無力感への嘆きに出会いなおす
この美しい世界を破壊する働きに対して、僕の中にはどうしようもなく怒りがあります。とくに地球の美しさを破壊することについて、何の本質も含まない正当化をする事に対して、とてつもなく怒ってる部分が僕の中にあります。
それはずーーっとある。
それだけじゃない。
こうして進んでいく破壊が今も着実に進行していっていることに、ものすごい悲しみと怖ろしさを感じてもいます。
その状況証拠は、日々のニュースの中にたくさん見つけることができてしまう。次から次へといろんな魚の「記録的不漁」がニュースになっているとか、奄美大島沖のタンカーの沈没事故のこととか、いくらでもある。
一方それと拮抗する形で、自分の無力さに対する嘆きがあります。
これまで僕には一体何ができただろうか、といえば、何にもできていないに等しい。
そして、「そんな僕が何を言えるだろう」って思って何も言わなくなってしまって、さらには何も感じなくなっていってしまうんですよね。
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今日はそのことについて刺激されることがあって(古いマンガを読んだんだけど)、あらためてちょっと自分でワークしてみたのでした。
この怒りや嘆きや悲しみと、自分の無力さ、そして、無力な自分は何も言う資格がない、みたいな声について。
怒りの声(「ぐだぐだくだらねえ言い訳してるやつは全員死ね!」みたいな声)をしっかり聞くことからはじまり、すべての声にスペースを与えていく。
あらためて思ったんだけれど、自分の無力さに対する痛みが巨大なんだな。それがあまりに痛くて、「えらそうなこといって何もできてないじゃないか」と人からも指摘されるが耐え難い。
それが痛くてつらくて、こころを閉じて口を閉じてしまうんですよね。
そのあとスピリットガイドにどうしたものかと相談してみた。
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破壊を止めることだけが愛なんじゃない。
無力であったとしても、ただ愛である道はある。目を開きこころを閉じずにいたら、おまえは怒りを感じ、悲しみを感じるはずだ。怒りを感じ、悲しみを感じ、嘆きを感じているおまえとして在ることだ。それほどに世界を愛しているおまえであり続けることなんだ。
どれほど世界を思い、どれほど痛みを感じているか、私は知っているよ。
それはたとえ三次元的に無力に思えても、真実であって、ないことにしてはいけない。
そう在ることこそが、おまえをおのずと正しい道に乗せる。
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もうね、そうですね、すみません。そのとおりです。
明日からまた気持ちを新たに、そう在るよう努めよう。