Okinawa 沖縄 #2 Day 199 (02/08/22) 旧宜野湾間切 (17) Nakahara Hamlet 中原集落
旧宜野湾間切 中原集落 (なかはら、ナカバル)
- 中原公民館
- 旧中原集落跡
- シキルガー跡
旧宜野湾間切 中原集落 (なかはら、ナカバル)
中原集落は石灰岩の台地上に位置し、地形は比較的平坦で山林などは少ない。ガマ (洞穴) が多いという特徴があった。中原は比較的水に恵まれ、ほとんどの家に井戸があり、井戸のない家は近隣の家庭の井戸を利用した。 シキルガーは水浴びや洗濯に利用されていた。水田はほとんどなく、畑が主で、サトウキビを主に生産し、サーターヤー(製糖小屋) で自家製糖をする人々と、サトウキビをトロッコで大山駅まで運び、軽便鉄道で北谷村の嘉手納製工場に搬入する人々がいた。 農業以外にも、バサムチャー (引き) 帽子仲買、石大工などを生業とする人がいた。
中原集落の人口統計は1944年から1953年までしか見つからなかった。それによれば、後に合併する上原集落や赤道集落に比べて、人口は400人程で、4倍から5倍程度とおおきかった。1964年に、旧中原、赤道、上原と合併し新しい中原区が誕生してからは、旧集落個別の人口データはなく、新しい中原区全体のデータになる。下のグラフでは、便宜上、赤道に数字を入れている。戦後はここ10年ほど前まではコンスタントに人口は増加していたが、それ以降は、世帯数は増加傾向が続いているが、人口は横ばいとなっている。
屋取集落であったので、戦前は宜野湾村 (市) の中でも、中原、赤道、上原ともに、人口は少ない地域だった。この三つの村が合併して、ようやく宜野湾市では人口は真ん中ほどの区となっている。
集落の井戸はもう一つあり。アンガーがアブガーの少し南にあった。
琉球王統時代、中原は神山と喜友名にまたがる屋取集落だったので宜野湾ノロの管轄地域ではあったが、御嶽や殿はなく、宜野湾ノロによる祭祀行事はなかった。
米軍の捕虜となった人々は、県内各地の収容所から野収容所へと集められたが、元の居住地には戻れず収容所生活が続いた。数年で移動許可のおりた集落もあったが、中原は許可がおりず、 1948年 (昭和23年) 2月29日に赤道の一部へ居住することとなった。 その後も移動許可はおりず、かつての家屋、水源、生活の糧などのすべてを奪われる形となった。 中原の住民は、現在の中原区公民館あたりに多く居住している。集落をすべて奪われた中原は、1964年 (昭和39年) の行政区再編で上原、赤道と合併し、行政区中原となって現在に至る。
中原集落訪問ログ
中原公民館
戦前に中原集落に住んでいた人達は、戦後、帰還する場所が基地に接収されたままだったので、この中原公民館付近に住み始め、この場所に村屋が置かれていた。その後、中原集落、赤道集落、上原集落が合併し中原区となった際に、中原区公民館となった。公民館は建て替え準備中で、今は仮事務所を使っており、この隣の空き地に来週から建設が始まるそうだ。すぐ向こうには普天間飛行場のフェンスが見えている。
旧中原集落
公民館からすぐの所、基地内にかつての中原集落があった。いつか帰れる希望はあったのだろう。元集落に最も近い場所に住み、返還されるのを待っていたと想像できる。日々、自分達のかつての村が変わって行くのを見ていた。どの様な思いで、眺めていたのだろう。その願いは今でも実現していない。基地のフェンス外から集落があった場所を見る。
シキルガー
旧中原集落の東にあったシキルガーは多分この辺りにあったのだろう。基地内で水路が設けられている。
参考文献
- 宜野湾市史 第5巻 資料編4 民俗 (1985 宜野湾市史編集委員会)
- 宜野湾市史 第8巻 資料編7 戦後資料編 (2008 宜野湾市史編集委員会)
- 宜野湾市史 別冊 写真集「ぎのわん」 (1991 宜野湾市教育委員会)
- ぎのわん市の戦跡 (1998 宜野湾市教育委員会文化課)
- 宜野湾 戦後のはじまり (2009 沖縄県宜野湾市教育委員会文化課)
- 沖縄風土記全集 第5巻 宜野湾市・浦添村編 (1968 沖縄風土記社)
- ぎのわんの地名 (2012 宜野湾市教育委員会文化課)