ベルリーニ作曲『ノルマ』
まるでサーカスの
曲芸のようなアリア
416時限目◎音楽
堀間ロクなな
ツバを呑み込む、と言ったら音楽鑑賞に似つかわしくないだろうか。だが、実際、ベルリーニ作曲の『ノルマ』で、題名役のソプラノ歌手が「清らかな女神よ」をうたいはじめたとたん、わたしは喉のあたりがゴクリと鳴ってしまうのだ。音楽史上、ベルカント・オペラの最高峰と目されてきたゆえんかもしれない。
ベルカントとは、イタリア語で「美しい歌唱」を意味する。もちろんのこと、綺羅星のごとく輝くオペラの傑作たちは、いずれも美しい歌唱に彩られて、モーツァルトなら人間喜劇の諸相を描いたり、ワーグナーなら男女の性愛の深い闇を見つめたり、ヴェルディならシェークスピア劇に新たな息吹を注いだり……と、われわれを魅了してきた。ところが、シチリア島生まれのヴィンチェンツォ・ベルリーニが30歳のときに発表したこの『ノルマ』(1831年初演)は、まったく別の原理のうえに成り立っているようなのだ。
その物語の枠組みはわかりやすい。ときは、紀元前50年ごろ、ところは、カエサル率いるローマ軍によって征服されたガリア地方。ドルイド教の神殿がある深い森で、民衆のあいだには復讐の気運が高まっていたが、最高位の尼僧ノルマはローマの地方総督ポリオーネとひと知れずに愛しあい、ふたりの子どもまでもうけていたことから、悲劇の幕が開く……。ところが、ベルリーニの音楽はこうしたドラマのために奉仕するのではなく、むしろドラマのほうに奉仕させることで、舞台上に高々と音楽を屹立させていく観がある。
第一幕の中盤でいよいよノルマが登場し、血気にはやる人々に向かって、いまはまだ剣を抜くときではない、平和を維持するように、と神のお告げを伝える。そして、フルートの主旋律に導かれながら、緩やかなカヴァティーナ形式のアリアがうたいだされる。
清らかな女神よ、そなたの白銀の光は
この聖なる老木を浄めてくださる
どうか、その曇りのない美しいお顔を
わたくしたちにもお見せください
この平明な内容の歌をうたうノルマの胸中には、まず、尼僧としてドルイド教の神に捧げる敬虔な信仰があり、ついで、こうした立場にありながら異教徒の敵将への恋着のあまり二児までもなした罪悪感があり、さらには、そのポリオーネがいまではつれなくなった怒りと悲しみ、新しい愛人をつくったのではないかという疑心があり――といった、たがいに相容れない感情がせめぎあっている。かくして、一見、ただの祝詞のようなアリアにくまなく高度な装飾が張りめぐらされて、ついに「美しい歌唱」が実現するのだ。
それは、たとえばサーカスの曲芸に譬えられるかもしれない。テント小屋のなかで、綱渡りのロープを高くしたり揺らしたり、曲芸師を目隠したり一輪車に乗せたり、といった要素を加えるにつれ、観客たちに緊張と興奮を強いて、いつしか白日夢の境地へと引っさらっていくような――。
これまで名だたるソプラノ歌手がノルマを演じているが、レコードに残された録音を聴くかぎり、マリア・カラスとモンセラート・カバリエがやはり双璧だろう。カラスは濃い陰影を帯びた歌唱によって愛と苦悩を浮き彫りにし、アクロバティックなアリアを人間の真実の歌としている。また、カバリエは水晶のように澄み切った歌唱が、ほとんど抽象的な美にまで達して、天上界から見下ろすかのごとくひとりの女の愛と孤独を伝えてくる。いずれもディーヴァの至芸と言うにふさわしい。
もうひとり、わたしが強い印象を受けたのは、2003年に東京・新国立劇場の公演でノルマをうたったフィオレンツァ・チェドリンスだ。ライヴの映像を眺めると、そこでの「清らかな女神よ」の歌唱は、聖職者に見合った成熟した女性のものというより、まだ文明に侵される以前の原始の森にあって、若々しいノルマが熱い血をたぎらせていることを思い起こさせる。その決して飼い慣らせない野獣のような存在感に、わたしがポリオーネなら最も惹かれるだろうと想像している。