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マリア論オンライン講座

教皇フランシスコ 正午の祈りでの話 (2021年8月15日:被昇天の聖母の祭日)

2022.08.15 10:56

愛する兄弟姉妹の皆さん、こんにちは。

聖母の被昇天の祭日、おめでとうございます!


今日、祝せられたおとめマリアの被昇天の祭日、

典礼の中で際立つのは、「マグニフィカト」の賛歌です。


この賛歌は、神の母の「写真」のようなものです。


マリアは、「神によって引き上げられました、

なぜなら、神が、はしための謙虚さ(謙遜)(l’umiltà:身分の低さ)に

目を留めてくださったからです」(ルカ1・47-48参照)。


マリアの秘密は、謙虚さ(謙遜)です。

神のまなざしをマリアの上に引きつけたのは、謙虚さです。


人間の目はつねに偉大なものを探し求め、目を引くものに惑わされます。


それに反して、神は、外見ではなく心をご覧になり(サムエル上16・7参照)、

謙虚さに魅了されるのです。心の謙虚さは、神を魅了するのです。


今日、天に上げられたマリアを見つめながら、

私たちは言うことが出来ます。

天への道は謙虚さ(謙遜)であると。


「謙虚さ(謙遜)」という言葉は、

「土」を意味するラテン語のhumusから来ます。


それは逆説的です。

上、つまり天に到達するためには、

地面のように低いところに留まる必要があるのです!


イエスは、それを教えておられます。

「自らへりくだる者は上げられる(自分を低くする者は、高く上げられる)」(ルカ14・11)。


神が私たちを高く上げられるのは、

才能(資質)や富、腕前のためではなく、謙虚さのためです。

神は、謙虚さに心を奪われます。


神は、自らを低くする者、仕える者を高く上げられます。


実際、マリアは、自分自身に

はしためという「名称」以外には何も与えませんでした。


マリアは、「主のはしため」(ルカ1・38)です。

マリアは、自分自身のことを、「はしため」という名称以外では呼ばず、

自分自身のために、はしためであること以外は求めませんでした。


***

今日、私たち一人ひとりは、自分の心の中で、問いかけることが出来るでしょう。


私は、人々に認められること、自分を肯定すること、

褒められることを求めているだろうか、

それとも、仕える(奉仕する)ことを考えているだろうか。


マリアのように、耳を傾けることを知っているだろうか、

それとも、ただ話して、注目を浴びたいと望んでいるのだろうか。


マリアのように、沈黙することを知っているだろうか、

それとも、いつも、おしゃべりばかりしているだろうか。


けんかや論争を除くために、一歩下がることを知っているだろうか、

それとも、いつも、他の人より前に出ることだけを求めているだろうか。


これらの問いかけを考えてみましょう。

私はどのように謙虚さに対しているでしょうか。


***

マリアは、自分の小ささにおいて、最初に天を獲得しました。

マリアの成功の秘密は、

まさに、自分が小さい者であること、

助けを必要としていることを認める中にあります。


神のもとでは、自分を無であると認める者だけが、

すべてを受け取ることが出来るのです。


自分自身を空にする者だけが、神によって満たされるのです。


そしてマリアは、まさに、彼女の謙虚さのゆえに、

「恵みに満ちた」方(28節)なのです。


私たちにとっても、謙虚さ(謙遜)はつねに、出発点であり、

信仰を持つことの始まりです。


根本的なのは、霊において貧しい者であること、

つまり、神を必要としている者であることです。


自分自身でいっぱいになっている人は、神に空間を空けません。

そして、私たちはひじょうにしばしば、自分のことでいっぱいになっています。


けれど、謙虚さを保つ人は、

主に、偉大なわざを行うことを可能にします(49節参照)。


***

詩人ダンテは、おとめマリアを、

「被造物の中で、最も謙虚で気高い方」(Paradiso XXXIII, 2)と表現しています。


歴史の中で、最も謙虚で、最も気高い被造物、

最初に、自分の全存在、つまり霊と体において、天を獲得した方が、

生涯の大部分を、家庭の中で、普通に、謙虚に過ごしたと考えることは

美しいことです。


「恵みに満ちた方」の日々は、人目を引くものではありませんでした。

しばしば、変わったこともなく、沈黙のうちに過ぎました。

外見上、並外れたことは何もありませんでした。


けれど、神は、マリアの謙虚さ、準備が出来ている状態、

決して罪によって触れられたことのない心の美しさに感嘆しながら、

ご自分のまなざしを、つねにマリアの上に注いでおられました。


***

それは、私たち一人ひとり、

疲労困憊し、何の変化もない、しばしば困難な日々を送っているあなたへの、

大きな希望のメッセージです。


マリアは、今日、私たちに思い起こしています。

神は、あなたをも、この栄光の運命に呼んでおられることを。

それは単なる美しい言葉ではなく、真実です。


それは、芸術的に作られたハッピーエンドでも、

敬虔な幻想でも、偽りの慰めでもありません。


違います。

聖母が天に上げられたように、

[私たちも栄光にあずかるように招かれているというのは]

純粋で生き生きとした、真の現実なのです。


今日、私たちは、

子としての愛をもって、聖母を祝いましょう。

喜びに満ちて、しかし謙虚に、

いつか天で、聖母と一緒になるという希望に動かされながら、

聖母を祝いましょう!


***

そして、今、聖母に祈りましょう。


聖母が、地上から天への歩みにおいて、私たちに寄り添ってくださいますように。

聖母が私たちに、この歩みの秘密が、

謙虚さ(謙遜)という言葉の中に含まれていることを、

思い起こしてくださいますように。この言葉を忘れないようにしましょう。


そして、小ささと、仕えることが、

目的地、天に到達するための秘密であることを、思い起こしてくださいますように。


(お告げの祈りの後に)


聖母の被昇天の休暇を、

さまざまな避暑地で過ごしている人々に、安らぎと平和を願います。


けれど、休暇を取れない人、地域のための奉仕を続けている人、

また、猛暑や、休暇のための営業停止によって、

さらに困難な状況に置かれている人々のことを、忘れることは出来ません。


特に、病人、高齢者、囚人、失業者、難民、

そして、孤独な人、困難の中にいる人々を思います。

聖母が、一人ひとりの上に、母としてのご保護を広げてくださいますように。


***

私はあなた方に、今日、一つの美しい行為を果たすことをお勧めします。

聖母を崇敬するために、聖母巡礼地に行ってください。

ローマにいる人たちは、聖マリア大聖堂に行って、

「ローマ人の救いの聖母(Salus Populi Romani )」のイコンの前で

祈るのもよいでしょう。


***

聖母の被昇天の祭日、おめでとうございます。

そして、私のために祈ることを忘れないでください。