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「宇田川源流」【大河ドラマ 鎌倉殿の13人】 「梶原景時の変」をかなり「吾妻鑑」に忠実に表現したドラマ

2022.07.26 22:00

「宇田川源流」【大河ドラマ 鎌倉殿の13人】 「梶原景時の変」をかなり「吾妻鑑」に忠実に表現したドラマ


 毎週水曜日は、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」について、好き勝手書いている。ある意味で、第二章といわれる源頼朝の死後は、北条義時がどのように「鎌倉」と「北条氏」を守ってきたかということ、つまり、「ライバルをどのようにして排除したのか」ということが描かれていることになる。つまり、毎週のように誰かが死んでゆくということになる。何しろ梶原景時は正治元年(1199年)に失脚し、正治2年(1200年)に梶原景時の変で討ち死に。三浦義澄は正治2年(1200年)に病死。安達盛長も正治2年(1200年)に病死。比企能員は頼家の乳母父・岳父でありながら比企能員の変で1203年に忙殺される。また、和田義盛は建暦3年(1213年)に和田合戦で討ち死にするのである。要するに、今回か次回で安達盛長も三浦義澄も病死してしまうということになるのである。

その中の初めが「梶原景時の変」である。

まず史実では、このようになっている。

頼家と有力御家人との対立が元で不祥事が続き、これを嘆いた結城朝光が「忠臣は二君に仕えずという。故将軍が亡くなった時に出家遁世しようと思ったが、ご遺言により叶わなかったことが今となっては残念である」と言ったことが景時に伝わってしまう。朝光の言葉に激怒した景時は、これを頼家への誹謗であると讒言し断罪を求めた。

 このことを知った御家人たちは怒り、三浦義村、和田義盛ら諸将66名による景時排斥を求める連判状が頼家に提出された。頼朝の死後、頼家の元でも継続して権力を振るう景時に対する御家人の不満として噴出したのである。11月、頼家は景時に連判状を下げ渡すと、景時は弁明せずに一族とともに所領の相模国一ノ宮の館に退いた。

 正治2年(1200年)正月、景時は一族を率いて上洛すべく相模国一ノ宮より出立した。途中、駿河国清見関にて偶然居合わせた吉川友兼ら在地の武士たちと戦闘になり、同国狐崎にて嫡子・景季、次男・景高、三男・景茂が討たれ、景時は付近の西奈の山上にて自害。一族33人が討ち死にした。『吾妻鏡』は、景時が上洛して九州の軍兵を集め、武田有義を将軍に建てて反乱を企てたとしている。しかし土御門通親や徳大寺家といった京都政界と縁故を持つ景時は、都の武士として朝廷に仕えようとしていたとの説もある。梶原一族滅亡の地は梶原山と呼ばれている。なお、吉川友兼が景茂を討ち取った際、友兼が所持していた青江の太刀は、友兼の子孫である安芸国人吉川氏の家宝として伝授され、国宝「狐ヶ崎」として現在に伝わる。

「鎌倉殿の13人」義村も暗躍!あの梶原景時が涙…“名刀”のプライド貫き ネットもらい泣きも

 俳優の小栗旬(39)が主演を務めるNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」(日曜後8・00)は24日、第28回が放送され、歌舞伎俳優の中村獅童(49)がクールに存在感を示してきた侍所別当・梶原景時の“最期”が描かれた。御家人66人が連判状に署名し、景時が追放された「梶原景時の変」。鎌倉幕府初代将軍・源頼朝亡き後、権力闘争から勃発した最初の事件となった。

 <※以下、ネタバレ有>

 第28話は「名刀の主」。北条時政(坂東彌十郎)と比企能員(佐藤二朗)との争いにより、訴訟の取次を行う宿老は、北条義時(小栗)と梶原景時(獅童)の“5人衆”構想から大きく逸脱。“13人衆”にまで膨れ上がった。2代鎌倉殿となって気負う源頼家(金子大地)は、これを自身の力を侮っている結果だと捉えて憤慨。北条時連(のちの時房、瀬戸康史)・頼時(のちの泰時、坂口健太郎)ら“若手6人衆”を側に置き、牽制する。そんな中、13人の宿老たちが集まり、常陸の御家人の土地争いについて評議を行う…という展開。

 景時は「66人の連判状」により罷免、謹慎となった。

 心配した義時が、相模に下向した景時を訪ねる。景時は「それがしの過ちは、己を過信したこと。鎌倉殿と御家人たち、どちらも意のままに操れると思い込み、どちらからも疎まれた」。しかし「捨てる神あれば拾う神あり」。義時が目にしたのは、後鳥羽上皇(尾上松也)からの上洛を促す文だった。

 景時「鎌倉にいても先は見えた」

 義時「いてもらわれば困ります」

 景時「それがしはもはや」

 義時「行ってはなりませぬ!」

 義時の慰留に、景時が涙ぐんだ。

 そして、義村が朝光の裏で糸を引いていた。「しばらく姿を隠せ。すべては、こちらの思い通りに進んだ。例のこと、くれぐれも他言は無用で頼む。実衣殿に相談を持ち掛けたのは、あくまでお主の一存。(そんなに梶原殿が憎いですか?)別に。ただ、あいつにいられると何かと、話が進まないんでね」。義村の暗躍も始まった。

 景時が後鳥羽上皇から誘われたことを知った頼家は、景時を詮議。「忠臣は二君に仕えず。おまえは自分が忠臣でないことを認めたわけだ」。奥州外ヶ浜への流罪を言い渡した。

 正治2年(1200年)正月。景時は竹を斬り、心を決めた。

 景時は、頼家と側室・せつ(山谷花純)の息子・一幡を京に着くまでの人質に取った。義時と頼時は比企館に急行した。

 景時が後鳥羽上皇から誘われたことを頼家に流したのは義時だった。

 義時「(景時が京に)行けば、鎌倉殿は決してあなたを許さない。必ず討ち取ろうとされる。それは、朝廷との争いの火種となる。鎌倉を守るのが、私の役目」

 景時「ひけらかすものではないな」

 義時「誰にも見せず、破り捨てるべきでした」

 景時「刀は、斬り手によって、名刀にもなまくらにもなる。なまくらで終わりたくはなかった」

 息子・梶原景季(柾木玲弥)が一幡をせつの元へ。

 景時「これより、流罪先の外ヶ浜へ参る。小四郎殿、そなたは上総広常の前で、こう申した。我らは坂東武者のために立ち上がったのだと。源氏は飾りに過ぎぬと。忘れてはおらぬな」

 義時「(頷く)」

 景時「己の道を突き進め。置き土産じゃ。これへ。(善児を)おぬしに譲る。(景季に)参ろう」

 景時は笑みを浮かべ、一行と比企館を後にした。義時は頼時に「すぐに兵を整えよ。梶原殿は必ず西に向かわれる。東海道で討ち取る。分からぬのか。梶原殿は華々しく戦で死ぬおつもり。武士らしくな。急げ」。夜、気付けば雪が舞っていた。

 冷静沈着な景時が涙。最期まで“武士のプライド”を貫いた。SNS上には「梶原の目にも涙」「梶原殿の流す涙、きれいすぎて泣いたよ」「義時の前で流した涙を見て、こちらも泣けた」「本気でラスボス感が出てきたな、義村」「三浦義村がダークサイドの魔王になる予感」などの声が続出。反響を呼んだ。

7/24(日)スポニチアネックス

https://news.yahoo.co.jp/articles/9c0dd6b274bb14458bd33aca20f2747d518f6f41

 鎌倉幕府北条氏による後年の編纂書である『吾妻鏡』では、その死に際する記事で「二代にわたる将軍の寵愛を誇って傍若無人に振る舞い、多年の積悪が遂に身に帰した」と記されている。だが『玉葉』によると景時追放の原因とされた讒言は、将軍・頼家にその弟・実朝を将軍に担ごうとする陰謀があることを報告したものであり、景時追放の3年後には北条氏の陰謀によって頼家が追放・暗殺され、実朝が将軍となり北条時政が実権を握っていることから、北条氏に不都合な景時追放の真相は歪曲され、景時を悪人として断じていることが推測される。元々その職務から恨みを買いやすい立場であった景時への、御家人たちの不満に火を付けて煽ったのは時政の娘で実朝の乳母である阿波局であった。

 今回の大河ドラマは、この史実に非常に忠実に再現した。これを「ドラマ」タラ占めているのは、梶原景時役の中村獅童と、北条義時役の小栗旬の演技力によるところが大きい。特に上記の記事に書かれている「名刀」の演技は、まさに非常に大きな意味のある内容ではないか。

間違いなく北条義時は、この梶原景時の時点では「豪族をまとめて二代目の将軍である源頼家を盛り立てよう」と考えていたに違いない。演技上はそのように見られるようになっている。まさに、武士のプライドを貫いた梶原景時と、何とか元に戻すと思いながらも、朝廷に使えようと鎌倉を裏切る梶原景時を止められず、そのまま殺してしまう、いや殺さなければならなかった義時をうまく演じているということになる。

そして、実依が結城朝光に半分恋心を抱きながら三浦義村に助命を願うこと、また、その時に北条時政とその妻りくが、策略をして自分だけ訴状から外すことなど、様々な裏がある。この「裏」こそが、そのまま次のニア用につながることになる。このりくが問題になり、「牧の方事件」に繋がり、北条義時が父時政を追放することになる。そしてそれ以前に源頼家が豪族の信頼を失う。その信頼を失うことに最も心を砕き、内部の分裂を避けようとする北条義時や、北条政子と頼家の対立がどのように描かれるのかということがなかなか興味深い。

実際に、梶原景時の変、つまり今回の3年後には、みなもとよりいえは、伊豆の修善寺において幽閉され、そのうえで、風呂に入っているときに暗殺されるのである。その「暗殺」の道具である「善児」を梶原景時殻譲り受けるということが、また今回の伏線として存在しているのである。

なかなか興味深い展開である。しかし、その内容は、全てが「吾妻鏡」にちかい内容になっている。逆に言えば「脚色の必要もなく、かなりドラマティックな時代」であったということになり、それを現代の人に響くよう表現をするのが、なかなか面白いのではないか。