アンドレア・トルニエッリ氏 社説 「先住民の人々、福音宣教、私たち」 (『オッセルバトーレ・ロマーノ紙』2022年7月29日)(試訳)
教皇フランシスコの、カナダにおける「悔悛(痛悔)の巡礼」の中心は、
先住民の人々への、個人的な近しさと、
政府が望みキリスト教会が運営した寄宿舎という悲劇的な実験を通しても
伝統的文化を根こそぎにしようとした
植民地主義のメンタリティーがもたらした惨事への赦しを願うことである。
原住民の人々との出会いは
巡礼の各段階をしるし、心を動かすものだった。
原住民の人々が耐えてきた苦しみと、
すでに始められている和解の歩みへの集中は理解できる。
しかしそれらは、教皇フランシスコの話の中に散在する、
今日、あらゆる地域の福音宣教のために役立つ道を差し出す
いくつかの貴重な示唆を二次的なものにしてしまった。
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教皇は、
信徒たちが「和解を促進する代わりに、世俗化に身をまかせ、
自分たちの文化的モデルを押し付けた」ときに起こったことを
恥ずかしく思うと述べた後、続けて、
「このような態度は、宗教的視点からも、死ぬほど辛いことだ」と強調した。
このようにして、
過去の事実から始まった教皇の考察は、今日についての考察に移る。
つまりそれは、今も存在するメンタリティーなのである。
「人々を神に近づかせるよりも、
神を人々の中に植え付けることの方が都合がよいように思われる、という矛盾。
しかしそれは、決してうまく行きません。
なぜなら主は、そのように行わないからです。
主は強制せず、窒息させず、抑圧しません。
そうではなく、つねに愛し、解放し、自由なままにさせます。
主は、他の人を従属させる人々、
和解の福音を、改宗主義(il proselitismo)と混同する人を、
ご自分の霊で支えることはしません。
なぜなら、神に反する方法で、神を宣べ伝えることは出来ないからです」。
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今日もまた、福音の知らせを、改宗主義と混同する危険がある、と教皇は言う。
なぜなら、権力の誘惑、社会的、文化的重要性の追求、
また、宗教的マーケティングの戦略や技術に基づく福音宣教のプロジェクトは、
私たちの時代の現象だからである。
「神は、シンプルに謙虚に自らを示しますが、
私たちはつねに、神を押し付け、
神の名において自分の考えを押し付ける誘惑を持っています。
それは、権力と外観によって神を現すために、
神を十字架から降ろそうとする世俗的誘惑です。
けれどイエスは、十字架から降りるのではなく、
十字架の上で和解するのです」。
今日でも、組織やその構造の権力と影響力をもって
イエスを現わそうとする誘惑がある。
「神なしで、人間の力だけで」機能すると信じているプロジェクトの外観をもって。
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それに反して、教皇が提示する道は、
「他の人々に対して決定するのではなく、
すべての人をあらかじめ決められている計画(スケーマ)の中にはめ込むのでもなく、
自分自身を、『十字架につけられた方』の前に置き、
共に歩むことを学ぶために、兄弟の前に置く」道である。
それは、福音にますます忠実であろうとする教会の顔(表情)であり、
人々に植え付けるべき一連の概念や規則を持たず、
「イエスが望むように、自由と愛のうちに」イエスを証ししながら、
すべての人を迎え入れる家であることを知っている教会の顔である。
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世俗主義と無関心で刻まれた時代の中で福音を伝えることは、
最初の告知を提示することを意味する、と教皇は思い起こす。
なぜなら、信仰の喜びは、
「まだ人生の中に主を迎え入れていない人に、二次的な要素を示したり、
ただ、幾つかの実践を繰り返したり、過去の司牧の形を反復することで」
伝達されるのではないからである。
新しい道、耳を傾ける機会、対話、出会いを見つけ、
私たちが主役となるのではなく、
神と、神のイニシアティブに空間を残す必要がある。
そして、このようにして、
「使徒言行録の本質と熱意に」立ち返ることが必要である。