ロマン派の時代47-ワグナーVsブラームス
2022.08.06 12:17
1860年3月「ベルリンのこだま」において音楽上の聖戦の宣戦布告があった。つまり「未来の音楽」を標榜していたリストやワーグナーなど文学や哲学、演劇などを総合する「標題音楽派(新ドイツ派)」に対する音楽のみを追求する「純粋音楽派(新古典派)」の宣戦布告だった。
この論争を引き起こしたのは当時力のあったエドゥワルド・ハンスリックという音楽評論家で、彼は1854年に「音楽美論」を書いて、音楽は感情の高揚や文学性などを目的とするべきではなく、音楽の形式そのものが目的であり、美しさである、という音楽理論を書いた。
そして、そのために評価したのがブラームスであり、1860年の署名にはブラームスが筆頭で載っている。そしてやり玉にあがったのがリストで、彼は遺言状を書いてしまうほど動揺した。クララ・シューマンは、リストへの対抗心もあってブラームス派についた、実際華麗な音楽は性に合わなかった。
しかし亡き夫シューマンまでもがこの論争に引き込まれ、標題音楽派にされてしまったのは彼女にとって心外だったろう。ともかくもブラームスはハンスリックにヨイショされて、ますます純粋音楽を追求する。彼は交響曲の着想をこの頃得ていたが、それが現実化するのはなんと1876年である。