誓約(人生脚本)からの解放
聖書に「園の中央にある善悪を知る木から取って食べてはならない。食べると死ぬから」と書いてあります。取って食べたアダムとイブは 神を失い、楽園を追放されます。
善悪の区分をすることは自己を神化することであり、絶対的な善悪は 存在しないということではないでしょうか。
そのの中央の木の実とはリンゴだと通説には言われています。
しかしダンワールドではマゴガーデン(地球)で葡萄の実を食べた故 人間の堕落が始まったと教えます。
私はこのアニメを観た時 聖書物語の楽園追放をイメージせずにはおれませんでした。
機会があってナジルびとを調べました。
ウィキペディアには以下のように記されています。
ナジル人(ナジルびと)とは、聖書に登場する、自ら志願してあるいは神の任命を受けることによって、特別な誓約を神に捧げた者のことである。
実名で知られている者としてはサムソンが挙げられるが、他にも大勢のナジル人が存在したことを聖書は示している。また、サムエルもナジル人であったとする意見もある。
ヘブライ語のナジールは、「聖別された者」を意味する。
この同じ語は、ヨセフが祝福されたことに関連しても用いられている。
ナジル人の誓約[編集]
「民数記」6章にその規定が存在する。
ありとあらゆる葡萄の木の産物を口にすることを禁止される。
葡萄酒、葡萄酢(ワイン・ビネガー)、生のまま、干したもの(レーズン)、まだ熟していないもの、皮、が列挙されている。
髪を切ってはいけない。
死者に近づいてはいけない。たとえそれが自分の父母であっても例外は存在しない。
旧約聖書に従えば 葡萄及びその加工品を口にすれば 神の祭司としての資格を失うことになります。
クリスチャンはキリストの血と肉に預かるシンボルとしてパンと葡萄酒を使います。(ミサも聖餐も)ミサや聖餐式は過ぎ越しの食事の象徴だともいわれます。
災いを過ぎ越し 奴隷から導き出された 神の民の感謝の儀式です。
「パン」は出エジプトの時に朝ごとに与えられた「マナ」を象徴し「葡萄酒」は 出エジプトの時 神のもたらす災いを通り過ぎさせるために 門に塗った「子羊の血」の象徴といえます。またイエスは神の子羊とも言われます。
ミサも聖餐も信者以外は預かることができません。
神の民として聖別されるはずの儀式が ナジルびととしての誓約を破棄する儀式となっていることになります。
礼拝の中心にあるこの典礼式の矛盾を どのように受け止めればよいのでしょう?
https://www.itmedia.co.jp/im/articles/1103/31/news105.html 【「人生脚本」を見直せば、悩みを根本的に解決できる】より()
なぜあの人にはうまく話しかけられないのか、なぜ集団の中にいると言い知れぬ不安やいら立ちを覚えるのか?――あらゆる局面で、あなたの気持ちや判断を左右している「人生脚本」に原因を探れば、もっとポジティブに毎日を送れるようになるはずだ。
「自分はこう生きる」という筋書き、それが人生脚本
前回『幼いころの“構ってちゃん”が仕事や人生の邪魔をする』までの5回の連載で、心の栄養「ストローク」を軸としたTA理論の全容を解説してきました。最終回となる今回は、これまでにご紹介してきた理論を基に「人生脚本」という概念をご紹介します。
全ての人は生まれた後、親や周りの人間とのコミュニケーションを通じて「人生脚本」を書くと言われています。これは幼少期の「自分はこう生きるのだ」という筋書きです。人は幼いころに描いた脚本を基に、人生のあらゆる場面で決断を下しながら生きていくわけです。
TAを提唱した精神科医、エリックバーンは人生脚本について次のように定義しています。
脚本とは、人生早期に親の影響の下に発達し、現在も進行中のプログラムを言い、個人の人生の最も重要な局面で、どう行動すべきか指図するものである
「幼少期に描き、なおかつ現在進行中のプログラムが、全員にある」と言うと、少し信じがたい気持ちになるかもしれませんが、実際に私たちが人生のあらゆる局面で下す決断は、「幼少期の親との交流」によって描いたこの「人生脚本」に沿ったものなのです。
脚本には、「勝者の脚本」「平凡者の脚本」「敗者の脚本」があります。
勝者:自分の知性、感情、創造性、身体的感覚と行動が調和していて、生きる喜びの実感がある。要は、人を信じ、信じられ、自分の可能性を信じ、自分らしく生きることができる人:自分の知性、感情、創造性、身体的感覚と行動が調和していて、生きる喜びの実感がある。要は、人を信じ、信じられ、自分の可能性を信じ、自分らしく生きることができる人
敗者:自分が生き生きと生きるために自分の能力を使えないでいる人。理屈をつけて合理化したり、詭弁を用いることで知性を誤用していくので、自分の責任を自分で取ることができず、考え方や言動に何か違和感がある。人を信じたり、信じられることに、何となく息苦しさを覚え、自分の思うように生きられない人:自分が生き生きと生きるために自分の能力を使えないでいる人。理屈をつけて合理化したり、詭弁を用いることで知性を誤用していくので、自分の責任を自分で取ることができず、考え方や言動に何か違和感がある。人を信じたり、信じられることに、何となく息苦しさを覚え、自分の思うように生きられない人
これらに対し、平凡者の脚本は「まぁほどほどでいい」というものです。破たんするような人生を選ぶこともありませんが、自分らしい自発的かつ自律的な人生を歩んでいるとも言えません。
では、これを基に実際の社会を見渡してみるとどうでしょう。若年層の自殺が多かったり、働き過ぎて病に倒れたり、コミュニケーションをうまく取れない人が増えているということから、勝者として生きる人は、ほんの一握りで、ほとんどの人が平凡者、もしくは敗者の脚本を持っていると言えます。
平凡者、敗者の脚本を持つ人は、ほしいものを素直に欲しいと言わなかったり、「我慢しなくては」とか、「○○しなくては」「○○でなくては」というプレッシャーを感じながら、思い通りにならない壁にぶち当たり、落ち込んだり、無力感を感じたりしています。
自分が何かしようとすると邪魔が入る気がする人もいますし、嬉しいことがあっても、心から喜ぶことに申し訳なさを覚える人も多くいます。「喜んではいけない」「調子に乗ってはいけない」「喜んでもすぐにしっぺ返しを食らうに決まっている」「楽しんではいけない」「どうせ自分は○○だ」というように、自分自身の脚本に沿って自ら可能性を排除してしまいます。
「○○は才能があっていいよね」と、人をうらやむものの自分では何もしない人や、「どうせ私なんて」と自分の価値を過小評価する人もいます。これまでの連載でお伝えした例で言うと、“ゲームを演じてしまう人”“プラスのストロークを素直に受け渡しすることに違和感がある人”、“自己に否定的、他者に否定的な心理的ポジションに移ろいがちな人”は思い当たる場面があるのではないかと思います(詳細は第4回『“生き方の癖”が分かれば、仕事も人生も改善できる』、第5回『幼いころの“構ってちゃん”が仕事や人生の邪魔をする』を参照)。自分の思うように生きられない人は世の中に非常に多いのです。
それが悪いこととは一概には言えませんが、自分の思う人生を生きられないのであれば苦しいですよね。自由に動いている他の人たちがうらやましく思えてしまうこともあるでしょう。しかし、そうした行動や思考パターンは、幼少期における親や周りの人間とのコミュニケーション――すなわち、「どうやったら目上の人(親や大人)からストロークをもらえるだろうか?」と幼少期に考えた末に下した「決断」によって形作られたものなのです。
すなわち、人生脚本とは「どうやったらストロークをもらえるか?」と考えた末に下した“幼少期の決断”のことであり、これが人生のあらゆる局面で、その行動や思考の傾向を大きく左右しているのです。心理学理論、TAではこれを「幼児決断」と呼んでいます。
“決断”のパターンは幼少期に作り上げられる
では「幼児決断」にはどのようなものがあるのでしょうか? 例を挙げると、両親が非常に忙しい家庭に育ち、病気のときだけ優しくしてもらうような経験をすると、「自分は健康であってはいけない」という“決断”を下すこともあり得ます。
入試、就職、結婚、決別など、その人に「プレッシャーの掛かる場面」「生活が変わる場面」において病的な反応が現れたりするのは、こうして書かれた人生脚本が影響しているのです。
同様に、うまくできたときは褒めてもらえず、失敗をすると「お前はおっちょこちょいだねぇ」と両親が仲良く笑う、という経験を持つ子供は、何かあるたびにドジをして「ダメな子」を演じることでストロークをもらうという脚本を描くことがあります。こうした人が大人になると、周囲の人間から「○○はほんとにバカだなぁ」と言われると、自分でも「私はおっちょこちょいだからなぁ……。あはは」と返すといった具合に、自ら人生脚本を強めていくことになります。
また、幼いころから「お前がいなければお兄ちゃんが大学に行けたのに」などと言われて育った場合は、「自分は存在してはいけない」という“決断”を心の底に持つ可能性があります。この場合、いじめや入試、就職の失敗など、何らかのストレスを引き金にして、脚本に従い破たんに向かう人生を選ぶ可能性もあります。
何らかの出来事に対して、人それぞれ取る行動は違うわけですが、勝者の脚本を持つ人であれば、悲しみや悔しさ、嬉しさ、楽しさという感情を言葉で表現したりすることで、自分自身で自律的に治癒することができます。ところが、自分や他人を否定する「Not OK」の感情を含んだ脚本を持ってしまっている場合(第4回『“生き方の癖”が分かれば、仕事も人生も改善できる』を参照)、その出来事によるストレスをきっかけにして、「Not OK」という脚本のプログラムが実行されていくわけです。否定的な感情――例えば、環境を恨んだり、自分の無力感にさいなまれたりして、自律的な生き方とはほど遠い生き方になっていきます。
職場の環境、世の中の変化を苦に自殺をしたり、精神的な病気になってしまう人が多くいらっしゃいますが、こうしたケースについてもあくまでもその出来事は「きっかけ」であり、その場面でそうした決断をする背景には、「いざとなったら死んで認めさせてやる」「いざとなったら自分がいなくなろう」「私が死ねば(窮地に立てば)周りは心配してくれるだろう」といった類の脚本が働いていると考えられます。自殺まで行かずとも、暴飲暴食、乱暴な運転など、自分を軽視する行動はそのような脚本の現れと言えます。
人は生まれた直後から、親や周りとのストロークのやり取り(交流)を経験し、これを通して基本的な心理的ポジションを作りながら幼少期を迎え、12~13才までに性格、つまり「5つの心のバランス」を形成していきます(第3回『人間関係とやる気の問題は、こうすれば解決できる 』を参照)。そうした幼少期の過程の中で形作られ、その人の生き方を最も強く左右するのが、「自分はこういう生き方をするんだ」という人生脚本というわけです。
ストロークをもらうための手段として繰り返す「心理ゲーム」も、人生脚本に沿って行なわれていると考えられます。
「今の自分なら解決できる」と考え、幼少期の決断を書き直す
TAの目的は、この「人生脚本」を書き変えるという点にあると言われています。
幼少期の親の影響の大きさを強調してきましたが、TAでは「自律性」を重んじますので、
決して「育った環境や親を責めるようなことをしよう」というわけではありません。脚本を書いたときに、そのようにメッセージを受け取ったのも「自分自身」であるわけですから、その自分自身で「脚本を書き変えることも可能である」という立場から、自律的な生き方への転換を目指すことが目的なのです。
ただし、書き換えを行う際に心に置いてほしいのが、「幼少期の自分と今の自分は違う」ということです。
人生脚本を書くのは幼少のころですから、以下のようなハンディキャップがある中で、人生に対する決断を下しています。
子供は両親に比べて考える力もなく力も弱いため、「両親に見捨てられたら大変だ」という状況で決断をする
子供はストレスを受けたときの対処法を知らないため、ストレス対処法として常識では考えられない決断をする可能性がある
考える力がまだ十分に発達していないため、子供らしい考え方の中で物事を大げさに解釈したり、自己過信の考え方をしながら決断を下すことがある
子供の情報量は少なく、両親の顔色や兄弟親戚からの圧力といった限られた情報に基づいて判断を下すことがある
子供が取り得る方法は限られており、代替案が非常に少ない中から判断を下さなければならない
つまり、子供のころはどうにもならなかったけれど、今の自分が同じ状況にあれば対処できる可能性は非常に高いわけです。人生脚本を書き直すとは、すなわち、この「今の自分が同じ状況にあれば、対処できる可能性は非常に高い」という見解に基づいて、“決断”をし直すわけです。
では、具体的にはどうすれば良いのでしょうか? ここで人生脚本を書き直す一番簡単な方法を紹介しておきましょう。
いつも感じる嫌な感情――例えば「○○のような特徴を持つ異性に対して、優しく声を掛けられない」「プレッシャーの掛かる場面でいつも失敗をしてしまう」「集団の中にいると逃げ出したくなる」などを感じたときに、「幼少期に同じような感情を感じた場面はなかったか?」を思い出してみるのです。
高校、中学、小学校、幼稚園とさかのぼって、「一番古い記憶」を探し出します。例えば、「年上の男性に優しく声を掛けられない」という悩みを持つ女性を想定してみましょう。彼女は幼稚園のときに父親から「お前が男の子だったら良かったのに」などの言葉を掛けられ、すごく悲しい気分になったことを思い出しました。そして、年上の男性と対面すると、いつも同じような感情が沸き起こってくることに気付きます。
こうした場合は、昔、父親に「お前が男の子だったら良かったのに」と言われた場面を想定して、当時言えなかった感情、「無茶なこと言わないでよ!」という言葉を、架空の父親や父親役の人物に対して思いっ切りぶつけるだけでも状況は改善します。要するに「子供のころはどうにもならなかったけれど、今の自分には何の問題でもない」と自覚できれば、同じような場面に遭遇したとしても、自分で乗り越えられるようになるのです。
人の問題行動の裏にある、“寂しさ”を理解してあげよう
さて、以上のように私たちの人生は、そのさまざまな局面において「人生脚本」に大きく左右されています。特に近年、私たちは第1回『「いつでもどこでも仕事ができる」がつらい人たちへ』でお伝えしたようなユビキタス社会へのストレス、職場での人間関係によるストレスなど、常にあらゆるストレスや状況変化にさらされながら生きています。その要所要所で「人生脚本」が露呈するのです。しかし、幼いころに作り上げたその生き方――決断のパターン――は、「自分で変えることができる」ということを、ぜひ強く認識してほしいと思います。
そこで、本連載でお伝えしてきたTAの理論を駆使して、まずは「今ここの自分」から変えてみてください。具体的には、以下の3つのポイントを日常的に意識してみてください。これにより、どんな局面においても良い感情や良いイメージが持てるようになれば自己変革は大成功と言えると思います。
プラスのストロークを素直に受け渡しすること
心のポジションを「OK OK」に保つこと
心理ゲームを避けること
これが難しいようでしたら、前のページで紹介した「脚本分析」と「書き直し」を行ってみてください。あなたが日常の中で感じる嫌な感情の根元には、きっと幼いころに消化し切れなかった何らかの経験があるのだと思います。自分で難しいようでしたら、TAに詳しい専門のセラピストの力を借りて行うのも良いと思います。この書き直しが成功すれば、あなたはあらゆる局面で、ずっと明るく、ポジティブな決断を下せるようになるはずです。
さて、本連載で私がご紹介したかった内容は、以上で全てとなります。ただ、最後にもう1つだけお伝えしたいことは、「TAの理論を学べば、心理ゲームを仕掛ける人も、マイナスのストロークを受け取る人も発する人も、もともとは人を傷つける目的で行動しているわけではないと分かる」ということです。「みんなストロークが欲しいだけ」と考えれば、自分には理解できない行動を取る人に対しても、無理をせず、温かい心で接することができるようになります。相手を否定せず、肯定するとは、このように相手の真意を汲み取り、その気持ちを思いやり、温かく接してあげる、ということなのではないでしょうか。
世の中は変化しますし、人は人との関わりなしに心の健康を保つことはできません。
しかしどんな状況においても、人は、人と関わりながら自律的に自分の人生(コミュニケーション、仕事、家庭)を創り上げていくことができます。そのことに、一人でも多くの人が気付き、自発的に変わっていければ、社会全体が素晴らしい価値を発揮するネットワークになるのではないかと私は考えています。
この連載を読んでいただいた皆さんの心の変化により、皆さん自身、皆さんの職場、そして皆さんのご家庭がハッピーになることを心から祈りつつ、私自身も一緒になって「今ここの自分」を大切にしていきたいと思います。
長期にわたりお付き合いいただき、ありがとうございました。
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この世で起きていること全ては幻想であり、全てが信じ込みや想念が作り出してきた イメージであるに過ぎません。
その上、私たちは「信じ込みや想念を強化するように生きていく」傾向があり その袋小路から なかなか抜け出せません。
幻想を手放し 本来の自分(霊魂)を思い出し始めると 自然で 軽く、明るく、穏やかなエネルギーに変化してゆきます。
過去を解決完了する時 これまでの自分に捉われない 明日が開いてゆきます。
そんなお手伝いができるのが心理療法です。「未完の過去を許して自らになる」平安と 喜びをどうか取り戻して下さい。
軽くて穏やかで、楽しく、柔らかい振動数・周波数を発信すると同じようなエネルギーと共鳴し増幅し 同じようなエネルギーを引き寄せます。
「全ては自分の選択次第」に気づくことにより 責任主体として 幸せの発信源になるとも言えます。
地球全体が大きな変容を遂げようとしている今 そこに生きている私たちも、 意識の変容を促されているようです。
意識の変容、覚醒を促す 沢山のセミナー、ワークショップ、個人セッションが 開催されています。
自分を導くのは 内なる霊魂であり 神性であり、愛であり、光であることを信じ それらを活用しながら自然に変容し、霊魂の成長に預かりたいものです。