ)、「ムスク」と呼ばれる香、神殿で日没に焚かれたという没薬、キリスト誕生の際に東方の三賢人がマリアに贈ったという乳香などを展示。参加者に直接手で触れてもらったり、香りを楽しんでもらった。