祖父母の学び舎で ~歴史の歩みを続けるために~
アンドレア・モンダ氏 社説(『オッセルバトーレ・ロマーノ紙』、2022年7月27日)
(試訳)
ルーツ(根源)、源に戻る。
ノスタルジー(郷愁)に浸るためではなく、前に進むため、
人生の課題(チャレンジ)に立ち向かうために。
教皇は、「悔悛(痛悔)の巡礼」三日目、二つの典礼の場の中で、
自分の過去、自分の歴史との健全な関係が、
どれほど大切で根本的であるかを考えるよう呼びかけた。
***
最初の典礼の場、
イエスの祖父母、聖ヨアキムと聖アンナの祝日の朝、
エドモントンのコモンウェルス・スタジアムで捧げられたミサの中で、
教皇は祖父母について話ながら、二つの側面を思い起こした。
一つ目は、「私たちは守るべき歴史の子ら」であること。
「私たちは、孤立した存在ではありません。孤島ではありません。
誰も、他の人々と無関係にこの世に生まれてくる人はいません。
私たちのルーツ(根源)、私たちを待っていた愛、
そして私たちが生まれたときに受け取った愛、私たちが育った家庭は、
私たちに先立ち、私たちを生んだ、唯一の歴史(ストーリー)の一部なのです。
私たちはそれを選んだのではなく、賜物として受け取ったのです。
それは、私たちが守るよう招かれている賜物です」。
二つ目は、「私たちは、守るべき歴史の子らであるだけでなく、
築くべき歴史の手職人」であることだ。
「私たちの祖父母、高齢者たちは、
より正しい世界、より兄弟的な世界、より連帯感のある世界を見ることを望んで、
私たちに未来を与えるために戦ってきました。
今、彼らを失望させないのは、私たちの番です。
私たちのルーツである彼らに支えられながら、実りを結ぶのは、
私たちの番です。
花を咲かせ、歴史の中に新しい種を入れるべき枝は、私たちなのです」。
テーマは「根」(ルーツ)、イメージは「木」である。
***
月曜日、「[イエスの]み心教会」の、
大きな木の切り株の上に築かれた祭壇の前で、
教皇は、すでにこのイメージを使いながら、和解について、
また、イエスが、「十字架上で、
古代のキリスト信徒たちが好んでそう呼んだように、あの命の木の上で、
私たち同士を和解してくださった」と語った。
「あなた方、先住民の兄弟姉妹たちは、
根によって大地とつながり、葉を通して酸素を与え、
その実で私たちを養う木の重要な意味について
私たちに多くのことを教えてくださいます。
この教会の特徴の中に表現されている、木の象徴を見るのは美しいことです。
そこでは、切り株が、大地を祭壇に結びつけています。
イエスはこの祭壇の上で、エウカリスチア(ミサ聖祭)において
私たちを和解してくださいます。
エウカリスチアは、「天と地を結び付け、造られたすべてのものを抱擁し、貫く」、
「宇宙的愛の行為」です(回勅『ラウダート・シ』236項)。[…]
イエスこそ、十字架上で、
考えられないこと、赦せないことのように思われることを和解し、
再び一つにし、すべての人、すべてを抱擁するのです」。
***
教皇は、三日目の話の中でも、一見して他の話をしながら、
この「悔悛の巡礼」の中心テーマに戻る。
祖父母について語りながら、教皇は、
「彼らは私たちの中に、決して消し去ることの出来ないものを伝達し、
同時に、私たちが唯一(ユニーク)、独自(オリジナル)、自由な存在であることを
可能にしてくれました」と述べている。
「このようにして、私たちは祖父母から、
愛は、決して強制でも、内的自由を奪うものでもないことを学んだのです」。
まさに、自己のアイデンティティーを抹殺するプロセスを被ったことによって
傷ついた人々に向かって語りながら、
教皇は、この教訓から、
「個人として、教会としてこれを学びましょう」と強調した。
「二度と、他者の良心(意識)を抑圧しないこと、
二度と、目の前にいる人の自由を束縛しないこと」。
***
この強制と束縛が
まさに、それが決してあってはならない場所、学校の中で起きた。
イエスのみ心教会での月曜日の集いの中で、
教皇は思い起こした。
「教育は、人々の中にすでに存在する才能を尊重し、それを促進することから
出発しなければなりません」。
それは決して、あらかじめ包装されたものを押し付けるものであってはなりません。
なぜなら、教育するとは、
共に、命(人生)の神秘を探求し発見する冒険なのですから」。
学校はまさに、過去と未来が出会う場である。
そして、過去と未来は常に一緒にいるべきである。
過去を根こそぎにし、過去を抹消しながら
若い世代を未来に向かって導くことは出来ない。
これは、カナダの寄宿学校で起こったドラマ(悲劇)である。
悲劇的で良識を欠いた(無分別な)短絡。
それは、成長を始める時期に、祖父母抜きでするような、
いやむしろ、「彼らを排除する」ようなものだ。
それに反して、教皇は私たちに、
「泉」、私たちがそこから来る、祖父母から湧き出る尽きることのない愛情の源泉を示す。
「まさにこの泉から、私たちは、落胆のときに慰めを、
識別において光を、人生の課題(チャレンジ)に立ち向かうための勇気を見出すのです」。
私たちに先立つ人々に目を向ける、謙虚な力をもつならば、
未来は過去を「呼び起こし」、
土台となる源泉(資源)として、浮かび上がらせるものである。
祖父母の「学び舎」は失敗することはない。
だからこそ、未来が切迫し不安にさせるとき、
「常に、私たちが愛を学び経験した、この学び舎に戻る必要があります。
それは、今日、私たちがしなければならない選択を前にして、
私たちが出会った最も知恵ある年配者たちは、私たちの状況でどうするだろうか、
私たちの祖父母、曾祖父母たちは何を私たちに助言するだろうか、
または助言しただろうかと問いかけてみる、という意味です」。
***
火曜日の二番目の集い、ラック・サンタンヌ(「聖アンナの湖」)のほとりでも、
教皇は、「ルーツ(根)」、「泉(源泉)」について語った。
「私たちは今、ここに、この湖の水を見つめながら、沈黙のうちにいます。
これは、私たちが信仰の源泉に立ち返ることを助けてくれます。
実際、想像上で、聖地を巡礼することを可能にしてくれます。
ガリラヤ湖のほとりで、宣教の大部分を行ったイエスを想像することを可能にします」。
ここでの巡礼は、想像の旅となる。
「ですから、ガリラヤの海と呼ばれたあの湖を、
違いの凝縮として想像してみましょう。
そのほとりで、さまざまな背景や社会的階層の人々が出会いました。
漁師や徴税人、百人隊長や奴隷、
ファリサイ派の人や貧しい人、男性と女性。
まさにそこで、イエスは神の国を宣べ伝えました。
選ばれた宗教的人々にではなく、
今日のように、各地から集まってきた多様な人々に、
ここのように自然の舞台で、すべての人に向かって。
神は、世界に向かって、革命的なことを告げるために、
この多面的でさまざまなものが混合している状況を選んだのです。[…]
このようにして、まさにこの湖は、「多様性の混血」として、
かつてなかった兄弟性(兄弟愛)の知らせの場となったのです。
死者も傷者もいない革命、愛の革命の場となったのです。
そしてここで、この湖のほとりで、
世紀を超えて異なる人々を結びつける太鼓の響きが、
私たちをその時代に連れ戻します。
私たちに思い起こします。
離れた人々を結び付けるなら、兄弟愛は真実であること、
天が地に送る一致のメッセージは、違いを恐れず、
私たちを交わり(コムニオ)へと招くこと、
共に再出発するよう招くことを。
なぜなら、私たちは皆、歩みの中にある巡礼者だからです」。
***
私たちは皆、巡礼者として歩みの中にいる。
私たちは、世界の主人ではなく、
世界を賜物として受け取り、
受け取った賜物への感謝から動かされて、
喜びをもってそこを通過しているのである。
そして、皆、一緒に。
「水平方向」において、同世代の、異なるけれど兄弟姉妹である人々とともに、
「垂直方向」において、私たちに先立った人々とともに、
また、私たち自身が、先祖たちの、確かで愛情に満ちた「学び舎」で受け取った
知恵の経験を、私たちから受け取ろうとしている、後に来る人々とともに。