黒田家の刀剣・へし切長谷部
幕末、黒田家は加藤司書や月形洗蔵のグループを中心に長州藩恭順に中心的な役割を果たしましたが、残念なことに藩主がかじを佐幕に切り替え乙丑の獄で勤王派を一掃しました。
幕末の黒田藩藩主、12代黒田長知と11代黒田 長溥(くろだ ながひろ)。
黒田長溥は、島津の有名な蘭癖大名、島津重豪の十三男で黒田家10代藩主黒田斉清の娘の純姫の婿養子となります。幕末から明治にかけての福岡藩はダークサイドの黒歴史があります。
乙丑の獄(1865年)
勤王派加藤司書や月形洗蔵が藩内の実権をにぎり、大宰府において三条実美以下五卿を受け入れ、長州征伐前に長州藩を説得し恭順させる。薩長同盟の世話をするなど筑前勤王党は幕末の政局で中心的な働きをしていた。
大宰府天満宮には黒田官兵衛が居住していた頃の井戸があり、敷地内の延寿王院には五卿遺跡碑がありますが天満宮を訪れる人にもほとんど知られていません。ましてやここで幕末の政局が動いていたとは歴史好きな人くらいしか認識されていません。
延寿王院で坂本龍馬や中岡慎太郎、西郷隆盛、井上門多、伊藤利助、長州・薩摩・土佐各藩の代表的な勤王派が幕府打倒の密議を重ねました。月形洗蔵や加藤司書らのグループは中心的な役割を担いました。
三条実美公が太宰府天満宮に奉納した短刀「村正」
三条公の軍扇、陣笠、水柄杓、これらの展示物で確かにここで政局が動いていたと実感できます。
大宰府天満宮と五卿について(太宰府天満宮宝物館より)
1863年8月18日の政変により長州へ下られた三条実美以下七卿は、第一次長州征伐の降伏条件として福岡藩に移ることになり、生野にて挙兵をした沢信嘉公、下関で病没された姉小路頼徳公を除く五卿三条実美・四条隆謌・三条西季知・東久世 通禧・壬生基修は1865年2月13日に延寿王院に入られました。
現在延寿王院は現在太宰府天満宮の宮司、西高辻邸となっていて庭を覗くと五卿遺跡の碑が見えますが見学はできません。五卿は九州の五藩(福岡・佐賀・久留米・熊本・鹿児島)の警備化にありましたが、延寿王院先住大鳥居27世信全公は三条実美公の父実方公の従兄で五卿を手厚く寓しました。1867年12月19日王政復古により複官上洛まで多くの志士が訪れました。
訪れた志士たち
中岡慎太郎・土方久元・坂本龍馬・西郷隆盛・吉井友実・黒田清綱・江藤新平・伊藤博文
井上馨・野村望東尼・真木外記・真木菊四郎
加藤司書は戦国時代に黒田官兵衛が荒木村重より有岡城幽閉されたおりに牢番をして世話をし有岡城開城時には脱獄の手助けをした加藤重徳の末裔です。
第二次長州征伐を前に幕府から長州寄りの行動を幕府より叱責される。また加藤が指揮する犬鳴御別館の建造を藩主を幽閉する為の城と讒言される。
加藤司書や月形洗蔵グループは切腹、斬首、流罪となり、筑前勤王党は壊滅します。
加藤司書の墓(1830-1865)聖福寺塔頭寺院の節信院
贈正五位は明治維新に功績があった志士に追贈された、ここでやっと加藤司書は日本国の為に真心を込めて働いた事を認められ報われた。明治以降は維新に功績のあった志士や藩主、公家に多く位階を授けています。
三条実美は生前に正一位を贈られ、大久保利通、木戸孝允は贈従一位、坂本龍馬は贈正四位で政治家や殿様ほど上の位階をもらう傾向にあります。明治で三条実美以外に正一位を贈られたのは島津斉彬、岩倉具視や過去に遡り南朝を助けた楠木正成、新田義貞や勤王の象徴である和気清麻呂が贈正一位を賜りました。和気清麻呂も千年以上たって位階の最高位につくとは思わなかったでしょう。
乙丑の獄の資料 福岡市博物館蔵
厳戒内用留 藩内の尊攘派を処分した際の処分内容を記している。加藤司書 切腹などの文字が読める。
追々御所置之一件写 幕末の歌人、野村望東尼の処分内容のページ
1868年に勤王派は復活し佐幕を主導した三家老が切腹して戊辰戦争を迎えます。
官軍の旗 福岡市博物館は写真はOKですがガラスケースに照明が反射して光りました。
福岡藩はこの頃には佐幕派・勤王派の優秀な人材を自ら手をかけて失い、人材難に陥っていましたがそれでも兵を集めて奮闘し、東征大総督・有栖川熾仁親王より船橋での戦いを賞されより一層の尽力を求めます。感状を貰い新政府軍の信頼を勝ち取ります。
有栖川熾仁親王御感状
市川・船橋を巡り新政府軍と旧幕府軍が戦った、船橋の戦いにおいて活躍した福岡藩の隊長中にあてた感状
版籍奉還勅許状
12代藩主・黒田長知が領地と人民を朝廷に返還することを新政府が認めた文書。
明治2年6月に実施された版籍奉還を示す、この後に福岡藩知事に任命される。
福岡藩知事辞令書
黒田長知は福岡藩知事に任命され辞令書を受け取るが明治3年7月に発覚した太政官札贋造事件により(偽札)明治4年7月に免職され廃藩置県までもたず廃藩した。
福岡市博物館のへし切長谷部
天正3年(1575年)黒田官兵衛は主の小寺政職に信長に味方するよう画策した。官兵衛は岐阜城の信長に中国攻めの秘策を進言すると名刀圧切長谷部(へしきりはせべ)を褒美に賜った。
名前の由来は信長が茶坊主を手打ちにしようとして膳棚の下に逃げたところを棚下に刀を入れ込み圧し切った。
黒田 長溥はこの刀を普段使いで使用していた、黒田家は6代目までが血縁でそれ以降は徳川家や島津家、藤堂家から養子を貰っていた。
黒田長溥は藩祖の黒田孝高にあやかり藩祖以来の家臣をまとめようとしていたのかもしれません。