生田武志氏の反論に答える【前編】
先日の記事に対し、生田武志さんから応答があった。ご多忙な中、このようなまとまった反論を書いてくださったことに、まずはお礼申し上げたい。内容としては正直、以下のように同意できない部分が多かったものの、こちらから再度応答するのは諸事情あって中々難しく、そうこうするうちに日数も経って、応答の機を逸した感があった。が、ここしばらくのあいだに本件のことを思い出させるいくつかの出来事があり、さらに『差別は思いやりでは解決しない』と銘打つ書籍まで販売されることを知ったので、やはり多少なりとも生田さんの思想に対する私の所感を示す必要があるのではないかとの考えに至った。そこで、遅まきながら以下に再度の応答を述べたい。
肉食男根ロゴス中心主義について
日本の男性が「幼児」的主体であるという生田さんの議論は分かったが、それを根拠に肉食男根ロゴス中心主義が日本に存在しないとまで結論するのは疑問である。畜産業界のプロパガンダが功を奏し、今日の日本では肉を食べねば「一人前」の人間になれないとの説が民間に広く根付いている。のみならず、肉食を拒む人々の主張は、今日の社会において常に妥当性を疑われ、「偏っている」「一面的」「極論」などのレッテルを貼られる。動物論のトークイベントやシンポジウムですら、列席するのは狩猟者や狩猟文化の研究者、非ビーガンの作家や芸術家など、動物を殺す人々、肉を食べる人々が大部分で、普段から絶えず動物のことを考えている倫理的な非肉食者は全く相手にされない(*1)。
同様のことは女性に関しても言える。ローラが辺野古反対や環境保護のメッセージを発した際には「迷走」「セレブ気取り」「ハリウッドかぶれ」などの嘲笑的な罵詈雑言が浴びせられた。グレタ・トゥーンベリの訴えも、現実を分かっていない子どもの駄々と軽んじられている。かたや白人男性のホアキン・フェニックスがアカデミー賞受賞スピーチで感情たっぷりに動物の権利を論じた時には、嘲笑の声はどこからも聞かれず、むしろ誰もが彼を絶讃した。ホアキンが語ったことは、女性が大部分を占める動物の権利運動において、何十年も前から言われてきた典型的な動物搾取批判だったにもかかわらず、である。他方、グレタ・トゥーンベリを擁護する日本の紙面では、女性に対する蔑視や嘲笑を批判してきたフェミニストではなく、気候科学者の江守正多氏などが権威として登場する。もちろんこれはホアキン・フェニックスや江守正多氏が悪いのではなく、そうした人々(男性権威)の声を女性たちの声よりも無自覚に優遇する日本社会の問題である。こうした例はいくらでも挙げられる。女性たちは明らかに、声を認められるためのハードルを男性よりも圧倒的に高く設定されているのである。
ロゴスについて振り返ると、日本には確かに生田さんがいう通り、「多くの方々の気持ち」や「空気」のような集団感情を重視する文化が根付いている。が、問題は多くの日本人がそれを全く自覚していないことである。人々(特に大部分の男性)は、気分や空気に左右されながらも、自分のことを至極「理性的」「論理的」だと思い込み、それゆえに自分の主張は正統性を認められて当然だと前提している。かたや他人の声を封じたい時には「感情論」やそれに属するレッテルを用いる。理性と感情が共存しうること、理性が誤りうること、感情論が誤りとは限らないこと、等々は全く顧みられない。本人がロゴスから逸脱していようと、ロゴスを奉じ、そこから逸脱しているとみたものを排除するのであれば、それはロゴス中心主義に相違ない。
以上のことから、生田さんの議論を踏まえてもなお、肉食男根ロゴス中心主義は日本に厳然として存在すると考えるよりない。これを覆すとしたらよほど強力な論拠が要されるだろう。
動物に対する日本人の冷酷さについて
「『動物の福祉』『動物の解放』にこれほど冷淡な現代日本の態度はどこから来るのか」という点であるが、それ以前にまず、動物福祉や動物解放に対しては、日本のみならず欧米圏でも一昔前まで強い反発があったことは振り返られてよい。近年ではさすがに動物福祉政策の意義すら認めない者は減ったと思うが、それは畜産業の実態を明るみに出した多数の暴露事件や、どんなバッシングにも屈しない活動家たちの粘り強い努力があったからこその成果である。それ以前は動物解放集団のみならず、保守的な動物福祉団体すら「過激派」や「テロリスト」とみなされていた。動物解放の主張は現在の欧米圏でも周縁化されている。これらの事情については『動物倫理の最前線』ならびに『捏造されるエコテロリズム』を参照されたい。
次に、日本でそうした取り組みが顧みられない理由はいくつか考えられる。第一に、殺す予定の動物をなるべく苦しめないように扱うという動物福祉の発想は、欧米圏発祥の極めて特殊な考え方であるため、苦しみよりも命を重視する日本では理解が得られにくい。また、「解放」や「権利」の概念も欧米圏固有の意味合いで用いられているため、やはり理解されにくい。第二に、寄付文化がない日本では動物擁護団体が力を持てないため、人々の啓蒙に限界がある。第三に、動物倫理の哲学を正しく伝えられるはずのアカデミズムが動物倫理に背を向けてきた。関連する出版物も、私が翻訳活動を始める以前はほとんど存在しなかった。第四に、権威主義が幅を利かせる日本では、少数派の社会正義が貶められ、社会正義の標的となる事業者や政府に同情が集まる。「動物解放は畜産農家から職を奪う」という反論は定番である。第五に、思考停止へいざなう「感謝」と「いただきます」の呪文が強力過ぎる。
ほかにも色々と要因は挙げられるだろうが、肉食に伴う「覚悟」がなかったせいで日本人は動物に冷酷になった、という精神論には疑問を覚える。もしもそれが当たっているとするなら、いうところの「覚悟」があったはずの畜産文化圏で工場式畜産が発達した理由が説明できない(生田さんのこのたびの応答を読み返してもやはりその部分が分からなかった)。
なお、狩猟・伝統畜産・工場式畜産を区別しなければ「『屠殺』と『肉食』に関する議論は永久に噛み合わず、平行線をたどり続ける」とあるが、これもよく分からない。なるほど児童労働一つとっても、工場労働・農場労働・炭鉱労働・性労働・軍務などは全て違う。それと同じく、動物搾取もその種類に応じて一つ一つ実態を確かめ、何が問題なのかを検証する必要はあるだろう。が、それらはいずれも動物たちを手段として扱い、かれらにいわれなき苦しみを与える不正には違いない。そこにあえて「倫理的」な区別を設け、「軽度」の蛮行を容認することの問題については、『最前線』の父権的抑圧に関するくだりで論じた通りである(p.270-5)。
憐れみや思いやりについて
生田さんは憐れみや思いやりを、ごく浅い意味で捉えているように思える。私が考えるそれは「共に苦しむ」というcompassionの原義に近い。それは他者の心情を汲み、その苦しみに配慮するといった、より基本的な感情使用である。
社会正義の従事者は被抑圧者に「憐れみや思いやり」の気持ちで関わったりはしない、とのことであるが、例えば相手の様子を見て「大丈夫ですか?」「頑張って」などと声をかける、あるいはつらそうにしている人に理解や共感を示すといった振る舞いは日常的になされる。これは憐れみや思いやりにほかならない。動物擁護に携わる人々は、私も含め、虐げられる動物たちが「かわいそう」だと言うが、それも憐れみである。生田さんは先の書評で子どもに触れ、「難しい(ややこしい)理論に関係なく、このこどもたちは『動物を殺して食べるのは間違いだ』と普通に考えて実践したのだ」と述べている。これが憐れみでなくて何なのだろうか。不正への怒りも、被害者に対する憐れみあってのことである。世の中はこうした憐れみや思いやりの集合から成り立っている。
「正義の問題は思いやりでは解決しない」という(よく聞かれる)スローガンのもと、このような憐れみや思いやりを捨て去ったとしたら、社会正義の展望は荒涼としたものになる。抑圧される人々の声を聴き、その苦しみに寄り添う努力はもはやない。相手の悩みやトラウマを刺激しないよう言葉を選び、相手が羞恥や屈辱を感じないような支援のあり方を探る努力も不要ということになる(社会的公正が守られるかぎり)。DV被害者その他、差別や暴力に苦しむ人々は、何よりも自分の心情を分かってくれる理解者を第一に求めることが往々にしてあると思われるが、果たして憐れみや思いやりなき冷徹な正義の従事者が、その求めに応じられるだろうか。被抑圧者にとって安全な居場所、安心できる居場所を、主観的・感情的な苦しみに寄り添わない者がつくれるだろうか。私は絶対に不可能だと思う。現に思いやりの価値を認めない正義の従事者らが、他人を傷つけることを平気で口にしている現状をみるにつけても、その確信は強まるばかりである。
また重要な点として、『最前線』で論じたこととも重なるが、そもそも憐れみや思いやりがなければ、生田さんが重んじるところの尊厳という概念すら基盤が危うくなる。何が人や動物にとっての尊厳なのか、なぜその尊厳が守られなければならないのか、という根本の問いを考えていくと、最後には存在の苦しみや脆弱性に対する最も基本的な配慮、つまり憐れみや思いやりへと行き着かざるを得ないだろう。
<後編へ続く>
*1 例えば明治大学理工学研究科が開催したシンポジウム「動物のいのち」ならびに「動物のいのち2」などは典型である。
[1]動物のいのち:http://sauvage.jp/activities/2727(2022年8月14日アクセス)
[2]動物のいのち2:https://www.meiji.ac.jp/koho/meidaikouhou/202001/p07_02.html(2022年8月14日アクセス)
狩猟者や狩猟研究者、バイオアーティストなどが集ったこのシンポジウムでは、象徴的にも「動物のいのちを奪うことの大切さ」が全体を貫くテーマとなった(上記リンク[1]を参照)。