雪子
その娘は珍しく
格子に背を向け 座る
ここに居る娘達は格子に顔を向けて 座る
行き交う男達にその顔を見せるため
そう座るのだ
足早に
過ぎ去ろうとする男を呼び止めるためだ
そうやって座る
男っつうもんは
覗いて女の顔さえ 見て決めるもの
大概の男はな
一夜限りの女を見つけるに必要なのは 顔だけだ
色気で負かせる様な 顔だ
いやもしも
ちっとばかり
贅沢言うんなら仕草だな
肌の良さ
性格の良し悪し
そんなもん 二の次だ
まずは
毛糸のほつれほどでも
男を引掛けられねえと 続く二も三もねえ
女達はこの格子中で
誰よりも
自分を高く見せようとする
惹きつけなければならない癖は
もう
身についている
自分達に備わった持ち部品を 最大限に振りまく
色気じみた下品さを
男を惹き付ける 正統的な自分の魅力と勘違いしている
そう勘違いしなければ
男は狩れねえ
一人の男も仕留めることなんて出来ねえ
ここでは それでいい
いくらだって勘違いすればいいんだ
勘違いは生きる糧になる
そうだな
外に出たいだけの女は いつしかの自分を忘れられればいい
一夜限りの戯れのためでいいと 自分を見切った女ならばいい
瞬発的な男の欲情を 瞬時で誘い出せばいいんだ
女にとっても
この場所にとっても持ってこいの 成立だ
ここは喰うか喰われるかの世界だ
ここには男という性と
女いう性の二つが存在していて
その相反する性の間に
常に駆け引きが存在している
自分の性に対して
どんな責任を持ってやって
どう使うのか
どう扱ってやるのか
その違いがあからさまに現れる場所だ
ここでの責任は最終的には自分にしかねえ
指図に従うことであったとしても その指示を
どう自分に馴染ませるかは
娘それぞれ次第だ
ここの駆け引きは
男の世界と違って殺し合う事は
そうそう無い
戦が広げられている訳でもない
勇む指揮を執る者も居ない
足踏む地が流れ出た
血を吸い上げる事もない
男と女の世界の違いだ
見える世界か
見えない世界か
水面下で行われる精神の駆け引きは
ちっとも
血生臭くはねえ
鉄の匂いが鼻をつくこともねえ
だけどな
この世界には休みどころがねえ
肉体を喰らう者が居て
精神を喰らおうとする者が居る
男相手に黙って喰らわれる者もいれば
上手に喰われる振りをして男を喰う者もいる
口元まで容易く運ばれる事を許し
喰らわれる寸前に
懐から
心から
内臓まで吸い上げちまう
そんな
器用な女もいるもんだ
男が女を道具として扱う傍ら
女も男をうまい具合に使いこなすことを考えてる
女のやり口は
男ほど単純じゃねえ
単純なのが男ってもんだ
もちろん
中には単純じゃねえのも居る
女の欠片を
何かのきっかけに持った男はやたら
単純さが効かねえもんだ
小賢しい
そういう男は上へとのし上がる
うまい具合にな
金を手に入れ男女問わず顎で使いこなす
てめえの手は汚さねえ
賢さにヘドロが付いちまう
金に寄り付く者達があってこそ
成り立つ男ってえもんがある
女の駆け引きに飲み込まれちまったら
色香にのぼせた男には
到底太刀打ち出来るはずはねえ
捕食者と非捕食者の表面上の関係は
時として崩れ
女が持つしたたかさが捕食者を時として喰らうもんだ
非捕食者に捕食される
捕食者というものは
瞬発的な飛びつきによって動かされる
単純さが在るためか
非捕食者を弱者として決めつけているからか
喰われた後でも
非捕食者を悪として責め立てることはねえ
むしろ
かばっていたりするもんだ
自分の立場と商売女との立場を
忘れていたことにさえ気づかない
哀れなもんだな
潔く骨だけになっちまったほうがいい
商売女たちに
熱を上げる男っていうものはいただけねえ
ここの女に惚れるはずがねえ
ここの女は商売女だからな
所詮身売り女
どの男に対しても同じことをしているからな
勘違いしちゃあならねえ
だまされちゃあならねえ
所詮商売女
汚ねえ 汚れた女達だ 唾のついた女
そう割り切って
男達は一線を引きながらここの門をくぐってくる
それが
いつしか
一夜のつもりだったのに 心まで一線を越えてしまう
心まで
門を潜らせちまったら 戻りを知らねえ
迷子になっちまうのは
子供ばかりじゃねえんだ
後の祭りだ
おいでおいでってすりゃあ
ついてくる
悪い女は巧に純粋男を手玉にとるもんだ
外へ連れ出してもらった途端女は消える
男に残るのは
今はいない女のためにと 借りた多額の銭のみだ
いただけねえ 話だな
どうにかしてでも
外に出たい
そう願うのが
ここに居るほとんどの女達の想いだ
いいや私は
そう思わねえ
外に出たいと思う事はねえ
期待や希望は
この身と一緒に
この木蓮格子の中へと 投げ入れた
外への憧れが
ここでの生活を惨めにさせるならば
外を
ここ以上にひでえ場所だって思えばいい
思い込みを
あたかも本当だっつって 嘘っぱちの実感にしちまえばいい
書き換えだ
持ってきた外の記憶を
都合いいもんに書き換える
忘れ去ればいいこと ただ それだけだ
外から見たら
ここに居る女達は皆同じ 女 に見えるだろうな
ここの中へと 来ることが無ければ
ここの女は皆同じ として見ていただろうな
中に入って初めて分かることが在る
女達には
女の数の分 違いがあるもんだ
違いは見えやしねえ
見せやしねえ
見せる必要はねえ
けどな
そんな違いを
感じちまったら 触っちまったら
記憶に残るんだ
記憶の中
鮮明に残っている女が一人 居る
その娘の名前は雪子と言った
雪子と書いて‘せつこ’と読む
歳は私より一つ二つ上だ
雪子は 格子の外へと 顔を向けることなく
座る娘だ
その名の通り雪子の肉体は
雪の様に白い皮膚に包まれていた
日差しを知らないで
生きてきたかの様に
お天道さんから引き継いだ
一つの
名残が彼女には 無い
抜いた襟元から見える肌は
生地柄を 引き立てていながら
彼女の生身を際立たせ 見せつける
深い藍の色をした着物の下に隠されている
生の身が見たい
そんな願望に駆らせる
格子から差し込む
陽光は雪子の背にあたる
陽光でさえ
申し訳なさそうに 白い肌にあたる
雪子は時折
ふと
顔を格子へと向ける
男が居ようが居まいが この娘は時折そうする
ふと 見上げる様に
顔を格子へと向け
ふと 格子から顔を逸らす
雪子は感情というものを 多くの女達へ見せない
雪で覆ってその地肌を見せていないように
感情も残雪へ埋め込んでいたのかもしれないな
「せっちゃん」
声をかける
雪子は私の方へ 腰から振り向く
「来んの?」
尋ねる私に
せっちゃんは 優しく笑みを浮かべた
「久ちゃん 来んのよ」
そう言うと再び外を見た
せっちゃんには
想い人がいる
その想い人もせっちゃんを 想ってる
その男は
時折せっちゃんに 逢いに格子前へやってくる
銭出して逢いに来るのとは 別もんだ
別格だ
格子が在っても
男にはせっちゃんが商売女には映っていねえ
格子は二人の障害にはなっていねえ
気にしてねえのか
気にしてねえ振りを
上手にしているのか分からねえ
でも
この男はいずれ せっちゃんを外へ出すつもりでいるのだろう
そう私は思っていた
ある日
せっちゃんは
珍しく 息を切らしながら 私の元へ走り寄ってきた
そして 私の腕を掴んで別の部屋へ連れて行った
「久ちゃん 来い」
言葉少ないまま私を引っ張った
「何な?」
私は尋ねた
せっちゃんは 息を上げ私に何かを話そうとしていた
胸に手を当て
心臓の動きを
宥めている様に見えた
「久ちゃん あのな せいいっさんがな」
せいいっさん
せっちゃんの想い人のことだ
誠一さんをせっちゃんは せいいっさん と呼ぶ
せっちゃんは
そう言うと私の耳元へ近づいた
そして小声で
「そう遠くない先 私を買い取るつもりだって
目途が立った そう言ってくれたの」
約束事をしたんだ
形ある約束だ
本物の約束だ
「せっちゃん 良かったな」
せっちゃんは普段
絶対に見せない涙を 一つ見せた
ふくらんだ頬っぺたを赤くして
喜びというものを 見せた
せっちゃんの見せた涙は
ここに来て
私が見てきた涙とは違うもんだった
私がいつも見ている涙とは
質の違う涙だった
その涙にくぎ付けになった
女が喜びのために流す涙 幸せの涙っつうもんだ
幸せの涙
なのに
泣き顔ってきたらさ
対して変わらねえ くしゃくちゃにしてな
泣き顔は皆同じなんだな
私は笑った
せっちゃんも泣きながら
笑った
せっちゃん 幸せになってな
きっと
あの男ならせっちゃんを離しやしない
せっちゃんは
絶対に幸せにならねえといけねえ
私達二人は小さく 静かに喜び合った
喜びを分けてもらった
この時だけだった
普通の娘 に戻れたのは
そのほかに 覚えがねえ
せっちゃんは
それからも誠一さんと目合いを重ねていた
せっちゃんの顔に笑顔が増えていった
雪解け前の笑顔
私も嬉しかった
嬉しくてな
せっちゃんと誠一さんは 希望のようだった
幸せの証みてえだったんだ
それから幾月経って
せっちゃんの体調がおかしくなった
熱が続き床に伏せる様になっていた
ある日
せっちゃんは誰にも告げる事無いまま 一人別部屋に移された
せっちゃんの存在が 消えた
姉さんには
行くなと言われていたが
私は黙ってせっちゃんの部屋へと出向いた
「せっちゃん 大丈夫か」
少し開いたふすま越しに 声をかける
「来んで 久ちゃん」
せっちゃんの声が 私を追い返そうとする
「せっちゃん どうかしたのか 痛いのか 辛いのか」
「来んで 近寄っちゃなんない」
「なあ せっちゃん 今日も 誠一さん来てた
せっちゃんを探して 居ないから帰って行った 何度も来てる」
少しの間が空いた
そして
「なんでえ なんでえ」
吸い込まれる息と共に 聞こえてきた
「なんでえ 私 こんなにならなきゃ ならんかった なんでえ」
震える言葉が聞こえてきた
「せっちゃん 誠一さんに何か伝えるか」
「言わんといて 私の事は言わんといて 久ちゃん 何も何も言わんといて」
ついこの間
喜びで泣いていた娘が
今
苦しみの涙を落としてる
駄目だと言われていたが 私はふすまを開けた
「来んでって言ったのにい」
せっちゃんは横たわったまま 大きく叫んだ
白い布団の上に横たわる せっちゃんの姿が そこに在った
せっちゃんの皮膚は赤くただれ
剥がれ落ちる様にめくれていた
顔の真ん中がひどく赤黒くなっている
まるで
陥没した土壌のようだった
せっちゃんの白い肌が 血肉をより際立たせる
私は固まってしまった
「ああ 久ちゃん来んでって言ったのに 久ちゃん 来んでって」
動けないせっちゃんは その場で 力なく言葉を震わせた
顔を覆う手首が震えている
疫病だ
私は目を閉じた
なんでこんなことが
起こらなければならなかったのか
「せっちゃん」
「久ちゃん 誰にも言わんといて 誠一さんにも私のこと言わんといて」
せっちゃんの声は
手で覆った顔の下から 聞こえてきた
「いいのか せっちゃん」
「うん」
せっちゃんは力なく頷いた
言葉がねえ
言葉がいねえ 探したって見つからねえ
どこいっちまった
「なんで 私こんなにならないと いけなかったのん?」
せっちゃんは 私に聞いた
言葉が左心臓部を突き刺す
負かされた声は
床下に落ちた
そして
泣いた
肩を小さく 震わせて 泣いていた
覆っていた右手を 顔から外すと
せっちゃんは
右手でお腹を
一つだけ
優しく撫でた
白い布団に体液が移っている
「久ちゃん もう行き ここに来たら いけないの
いらないものを 貰ってしまうもの」
「構わねえ」
私はその場に座った
せっちゃんは こちらを向いて ふと目を細めた
そして
再び天井を向いた
「私 嬉しかったんだあ 久ちゃん
せいいっさんが 私を買うって言ってくれたこと
好いてるなんて言葉はないわよ
だけど それだけでね 嬉しかった」
笑みを見せた
笑みと同時に陥没した顔面がゆがむ
「誠一さん 本当にそのままでいいのか?」
私は尋ねた
「うん」
せっちゃんは 瞳を閉じてそう頷いた
そうか
そのままでいいんだな
それがせっちゃんの望みなんだな
せっちゃん
それが
あんたさんの 本当の 本当の
望みなんだな
私は泣いた
声を上げずに泣いた
唇を噛む
分厚い唇が 前歯で半分に分かれる
「久ちゃん 泣かんでえ 涙
こんな床に落とすにはもったいない」
そう言って笑みを見せた
くそったれだ
この世界は
平等性は
欠片もねえ
幸せを差し出しておいて
目の前で 捻りつぶす
たった一人の娘の幸せさえ
許されねえのか
不平等さを
あからさまに突き付けて
ちっぽけな幸せさえ
見逃さねえようにして
奪い取る
ここの女達には
歩み寄ってくる 幸せにさえ
触れねえようにと 仕組まれているのか
上等なもんだ
上等なもんだ
泣いた
二人で肩を揺らして泣いた
忘れねえ
床に涙は落としやしねえ
これっきりにする
それから 少しして
せっちゃんは
死んだ
雪子は死んだんだ
お腹には赤ん坊がいたそうだ
お母と一緒に赤ん坊も死んだ
ああそうか
あの時
せっちゃんが腹を触ったのは そのためだったんだな
赤ん坊を撫でたんだ 気遣ったんだ
気づいてやれなかったな
ごめんな
誠一さんは
それからも
せっちゃんを探しに 格子を覗きに来た
来る日も来る日も
自分の女を探しに来た
自分のために 在る と信じた女を
探しに来た
私が
胸を痛める権利なんてねえ
雪子の願いを
ただ 胸中で 誓うだけだ
ある日
そんな
誠一さんの姿をみていた 一人の女が
誠一さんに声をかけた
「雪子な 他の男と出て行ったあ」
大声でそう言うと
甲高くけらけらと笑った
はだけた着物と一緒に笑いも こぼれ落ちた
その瞬間
私は他の女を掻き分け
その女につかみかかっていた
女の左頭から簪を抜き
女の左喉元まで持って行った
「雪子を 馬鹿にすんじゃねえ 達の悪りこと言うんじゃねえ
それ以上二人を馬鹿にしたならば
おめえの喉元 割砕いてやる」
喰いついていた
様子を見た他の女達が驚いて
姉さんを呼びに行った
「久子 殺しかねねえ」
声が聞こえる
姉さんは飛んでやってきた
「久子 来い」
姉さんは私を連れて行った
手にした簪を私からつかみ取ると
頬を一発 勢いよくはたいた
「久子 ここで感情を出すな お前を見せるな」
そう言った
「雪子は そんなお前をみたいなんて 願わねえ
雪子は きっと そんなこと望んじゃいねえ」
姉さんの
確信のない言葉でも
雪子が
私を止める
私は唇を噛んだ
姉さんは私の頭に手を乗せた
誠一さんには 何も伝えなかった
せっちゃんが そう望んだからだ
疫病で死んだと 誠一さんに伝えることは
雪子が商売女であったことを 再認識させるようなことだ
哀れさなんて
残したくねえ せっちゃん
お腹にあんたの赤ん坊が居た
なんて今更聞いたって
この先誠一さんは 幸せにはならねえ
二人をいっぺんに 亡くしたことになっちまう
残りの生に 幸の欠片が無くなる
雪子は 消えちまった
いつの間にか
どこかへ 消えちまった
神隠しだな
いつの間にか女達の間では そういうことになっていった
私に尋ねてくる娘も居たが 真実を答えることはなかった
それから幾月経って
誠一さんは姿を 見せなくなっていた
格子を覗く姿はなくなった
諦めたんだ
なあ せっちゃん これで良かったんだろ
時折せっちゃんが
背を向けて座っていた場所に向かって
私は問いかけた
正しいことが分からなくなる
綺麗な娘だった
喜びの涙を流した娘だった
そこには 雪の様に白い
雪子の残像がいつまでも居た
春でも夏でも秋でも冬でも
残っちまっていた
うん
久ちゃん これで良かったの
西日の差す部屋で そう聞こえたことがあった
自己満足なのか おごりなのか
分からねえけど
せっちゃんの声で そう聞こえた気がしたんだ
これで良かった
今も分からねえ
何が正解だったのか 分からねえままだ
誠一さんはあれから
どうやって生きて 行ったのだろう
雪子を忘れて 生きて行ったのだろうか
外の男が愛した内の女
なあ せっちゃんよ
そこからだったら見えんだろう
何が一番せっちゃんにとって
誠一さんにとって
お腹の中に居た赤ん坊にとって
良かったことだったのか
教えてもらえないか
外の女になった せっちゃん
そこからだったら
なあ なんだって
見えんだろ