【MINDFULNESS】痛々しい私とサヨナラ
『痛々しい私』とはかつての自分自身を指しています。
「どのように痛々しかったのか?」と言うと
周囲の人々からの関心や好感を得たいが故に
いつも無理をしながら自分を取り繕っていたことです。
具体的にはプレゼント作戦となるのですが、それこそ
あらゆるひと達にあらゆるプレゼントを贈っていました。
週に3~4回通っていたヨガレッスンの日には
おにぎりやお寿司などをたくさん作って持って行き
レッスンの後で皆へ得意気に振る舞っていました。
(勿論、毎レッスンの度ではありません)
また、尊敬していたヨガインストラクターの女性と
少しでも心の距離を縮めたいと考えた私は
この方のお誕生日にプレゼントを用意したり
世界女性デーの日にはブーケを贈ったりもしました。
いずれも、自分に関心を持ってもらいたくて
自分を好きになって欲しくて必死だったのだと思います。
ですが、いつも私の空回りで終わっていました。
おにぎりやお寿司を食べたヨガ仲間たちは
「有難う、美味しかったよ!」と喜んではくれましたが
その後、私への接し方が変わったかと言えば
決してそうではありませんでした。
もしかすると、私に好感は持ってくれたかもしれません。
それでも、好感が親しさや好意に変わることはなく
レッスンで顔を合わせても挨拶を交わす程度でした。
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女性インストラクターの女性も然りです。
プレゼントを渡すと笑顔で受け取ってはくれるものの
残念ながら心の距離が縮まることは一切ないままでした。
この方は優れた実力 / 指導能力だけではなく
大変ユーモア溢れる気さくなお人柄だったこともあり
生徒さんの間でも大人気のインストラクターでした。
レッスンが終わると生徒さん達を引き連れて
ランチやお茶へ行くことも多いなか
いつも私だけは誘ってもらえないことが続いていました。
また、他の生徒さんからもらったプレゼントは
SNS上で紹介しているにも関わらず
私が贈ったものはついに紹介されずに終わりました。
明らかに、自分だけが阻害されていると感じていました。
阻害されている理由には心当たりがありましたが
それでもなお、私は距離を縮めたいと願っていたのです。
「それでもなお」というよりも
「だからこそ」の方が正しいかもしれません。
私は基本的にプレゼントを贈るのが好きだから
プレゼントを贈っているだけ、ただそれだけ
このようにいつも自分へ言い訳を作っていましたが
正直なところとても無理をしている状態でした。
その証拠に「これだけ時間と労力を払った」
「これだけお金を使った」と捉えていたのです。
さほど仲も良くないヨガ仲間たちの為に
本当はおにぎりなんてわざわざ作りたくない
私のことを常に阻害してくるひとの為に
本当はお誕生日プレゼントなんて買いたくない
これが自分の素直な感情であると気付いたときから
闇雲にプレゼントを贈ることを止めました。
プレゼントを贈ることによって
何らかの見返りを期待している自分のエゴが
はっきりと浮き彫りになったからです。
同時に、何かを与えなければ
相手から何も与えてはもらえないという自信のなさを
嫌と言うほど思い知らされもしました。
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いま当時の自分を振り返ってみると、痛々しく感じます。
『痛々しい』には自虐的な意味合いも入っていますが
それ以上に、可哀そうだったなと感じています。
痛々しくならなければいけない程
自信がなかったんだな・・と。
自分のことを客観的に見つめてみたとき
少しでも痛々しさを感じるような振る舞いがあれば
それは自信のなさが影響しているのかもしれません。
自信の度合いが弱い状態だと、素直さが奪われてしまい
無意識の内に自分へ無理を強いてしまいます。
これは人間関係だけに限ったことではなく
恋愛関係においては更に顕著となってくるでしょう。
私が自信を取り戻す背景には様々な経緯がありますし
その経緯の中で様々な努力も重ねました。
現在も昔の残り香 / 余韻からでしょうか
つい、プレゼント作戦が頭をよぎることはありますが
見返りを期待しない贈り物だけを出来るようになりました。
そうすると不思議なことに、プレゼントを贈るよりも
プレゼントを頂く機会が増えている今日この頃です。
痛々しい私とサヨナラしたその先には
それまで知らなかった幸せが必ず待っています。