轟英明さんのインドネシア・レビュー、 第5回 『悪魔の奴隷』が描く恐怖とは何か?
前回まではインドネシアの国家英雄であるチュッ・ニャ・ディン、カルティニ、タン・マラカについて映画や書籍を通して語ってきました。今回からはややお堅い国家英雄の話からは離れ、もう少し俗な話題を取り上げていきたいと思います。まずはインドネシア人が大好きなオバケに関連した話から。オバケと聞いて眉をひそめる方もいるかもしれませんが、オバケが分かればインドネシアのことも分かるはず!と信じてつらつら書いてみようと思います。
ここ数年のインドネシア映画界が産業としても好調なことは、チカランやジャカルタの映画館へ最近行かれた方は肌で感じていると思います。年々増加するスクリーン数と映画鑑賞人口には海外投資家も注目し始めており、わずか15年前は古い映画館の閉鎖が続き、街中に海賊版DVDやVCDの露天商が溢れていたことが嘘のようです。多くのインドネシア人観客を集めている作品はティーン向けロマンス、あるいはイスラーム教風味のロマンス、またはコメディだったりするのですが、ジャンルとして強固に観客から支持されているものの一つとしてホラーものがあります。(以後、「怪奇映画」というやや古臭いながらもおどろどろしさを感じさせる用語を用います)
驚くべきことに昨年2017年のインドネシア国産映画観客動員数ベスト10のうち5本が怪奇映画なのです。そして堂々観客動員数第1位となったのは、今回紹介する映画『悪魔の奴隷』(Pengabdi Setan) でした。100万人突破すればヒット作品と言われるインドネシア映画界でなんと420万人超の観客を集め、しかもここ10年間の中でも歴代第4位、怪奇映画としては空前の大ヒット作となりました。マレーシアやフィリピンなど近隣国でも上映されて好評を博し、マレーシアでは近年のインドネシア映画の中では最大のヒット作になったと報じられました。
Pengabdi Setan (2017) オリジナルポスター
Pengabdi Setan ( 2017) official trailer
実は本作『悪魔の奴隷』は1980年に製作公開された同名作品のリメイクです。 80年代を代表する怪奇映画の名作と言われ、監督は怪奇映画の女王と呼ばれた女優スザンナと後に多くの作品でコンビを組んだシスウォロ・ガウタマ。日本では80年代のビデオブーム時代にB級ホラー作品として『夜霧のジョキジョキモンスター』の邦題でリリースされました。知る人ぞ知る映画と言ったところでしょうか。
Pengabdi Setan ( 1980 ) オリジナルチラシ
ストーリーは新旧ともにそれほど複雑ではありません。タイトルとポスターが示しているように、死者が蘇るという脅威に対してある一家がどうたち向かうか、というものです。怪奇映画の定石として、観客をドキッとさせる思わせぶりな演出が何回も繰り返され、そしてクライマックスでは真の恐怖を観客に体験させる趣向がなされています。
1980年の旧版を今見直してみると、特殊メイクが現在の水準からは古臭く、失笑してしまう観客も今日ではおそらく少なくないでしょう。いや、そもそもインドネシアにおいて怪奇映画がこれほど人気を呼ぶのは、「恐怖」と「笑い」を映画館で同時に体験したいという観客の欲望があるのかもしれません。
一方、2017年の新版は観客に恐怖やショックを与える場面は何回もあるものの、描写そのものはやや控えめで、スプラッター映画のような血まみれ演出はほとんど皆無、肝心の死者も、主役?「悪魔の奴隷」も最後まで直接姿を見せません。ライティングや衣装や小道具や音楽など画面全体に漂う古風な雰囲気でじわじわと怖がらせる手法は、特殊効果とCG全盛の現在では珍しいもので、それが逆に若い観客層には新鮮でウケたことが記録的な大ヒットにつながったと私は捉えています。
実のところ私自身はホラーも怪奇映画も今まで積極的に観てきたわけではないのですが、本作については劇場に駆けつけました。監督のジョコ・アンワルが、B級映画好きで小津安二郎のようなA級古典作品は苦手だとかつてインタビューで答えていたことが非常に印象に残っていたからです。専門学校で映画演出や技術を学んだ経歴を持たない彼は、インドネシアのクエンティン・タランティーノと呼ぶのがふさわしいと常々思ってました。果たして、リメイク『悪魔の奴隷』はB級どころか堂々たるA級作品で良い意味で裏切られました。
あえて設定を旧版と同じ1980年に設定し、衣装・小道具・ロケーション・音楽等には徹底的に凝り、俳優たちにはリアルな演技を要求、結果として完成したのは古典的なスタイルの怪奇映画でした。これまで批評家にはウケが良く、日本はじめ海外での上映も少なくなかったジョコ・アンワル作品ですが、国内興行成績は決して良くはなかっただけに、今回の大ヒットは彼自身にとって僥倖(ぎょうこう)であり、製作に関与した韓国CJグループも次の作品につながるとして歓迎していることでしょう。
新版『悪魔の奴隷』がこれほどの大成功を収めた作品としての魅力は先述のとおりですが、指摘しなくてはならない点がもうひとつあります。深読みしすぎと一笑にふされることは承知の上で、旧版と新版の重要な相違を書き出し、新版の大ヒットが意味することを考えてみます。
新旧両方を見比べた人であれば誰でも気づくこと、それは作品内におけるイスラーム教の位置づけです。新旧どちらでも主人公一家たちは明らかに世俗化された一家で、日々礼拝する様子は出てこず、礼拝しようとすると悪霊の邪魔が入る描写は共通しています。新版では3回にわたり葬式や埋葬がおこなわれますが、埋葬直後の集団祈祷において父親がなんとも居心地の悪そうな顔をしているのが印象的です。
新版では主人公たちの近所にはウラマー(イスラーム導師)がいて、時折様子を見に来るものの、危機においては全く役に立たず、文字通り画面から消えてしまいます。しかし、旧版ではウラマーが全ての問題を解決してジ・エンドとなります。
つまり端的に言って、旧版は「イスラーム宣教映画」であり、新版は「反イスラーム映画」なわけです。ここで旧新版が製作公開された時代背景を比較してみましょう。
旧版が製作された80年はスハルト政権が磐石となった時期であり、政治的なイスラーム勢力は無力化されていった一方、反共主義の一環として宗教的敬虔さは推奨され始めた頃と重なります。ラストにおいて主人公一家たちがモスクから出てきて安心立命を得るのは政権イデオロギーとも重なるわけです。子ども2人というのも家族計画を強力に推進していた当時の政策に則った設定かもしれません。
しかし新版は1980年という設定ながら、子どもは4人に増えており、なによりもウラマーは主人公一家と雑談するくらいで全く活躍しないのです。人知を超えた悪魔の所業にイスラームは無力であるというのが新版の結論で、これは旧版とは真逆の結末に他なりません。
スハルト政権崩壊後のインドネシア社会における政治的イスラーム勢力の拡大と、主に新興中間層にイスラーム復興現象が顕著なことはつとに研究者によって指摘されていますが、新版の大ヒットをこうした文脈ではどう解釈すればいいのでしょうか? しょせん「荒唐無稽なオバケ話」と多くの観客に思われているのか、敬虔なイスラーム信者たちはそもそも怪奇映画を見に行かないのか、あるいは社会に横たわっている目に見えない反イスラーム的な感情や欲求不満が大ヒットという形で視覚化されたのか。
映画を政治的文脈からのみ批評することを私は好みませんが、ジョコ・アンワル監督が昨年のジャカルタ州知事選挙で元ジャカルタ州知事アホックを支持していたこと、彼自身がゲイであることを公言、そしてアホックが、保守イスラーム勢力の推すアニス・バスウェダンに選挙で大敗し宗教侮辱罪で有罪となった事実と照らし合わせると、監督自身のモヤモヤをこの作品の中に込めたのではないかと解釈することはあながち牽強付会とも言えないと思うのですが、いかがでしょうか?
ただし付記しておくと、スハルト政権時代に製作された映画はどんなジャンルでもある意味「宗教は最終的に勝つ」「混乱は収拾され秩序は回復される」物語であり、その反転した形がスハルト政権崩壊以降のインドネシア怪奇映画のパターンでもあります。宗教指導者の権威は失墜し、物語世界の混乱はなんら回収されず終わるという結末は必ずしも珍しくありません。私の深読みは的外れで、ジョコ・アンワル監督は定石にただ従っただけなのかもしれません。
いずれにせよ、新版が描いた恐怖とは、世界を統べる原理がもはや権威を失い存在しえないという指摘に他なりません。折りよく本作は日本でも「未体験ゾーンの映画たち2018」の一本として、ヒューマントラストシネマ渋谷やシネ・リーブル梅田で間もなく上映されます。昨年見逃した方はこの機会にぜひどうぞ。そのスタイリッシュな画面構成と色彩、そして音響に五感を集中して、じわっとくる恐怖を感じていただきたいと思います。
次回はオバケ話の続きということで、80年代に一世を風靡した怪奇映画の女王スザンナと彼女の作品について語ってみたいと思います。それではまた来月!
<参考文献及びウェッブサイト>
四方田犬彦 『怪奇映画天国アジア』 白水社 2009年
https://www.cnnindonesia.com/hiburan/20170928023545-220-244507/ulasan-film-pengabdi-setan
https://en.wikipedia.org/wiki/Pengabdi_Setan_(2017_film)
(了)