足指
足指の長短は人それぞれ。隣の指が親指より長くば親を抜くとか。私「も」そんな一人なれど、親と競う前に息子に背丈を抜かれてしまい。生まれてこのかた放任を貫いて思春期を迎えた娘から映画に誘われるとは半ば適当な子育てもまんざらでもなかったかもしれぬ。ともにこの春に入学を果たすは妻の母校。
県内屈指の進学校ともなれば教師陣の意欲も違い、夏季休暇に特別講座が催されるは当時と変わらず。そちらに在籍というだけで何やら賢そうに見えなくもないが、学内順位や五百番台と限りなく最下位に近く。公に晒される順位に抱く感情は劣等感、ならぬ自らの下には「まだ」いるんだ、との安堵感。
上位は上位なりに、下位は下位なりに日々を謳歌していた、と。以上、妻の回顧録。レースとて順位あるゆえ「若いもんには負けぬ」などと向上心が生まれる訳で。順位を否定せんとするヘンな先入観こそ。それだけで全てが決まるものにあらず、当人の個性をいかに伸ばすか、向上心を育むか、そこにこそ心血が注がれるべき、にあるまいか。
才能か努力か。一を聞いて十を知る彼こそは天才、そもそもに脳ミソの「つくり」が違う、そこには努力にて克服出来ぬ高い壁が、とはよく聞く話。が、かのモーツァルト然り、いかなる天才もすべからく努力から生まれる、つまりは後天的なものであって、誰しもが努力いかんで一位になれる、という科学的考察を試みた一冊を熟読しており。
「努力」など数値化できるものになく、そこに独自の解釈が成り立つことこそがこの手の話の肝なれど、努力を否定しては生きる意義とて薄らぐ訳で。「やればできる」との期待感こそが人生を挑戦的なものに。信仰心の効能、「宗教」に関する考察も興味深く。
不在の役所に一本の電話。ホームページを見て、と一見らしき御仁から寄せられる相談。よく私なんぞを選んだね。PTSDと思しき御子息を施設に通わせる保護者。施設側の対応を巡る苦情。そちらを窓口に、と紹介されるは区役所の担当。その応対や申し分なく向こうの言い分もキチンと理解している様子。
が、あくまでも窓口は窓口にしかなりえず。過去に施設側と交わした約束が守られておらぬ。施設側に履行を求めれど一向に改善の兆しなく。許可を与えた以上は指導の権限、責任は市にあるはず、と本庁に直談判すれども「あとは当事者同士の協議にて」とにべなき返答に憤慨されて。
片側の言い分にて真相や知らぬ。言い回しも含めて俄かに信じがたいが、いづれにせよ、当事者側に不満が残ったことは事実。基準通りの運営がなされている以上は過度な介入は逆効果、逆恨みを買わぬとも限らぬ、理屈ならぬ情が絡まば尚厄介、相性の良し悪しとて。同様の施設は他にもあって選択権は利用者側にあるのだから無理に留まらずと、というのが本音やもしれず。
が、困った人が目の前に助けを求めているのだから手を貸さんとの姿勢があって然るべきで。いや、親身に応じた、との反論あるかもしれぬ。が、その努力は目に見えぬものにて、相手に通じぬは不運か怠慢か。
(令和4年7月30日/2725回)