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「宇田川源流」 死刑と人権と残された人と殺された人との葛藤

2022.08.02 10:24

「宇田川源流」 死刑と人権と残された人と殺された人との葛藤

 秋葉原無差別殺傷事件の犯人である加藤智大死刑囚の死刑が執行された。このことについて、マスコミは大きく報じ、なおかつ「死刑廃止」の論調を繰り返す。

さて、先に私のスタンスを明記しておくが、私は「死刑存続論」である。私の恩師といっても講義を取っていただけでありゼミなどとは異なるが、中央大学法学部の渥美東洋先生が、私が高校三年生の時に見たテレビ番組(深夜の番組であったと思う)団藤重光教授や板橋宏教授などと死刑について討論する番組であったが、その中で「死刑廃止論」を展開する団藤重光教授に真っ向から反対意見を言い、人権や憲法、法律の成り立ちなどから話し、その時に「そもそもかわいそうとか真相を解明するなどという感情論で死刑という法律を解釈すること自体に間違いがある」と鋭く指摘していた。この番組を見て、渥美教授に習ってみたいともって、中央大学の法学部に入るわけなのである。まあ、このテレビ番組(テレビ局も何も忘れているが)が、ある意味で私の人生を変えたと言っても過言ではない。

その影響もあって、私は死刑存続論である。

法理論上は、罪刑というのは「報復刑」、つまり「目には目を、歯には歯を」というように、命を奪ったものに対しては命で償えという原則がある。最古の奉天といわれるハンムラビ法典などには、まさにそのような原則がある。日本のことわざで言えば、「人を呪えば穴二つ」というところであろうか。

これに対して、中世ヨーロッパでは貧困による窃盗や強盗が相次ぐようになる。まあ、30年戦争などずっと戦乱に明け暮れていた国々であれば、当然に、国民が政治の犠牲になるのは理解できない話ではない。そのうえで「政治や社会が悪いのに、犯罪を厳しく罰するのはおかしい」という話があり、本来の良い社会の環境下で育てば犯罪を起こさなかったはずであるということから、「更正させる」ということを中心に罪刑を更正するのが「教育刑」と言われるものになる。現在も日本では「少年犯罪」などに適用される法体系である。

この教育刑の体系では、人を殺してもその責任の一端は殺してしまうような心を育てた社会と政治にあるというようなことになり、そのうえ、「犯罪者の人権」という不思議な内容も合わさって、「犯罪者の更正の機会を奪うべきではない」という理論から「死刑廃止論」が出てくることになる。

しかし、これには「殺された人の人権は考えないのか」ということが大きな問題になる。犯罪を犯した人物を保護しながら、殺された人の思いや奪われた未来に関しては考えない。まさに「死者に人権なし」というような感覚の法体系が成立することになる。つまり、著しく被害者と犯罪者(加害者)の人権のバランスが悪くなるということになる。

秋葉原殺傷、日弁連「死刑執行に強く抗議」 早急な死刑廃止求める

 日弁連(小林元治会長)は7月26日、2008年の秋葉原無差別殺傷事件を起こした加藤智大死刑囚の死刑が同日午前に執行されたことについて、強く抗議する会長声明を公表した。

 声明は冒頭で、事件について決して許されるものではないと言及。遺族が厳罰を望む心情についても「十分に理解できる」と述べた。

 一方で、死刑は「基本的人権の核をなす生命に対する権利を国が剥奪する刑罰」と指摘。加藤死刑囚が裁判のやり直しを求めていたことからも「強い非難を免れない」とした。

 日弁連は、2016年の人権擁護大会で死刑廃止を求める宣言を採択した。今回の声明でも、すべての死刑執行を停止するとともに、早急に死刑を廃止するよう求めている。

2022年7月26日 18時18分 弁護士ドットコム

https://news.livedoor.com/article/detail/22568887/

重傷の元運転手 手紙やりとりも「加藤死刑囚の心見えず」

 平成20年、7人が死亡、10人が重軽傷を負った無差別殺傷事件で殺人罪などに問われ、26日午前に死刑が執行された元派遣社員、加藤智大(ともひろ)死刑囚(39)=東京拘置所=に刺されて重傷を負った元タクシー運転手の湯浅洋さん(68)=宮崎市=の元には事件後、加藤死刑囚から手紙が届いていた。

 湯浅さんは「真実を知りたい」との思いから7通の手紙を送り続けたが、返信があったのは接見を拒否したことをわびた1通のみ。死刑執行の知らせを受け、湯浅さんは「最後まで加藤死刑囚の心は見えなかった。なぜ無差別大量殺人を起こしたのかは疑問のままだ」と話した。

 加藤死刑囚から便箋6枚に及ぶ手紙が湯浅さんに届いたのは、事件から約1年半後のことだった。

《この度は本当に申し訳ございませんでした。被害を与えたことについて、言い訳できることは何もありません》

 冒頭にそう謝罪の言葉をつづり、《皆様から奪った命、人生、幸せの重さを感じながら刑を受けようと思っています》と刑に服する覚悟も見せていた加藤死刑囚。一方で《私は小さな頃から『いい子』を演じてきました》《『申し訳ない』と思っている自分は、はたして本当の自分なのか》とする文もあり、自身に対する疑念も告白していた。

「こんな手紙を書ける人間が、なぜ重大な犯罪を実行してしまったのか」。湯浅さんの事件への疑問はむしろ深まった。

 湯浅さんは、事件で肺や肝臓を損傷する重傷を負い、体のしびれや痛みなどの後遺症に苦しんでいた。それでも、《私も一緒に事件を考えながら、できることをやっていきたい。もっと君を見せてくれませんか》と、返信を求める手紙を送り、加藤死刑囚の公判にも足を運んだ。

 加藤死刑囚から唯一の返信が届いたのは、事件から2年9カ月が過ぎ、東京地裁で公判中だった平成23年3月。接見を拒否したことをわびるとともに《どうしたらいいのか、まだわかりません》という迷いが便箋1枚に記されていた。

 湯浅さんは「加藤死刑囚の心は、本人にも見えていなかったと思う」と受け止める。

 現在は故郷の宮崎県に戻り、警備員として働く湯浅さん。事件から14年が過ぎ、体のしびれはなくなったが、今年6月には勤務中に発作を起こして救急搬送されるなど、体調は思わしくない。それでも「若い世代に伝えていくことが再発防止につながる」と、事件を語り継ぐ決意は変わらない。(村嶋和樹)

2022年7月26日 18時37分 産経新聞

https://news.livedoor.com/article/detail/22569028/

 当然に、被害者側が悪いというような話もありうる。まあ、生前いじめ尽くしていた李、非道の限りを尽くして恨まれていて、そのことを起因とすることで、溜まらずに殺人という非常手段になったということがありうる。その場合は、当然に罪刑というか「量刑」で調整することになる。このことを予定して、罪刑というのは、幅を持った内容になっている。例えば「死刑または無期、または15年以下の懲役」というように、幅をもって罪刑が書かれていることは少なくない。

ではどのような場合に死刑になるのであろうか。

「強盗殺人」という犯罪がある。この罪になった場合は罪刑は「死刑」か「無期懲役」しかない。何故有期刑が存在しないのかということになれば、当然に、「他者の所有する金銭の違法手段による取得という身勝手な理由で人の命を奪った」ということに対して、厳罰に処するということになる。つまり、上記に挙げたような「生前の因果関係による情状酌量の余地がない」ということになり、当然に「身勝手な自分の欲望による理由」であれば、死刑という厳罰は仕方がないということになる。

つまり、「身勝手な理由で人の命を奪った場合は、当然に、更正の機会はないし、更正する可能性も限りなく少ない」というように考えられているということになる。これは「身勝手な理由によって殺された被害者の人権との兼ね合い」ということになるのではないか。

さて、今回の事件、2008年に歩行者天国の秋葉原にトラックでツッコミ、そのうえで、周辺にいる人を刃物で殺傷したという事件。社会からの孤独とネットにも居場所があかったなどと報道ではある。しかし、そのような人は多くいるわけでありその様な人が、全てこのような犯罪をするわけではない。その意味で加藤死刑囚の身勝手な理由を肯定することもできないし、当然に、上記にあるように厳罰を望む遺族が多くいるということは間違いがない事実であろう。

「最後まで加藤死刑囚の心は見えなかった。なぜ無差別大量殺人を起こしたのかは疑問のままだ」<上記より抜粋>

このようなことを言い出すと、つまり「本心を見せなければ、死刑判決を受けた後も死刑執行を逃れることができる理由付けを行うことになる」ということであろう。「身勝手な殺人」の上で「死刑を逃れる手段」をそのまま与えることが、果たして法の正義なのであろうか。

日本は真相究明のために取り調べ機関がありなおかつ三審制で最高裁まで裁判を受ける権利が憲法上保障されている。逆に、それまでに真相が見えない事件において、一般の人が真相を見ることができなかったから死刑をすべきではないというような話は、単なるエゴであり法の予定する罪刑論の趣旨に反するものではないのか。

主観や感情によって法を曲げてはならない。

これは、当然に法の下の平等の大原則なのであるが、死刑廃止論は、口を開くことのできない依被害者も含めた「法の下の平等」担っているのかを考えるべきではないか。