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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

近代アジアの動乱12-英仏連合の北京略奪

2022.08.09 11:39

中国では1860年になると、1万7千人英仏連合軍が大艦隊で天津を占領。しかし交渉は決裂し、使節11人が殺害されると連合軍は進軍を開始した。9月には八里橋の戦いに最新鋭のアームストロング砲を投入して勝利。そのまま北京に向かい、皇帝咸豊は北京を脱出した。

北京では、連合軍兵士は略奪を行い、皇帝の離宮であった円明園では、金目のものを仏軍兵士が略奪した後、英軍が「使節殺害の復讐」として焼き払い、廃墟とした。エルギン伯は「今や廃墟。見た限り、略奪、粉砕が半分もされなかった部屋はひとつもない」と書いた。

この結果結ばれた北京条約によって、清朝はイギリスに九竜半島を割譲、また調停にあたったロシアにも外蒙古を割譲した。同時に、中国国民の海外渡航を認めた。何のこたない、中国人が苦汗として、イギリス植民地に実質上奴隷として使役される。この条約は中国が本格的植民地となる端緒となった。

翌61年皇帝咸豊が崩御すると辛酉政変が起こり、中国三大悪女とされる西太后の子が同治帝として6歳で即位した。清朝を意のままにできるようになった欧米列強は、清朝を支持するようになり、江南の太平天国を討伐するための軍を指導するようになっていく。