【牛込②】市ヶ谷七軒町
町名:市ヶ谷七軒町
区分:町丁
起立:元和年間(1615~1624年)
廃止:1879(明治12)年
冠称:「市ヶ谷」
後身:武家地
現町名:新宿区四谷本塩町6番
概要:古くは豊島郡野方領市谷村に属し、元和年間(1615~1624年)、市ヶ谷田町四丁目地続きに名主島田左内が開いた町屋で、家数が7軒だったので「市ヶ谷七軒町」とした。市谷本村の堀端にあった。1828(文政11)年の家数41軒(町方書上)。江戸期に収公され、四谷塩町一丁目の西隣に代地を与えられ移転。その後、1879(明治12)年に「四谷七軒町」と改称し消滅。詳細は四谷七軒町を参照のこと。
※『角川日本地名大辞典』には「明治12年収公されて、四谷塩町1丁目の西隣りに代地を給され、四谷七軒町と改称」とあるが、四谷塩町一丁目の西隣(雪印乳業の辺り)の地には既に『千駄ケ谷鮫ケ橋四ッ谷繪圖』では「七軒町」、『大江戸今昔めぐり』にも「市ヶ谷七軒町」とある。つまり、移転したのは1879(明治12)年ではなく、江戸期であって、「四谷七軒町」に改称したのが1879(明治12)年だったのではないだろうか。
現・四谷本塩町6番地は、『大江戸今昔めぐり』でも既に「紀伊殿家来」、「近藤」、「薬師寺」、「石川金次郎」、「高力主税助」とあるのだから、管理人としては当町の移転は江戸期であって、当町の位置は「市ヶ谷田町四丁目地続き」とあるとおり、「火除明地」(市谷本村町1番地)、又はその西の東から「佐々木」、「一色」、「津田」、「尾張殿」、「人見玄徳」、「浅野大学」とある武家地(市谷本村町2番南)ではなかったのかと考えている。
なお、『江戸地名俚俗字引』には「里俗」とある。
撮影場所:市ヶ谷七軒町
参考:火除明地 新宿区市谷本村町1番地1号(住友市ヶ谷ビル)
参考:武家地 新宿区市谷本村町2番地5号(日本シネアーツ社)
参考:1879(明治12)年までの位置~その後「四谷七軒町」と改称 新宿区四谷本塩町1番地(空き地)