【勇退選手インタビュー】PR 垣本竜哉 「自分のやりたいことを日々探しています」
PR 垣本竜哉
「自分のやりたいことを日々探しています」
垣本竜哉はこの春、27歳で現役を終えた。トヨタヴェルブリッツは4シーズンの在籍。入社1年目はリザーブで3試合出場も、その後、メンバーリストに名前が載ることはなかった。
「出場機会がなかったので、(退団は)想定にはありました」
大阪桐蔭、帝京大と強豪チームで鳴らした右PR。
ジュニア・ジャパン、U20、高校日本代表と、世代のトップを走ってきた。そんな猛者でも、トヨタのフロントロー争いはし烈だった。
「チーム事情でPRの人数は多いけど、LOやNO8は少ない。この3年間、練習試合は正規のポジションでなく、NO8とかをカバーすることが増えていた。ラグビーだから、とずっと頑張ってきたんですけど…」
引退は本意ではない。もっと本来のポジションでチャンスをもらえていたら、という悔しさは残る。
当初は移籍も考えた。チームメートからも「自信を失っているだけ」「試合に出たら楽しさも自信も取り戻せる」と励まされた。だが、今の場所にとどまる決断をした。
「移るのは、大きい決断じゃないですか。100%の気持ちがないと、絶対にいけない。でも今の自分では100%にならなかった。“いったん社業に戻ります”と。ラグビーからほんまに離れてみて、またやりなくなるかもしれない。いまは仕事を頑張りながら、並行して自分のやりたいことを日々探している感じです」
身体を動かすことは続けたいと、すぐジムに入会。自主トレをするCTBマレ・サウの隣で有酸素運動を続けている。
名鑑に記されたサイズは178㌢112㌔。子供の頃から飛びぬけて体格は大きかった。中学時代の体重は130㌔。
「なにかスポーツやらなあかん、と少年野球に入りました」
加入初日にかぶっていたのはジャイアンツの帽子。
「コーチからは名前で呼ばれず“おい、ジャイアンツ、行くぞ“とか言われて、嫌になって」。すぐにやめた。
サッカーも続かなかった。大阪の梅香中でラグビーを始めたのは、自分より大きな先輩がいて、「ダイエットになる」と思ったからだ。そこに赴任してきた酒井康正監督との出会いが人生を変えた。
「めっちゃ弱いチームだったんですけど、酒井先生が来られて、トライをして、試合に勝つ楽しさを教えてもらった」
小さい頃から料理が好きで、ぼんやりと調理師学校にでも行こうかと考えていたある日、監督から「大阪桐蔭が身体の大きい選手を欲しがってるぞ」と聞いた。求められるままに大阪桐蔭へ。酒井監督は日体大時代、帝京大前監督である岩出雅之氏の後輩、ラグビーの縁はさらに繋がった。卒業後はFL吉田杏、CTB岡田優輝と3人で帝京大に進学する。大阪桐蔭からの入学は初めてで、綾部正史監督に「3人で頑張ってこい」と送りだされた。
「帝京大は当時から強くて、最初はめちゃくちゃ怖かったです」
3人とも、そのまま社会人でもチームメートに。
「僕ら、つきあいが長すぎて喋らないから、逆に周りから“仲悪い”といじられるんです」と笑う。
現在の仕事は生産支援部。資材の調達や固定資産などの管理、コンプライアンスを遵守しているか発注の内容を確認したり、購入後の設備の管理などを担当する。
「今は仕事をやること、覚えることで必死です」
もともと発信するのが好きで、TIK TOKなどのSNSも積極的にやっていた。
「いろんなことをやるのが好きなんです。自分のためチームのため、面白いと思ったことをやる」
日本代表対ウルグアイ代表戦では、名古屋市内のパブリックビューイングのゲストも務めた。
「喋るのが好きなので、楽しかったです」
垣本もまた、フロントローの多才を備える。
「僕の中では(選手は)終わったと思っています。これから、どうやってラグビーと関わっていくかまだ分からない。ラグビーから離れて、いろんな世界にいきたいなという思いもあります」
また選手として100%でやりたいと思う日が来ないとも限らない。違う形でラグビーの魅力を伝える側に回る可能性だってある。全く違う夢中になれるものが待っているかもしれない。まだ27歳。すべては心のままに。
かきもと・たつや/1995年4月18日生まれ・27歳/178㌢112㌔/大阪桐蔭→帝京大/在籍4シーズン
文/森本優子