届け
「もっとユーモアのある面白いものを」
「読む人が前向きなれるような明るい文章を」
私の拙文に触れてくださったという方から、時折そんなアドバイスをいただくことがある。そうしたほうが広く大勢の人に受け入れられるであろう、と親身に声を掛けてくださっているものと私は有難く受け止めている。しかし同時にこうしたアドバイスをめぐり、私には心の奥に長く考え続けていることがある。
私の書く文章は、読み手がウンウンと頷いたりクスッと笑えたりするような類の気の利いたものではない。私はただただ、“わたし”が“わたし”であるためだけに、人生の残り少ない時間を費やしてこんな文章を書き続けている。
才能溢れる書き手による魅力的な文章はこの世に数多存在し、今はそれらがSNSなどを通じ、世界の隅々まで途方もない量とスピードをもって拡散されている。私は、そんな状況の中で一つくらい、肯定的反応と縁のない読み物が存在してもよいだろうと思っている。最低限の配慮と良識をもって書きたいことを書いたうえで、それでもあまり読みたくないと思われるということなのであれば、私にとって特に問題は無い。それよりもずっと怖いことは、自分が、本当は書きたくないものを書いてしまうことだ。私は書くことを通じて、誰かの求めに応じたい訳でも期待に応えたい訳でもない。書くこと、それ自体が“わたし”であり、“わたし”が“わたし”でなくなってしまったら、こうしていのちの終わりに文章を残す意味などそもそも存在しない。
苦しいことを苦しいと書く。不安を不安と、無念を無念と、私は書く。苦しいと感じてはならない、不安だと、嫌だという思いはポジティブなものに変換せよなどという同調圧力に、私は抵抗する。自分の自然な思いを否定して成立する“ポジティブ”にどんな価値があるのか、私にはわからない。私という個人の、ちっぽけだが誰も奪うことの出来ない感受性を私は記録しておかねばならない。私の亡骸と共に消えて無くなってしまう前に。いつか、私の知らないどこかの誰かに届くように。
他人の苦しみや苛立ちなど負の感情に触れるのは、心に負荷がかかることだ。まして私の場合、伝わりづらいことを洗練されない言葉で綴っているのだから尚更読み手の負荷は大きい。ポジティブでユーモアに溢れた楽しい文章を、と私に求める人は、心のどこかで私から「私は苦しんでなんかいない」というメッセージを引き出したいのではないかと想像する。苦しみの言葉ににうっかり触れて思いがけない心的負荷を感じたくない、苦しいなんて思いは押し殺してもっと気分のいいものを書いてくれないか、という願望だ。いのちや死を考え、この世界のあり様にささやかな疑問を持つとき、その意識の矢は、私自身をもその的にしながら世界のあちこちを目指し弧を描いて飛んでゆく。あなたに向かっても、だ。あなたは常に正しく、いい人で、あらゆる矛盾も不正義もすべては遠く手の届かない世界に起きた仕方がないことであって、あなたには一切の責任はない、と思わせてくれる文章を読み手は求めているのかもしれない。心苦しさややましさや後ろ暗さを微塵も感じなくて済む文章。面倒で厄介な荷物を心に背負わされない、陽気で前向きな楽しい読み物、を。
障害にも不治の病にも屈せず、朗らかで前向きで笑顔の絶えない進行性の神経難病患者。そうした人に触れたいのなら、愛は地球を救うと唱えるテレビでもご覧になっていていただいたほうがよいだろう。人は多面的で常に変わるものだが、少なくともここに居る書き手は、ポジティブだとか前向きなどという言葉をあまり好まない。
自分はひとりかもしれないと項垂れて、しゃがみ込んでいるどこかの誰かへ。いつか届くことだけを信じて。