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渋谷昌孝(Masataka shibuya)

善悪になる以前

2022.07.26 15:22
善悪という事実はないことについての考察。ないというのは善悪は事実の解釈であるから、事実自体にそもそも善悪はないであろう。おかしな話のように聞こえる。事実はあると認めるとしても、事実の裸そのものについて善や悪はない。事実の裸とは、まだ意味や解釈の付与されていない純粋な事実のことである。どうしてこのような道筋に至るのかと言うと、まず、もっとも初めの段階においての事実と、それに与えられる意味を切り離して考えたからである。はじめから事実に意味が包摂されているわけではない。伝統的に事実に意味を伴って解釈するという慣習に則っているから善悪という事実がはじめからあるように錯覚してしまっている。純粋な事実の側からみるならば、一方的に意味が与えられ解釈されているが、事実そのものになんの色彩などなく、勝手に個別の色が与えられてしまっていることになる。

だから善なる事実とか悪なる事実などというものはないことになる。例えば、人殺しという事実は悪であるという。事実は人を殺したことで、この事実に与えられた意味は悪ということになる。人を殺すという事実自体には本来、ここに意味も解釈もあるはずがない。よって善とも悪とも判断すらできないはずなのだ。これらはとても非常識な論理に思える。私が問いたいのは、事実と意味は分離しているべきなのに、なぜ事実にはじめから同時に意味も付与されているのかという疑問である。どんな事実であっても事実そのものに意味があるはずがない。事実によって惹き起こされる感情は意味解釈と別のものである。意味は後から加えられるに違いないが、それに先行する事実はいまだ意味を保有していない。殺人とて事実であるから、意味の与えられていない前段階としての事実として考えるならば、善とも悪とも判断できないことになるだろう。

問題が複雑になっているようなので、整理してみよう。善悪と、善悪の事実とは別物だということである。事実には本来なんの意味もないということである。善悪と言うとき同時に善悪の事実をも想起している。しかし、善悪に分類される前の純粋な事実は、依然として善でも悪でもない筈だ。善とか悪は事後的に解釈によって創造されるものであると言いたい。事実に対する意味の付与と解釈や判断は、人間の伝統的な嗜好である言いたい。それにしても慣習的には、尚も事実と意味解釈を一緒にしてしまうのはどうしてだろうか。事実と意味解釈を表裏一体としてしまうのは何故だろうか。(感情についての考察が不十分であるが)。