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超人ザオタル(79)離脱の瞬間

2022.08.03 00:50

そこで個我に栄光を与えてしまっては、その先の道を閉ざすことになる。

そこで苦しむのは結局のところ個我なのだ。

つかの間の栄光に溺れ、薄れていく悟りにすがりついている。

存在がそこにあることを退けて、転落してしまった。


その分岐点でアジタは迷っている。

山頂への一歩を行くための試練に立ち向かっている。

「アジタ殿、よくそこまで理解を深められました。

道というものは黙っているが、なかなかどうして難題を突きつけてくるもの。


では、アジタという名前、つまり個我とは何なのでしょうか。

ほとんどの人は個我を自分だと思っています。

世界と自分との線引きを身体というところに置いる。

ただ、存在という自分を知ったとき、その線引きが薄れます。


自分とは存在であるとすると、線引きはその存在の前に置かれるからです。

それでは、個我はどうなるのでしょうか。

個我は世界に返されます。個我とはもともと世界のものなのです。

それは自分という主体ではありません。


このことは瞑想で存在自体になっていると知れば明白なこと。

身体が主体になることはないと分かるでしょう。

なぜなら、それは存在の自分にとって対象だからです。

対象であるなら、それは自分ではありません。


それはもうお分かりかと思いますが。

もし自分を捨てるだけのことなら、それは抵抗があるでしょう。

なにしろ、自分を捨てたなら何も拠り所が残りませんから。

ただ、いまは自分が存在だと知っている。


個我を捨てても、自分はそこにいて、何の問題もないのです。

それを捨てることに抵抗があるのは、それに愛着があるからでしょう。

個我は労苦をともにした仲間であり、信頼関係も築かれています。

それを、はいここまでと切り捨ててるのは、心情的に抵抗があります。


良心は痛むし、罪悪感も起こるでしょう。

そうであっても、個我は世界のものなのです。

元々の居場所であるそこに返す必要があります。

そうしてこそ、個我も世界で生き返るのです。


世界と自分との線引きは明確になり、全体像が決まります。

その全体像で何か不都合があるでしょうか。

それでも個我は自分のもとに戻りたいと懇願するかもしれません。

どんなときも存在であることです。


自分が存在であるということは隠すことができません。

それと向き合い、個我と存在との関係を明確にしていくことです。

個我に教え諭すとは、ただ存在であることです。

決して、言葉で説得させることではないのです。


自分が心身かどうかは、自分で真実を認めるかどうかのこと。

つまり、個我が自分ではないと自ら受け入れる。

その瞬間は、存在であり続けることで、いつか訪れるでしょう。

憑き物が落ちるように、あっけなく個我は離れていきます。


抵抗や疑問があることは悪いことではないのです。

むしろそれさえも道であり、完全な理解へと歩んでいること。

私が与えられる言葉はこのくらいです。

アジタ殿はすでに答えを知っているのですから」