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Kazu Bike Journey

Okinawa 沖縄 #2 Day 273 (13/10/24) 旧中城間切 北中城村 (04) Adaniya Hamlet 安谷屋集落

2024.10.14 13:09

旧中城間切 安谷屋集落 (アダンナ、あだにや)



今日は北中城村の四つめの集落の安谷屋と石平を訪れる。


旧中城間切 安谷屋集落 (アダンナ、あだにや)

安谷屋 (アダンナ・あだにや) は、北中城村の南西部、普天間川の上流右岸に位置し、南西側は宜野湾市、南側は中城村と隣接している。北東から北西部は丘陵地で南部に平地が広がっている。

安谷屋は北中城村で最も古い集落で、ハダカユー (裸世、原始時代) からあったと伝わっている。安谷屋に伝わる民話では安谷屋の発祥は神代の時代という。沖縄神話では海から昼夜かけて沖縄の島が浮き上がってくるのだが、最初は山原 (ヤンバル) の辺戸岬で、二番目に浮き上がったのがこの安谷屋という、三番目は斎場御嶽 (セーファーウタキ) とされる。 一番目にできた辺戸岬に辺戸大主 (へドゥウスー) が上がり、その後、安谷屋にやってきて国づくりをしたとされる。辺戸大主は安谷屋大主とも呼ばれている。辺戸大主が国造りをした場所が安谷屋グスク北西側の東後原 (アガリクシバル 安里原 [アサトゥバル]) と伝えられ、その後、安谷屋集落は15世紀には、現在の若松公園のユナハンの東の根所火又神が所在する周辺に移動しており、集落は漸次、南の傾斜地に移り、さらに南の平地にあるイームイを取り囲むように形成された。

当時の集落の傾斜地にはアダンが群生していたので 「アダンナ」 と呼ばれる様になったという説がある。

安谷屋は東村渠原 (アガリンダカリバル)、 西村渠原 (イリンダカリバル)、前原 (メーバル)、上原 (イーバル)、久間良原 (クマーラバル)、赤畠原 (アカバタキーバル)、亀甲原 (カミグーバル)、東後原 (アガリクシバル)、神峯原 (カンヌミバル)、古馬上原 (フルマイーバル)、樋川原 (ヒージャーバル)、西後原 (イリクシバル)、武宇留原 (ブウルバル)、下川原 (シュムガーラバル)、鎌下原 (カマシチャバル)、儀間原 (ジーマバル)、西原 (イリーバル)、池舛原 (イチマシバル) のの18の小字で構成されている。

安谷屋集落は、東村渠原、西村渠原、前原の北側 (上森周辺) に集中し、久間良原に一部存在している。儀間原の北西は、瑞慶覧、 北谷村に連なる広範な農耕地だった。明治時代後半には水田は減少し殆どが畑となり、甘藷、甘蔗、大豆等 の豆類、水稲の作付け、10ヶ所のサーターヤー (製糖小屋) で黒砂糖の製造が行われ、畜産も盛んだった。集落北側斜面を通る荻道・大城への道路 (現県道146号線) は、荷馬車の往来も多く、乗合バスが走り、大山駅まで軌道が敷かれ、トロッコで砂糖きびを運搬していた。

1944年に入ると青年男子の徴兵が始まり、村では働き手がいなくなり、住民の生活は苦しくなってきた。同年夏には日本軍が喜舎場国民学校に駐屯し、その後まもなく、安谷屋にも石部隊が倶楽部 (公民館) や個人の家に駐屯し、陣地を構築したり、壕を掘ったり、米軍の戦車の進路を絶つために民家の石垣を壊して、要壁を作ったりしていた。部落の人たちは軍隊に野菜、芋などの農作物を拠出していた。1944年年の十・十空襲では安谷屋集落には被害は無かったのだが、焼き出された那覇の人たちが、住み家を求めて安谷屋にも避難し、その後、米軍上陸前にヤンバルに引っ越していった。

1945年の1-2月に石部隊の兵隊は安谷屋から島尻方面に引き上げて行った。軍と行動を共にした住民もいたが、その家族たちは、その後、ほとんどが戦火で亡くなったという。1945年4月1日に米軍が北谷村砂辺に上陸し、北と南の二手に分かれて進攻していった。安谷屋集落は米軍侵攻ルートの間に位置しているので、島尻への避難も不可能となり、多くの住民は安谷屋にとどまり、壕や墓に隠れていたが、4月5-6日までにはほとんどが捕虜になっている。捕虜になった人たちは砂辺の浜に張ったテントに集められ、そこから宜野湾市野嵩と北中城村島袋 (4月4日-7月12日) に移動。さらに沖縄市安慶田や照屋、うるま市のトゥールガマーやマースヤー (塩屋)、宜野座村の福山あたりに移された。

住民が捕虜となり各地に収容され、空になった安谷屋は難民収容所として使用され、南部で捕虜になった人たちが安谷屋に収容されていた。この時期には安谷屋集落の人口は八千人に達していたといわれる。

1945年11月にコザ地区に収容されていた安谷屋の住民たちは北中城村では最も早い帰還の許可が降りている。これは帰郷である。帰還が叶わなかった屋宜原、瑞慶覧、荻道や大城の人たちも安谷屋に移ってきている。

安谷屋住民で沖縄戦で亡くなった人は265人で当時の住民の33.2%に当たる。村内での戦没者は14人で戦没者のうちの5%だが、沖縄各地に逃げていった人は多くが亡くなっており、その数は188人で戦没者の71%を占める。村に留まっていれば捕虜として生きながらえたはずだが ...


字安谷屋の人口は戦前までは、北中城村の中では字熱田に次いで二番目に多かった。現在でも二番目に人口の多い地域で、明治時代に比べて約2倍の1877人になっている。

沖縄戦で人口は激減していたが、戦後人口は回復し、1960年には1500人を超えている。その後、人口は1300人に減少するが再び増加に転じ、1990年代には1800人になっている。その後は微増微減を繰り返し、現在はほぼ横ばい傾向になっている。

北側の安谷屋グスク一帯が、村落発祥の地といわれ、御嶽、拝所、古墳墓群が散在している。グスクの殿、 周辺の御嶽、拝所、火の神、古井泉、古墳墓群等、数多くの拝所があり、村が拝祀している拝所が20か所以上ある。琉球国由来記等に記載されている拝所は以下の通り。

  • 御嶽: 安谷屋城嶽 (上ヌ嶽 神名、コンキヤネイシラゴノ御イベ)、下ノ嶽 (神名、ヨノカネノマネツカサノ御 イベ)
  • 殿: 安谷屋城之殿、中之根所
  • 拝所、神屋: 安谷屋巫火神 (安谷屋ノロ殿内)、瑞慶覧巫火神 (瑞慶覧ノロ殿内)

祭祀行事は安谷屋ノロによって執り行われていた。



袖端坂 (スディバナビラ) 石畳道

安谷屋と宜野湾市の野嵩の境界線に袖端坂 (スディバナビラ) と呼ばれる坂が存在していた。この石畳道は2022年8月5日に訪れている。

18世紀後半の頃に造成されたと推測されているスディバナビラ石畳道は琉球王国時代に整備された首里から中城間切への宿道の一部で石畳道が60m程残っている。安谷屋では原名 (ハルナー) の池舛原 (イチマシバル) にあるので池舛坂 (イチマシビラ) と呼んでいる。

石畳は野嵩集落から普天間川に架かる我謝橋 (袖端橋) までの急坂に造られていた。護佐丸・阿麻和利の乱 (1458年) の際に、阿麻和利の軍勢により中城グスクで敗れた護佐丸の妻子がこの石畳道を通り逃げてたが、その時に追っ手に射かけられた弓矢により彼女の着物の袖が引き離されたと伝わっている。この故事から袖離れ坂 (袖端坂 スディバナビラ) と呼ばれている。この言い伝えには三つのバージョンがある。逃げてきた女性が変わっている。最も古い伝承では阿麻和利の妻、二番目に古いものでは侍女、そして、護佐丸の妻子と変化している。近年までは阿麻和利は悪者扱いで、沖縄一般には護佐丸の人気が高かったので、護佐丸の妻子バージョンが定番になったのだろう。2年前にこの石畳を訪れた際には、県道29号線で宿道が途切れていた。

そこから普天間川 (スディバナガーラ) にかかる我謝橋 (スディバナ橋)、高速道路への下り坂の樋川崖 (ヒージャガーバンタ) にあった道は発掘調査中だった。2025年 (令和7年) に石畳整備工事が予定されている。その後どうなったのだろう?

集落の南を流れる普天間川の上流は安谷屋川 (アダンナガーラ) と呼ばれていた。中城村南上原と、中城城跡の北西に発し、安谷屋前原、普天間の北側を流れて、東シナ海に注ぐ川で婦女子の洗濯、子供らの川遊び、牛馬の水浴等に利用されていた。

今日 (2024年10月13日) は袖端坂石畳道の整備がどうなっているのか気になって訪れた。元々整備されていた石畳道 (写真上) から登り野嵩に向かう坂道部分はまだ整備中で、今日は日曜日で作業がないので、石畳の部分はブルーシートで覆われており、整備中の石畳は見る事が出来なかった。


しあわせ地蔵

スディバナビラ石畳道の北、県道29号線沿いに地蔵尊が置かれている。ここも2022年8月5日に訪れており、しあわせ地蔵と呼ばれている。沖縄で道端で地蔵尊に出会うのはごく稀な事だ。この地蔵尊についての説明書が添えられていた。

緑豊かな北中城村安谷屋のがけ下に、尊いお地蔵様が何者かにより無残にも投げ捨てられていました。頭からすっぽりと沼地に落ちたお地蔵様は数年間も誰にも見つからず、手足をバタつかせ「助けてくれ〜」と、 もがき苦しみ今にも息が切れかかりそうでした。
平成23年10月、村人により発見される。
心よい村人達に手厚く供養されたお陰でやっと息を吹き返した。お地蔵さまは再び生命 (いのち) が蘇りこの地を行き交う人々に癒しを与えています。お地蔵様の恩返し(ご加護)なのでしょうか? ここを訪れた人達に不思議なことが起こるようになりま した。子宝、恋の成熟、病気の快復…。私達に幸せをもたらせてくれるお地蔵様。それからと言 うものこのお地蔵様は「幸せ地蔵」と呼ばれるようになりました。平成25年 吉日

袖端坂石畳道の整備の様子を見た後は安谷屋集落に向かう。途中に石平集落を通るので、石平集落の史跡やスポットを見学している。石平集落訪問記は別途。


なかぐすくへの道

しあわせ地蔵から県道29号 (那覇北中城線) を北に進み、石平交差点で県道81号 (宜野湾北中城線) に合流し、県道81号を第一安谷屋交差点まで進む。この道はなかぐすくへの道として伊佐交差点から歩道の一部分が石畳に整備されている。

この道には多くのテラコッタの彫刻作品が設置されている。これは沖縄県立芸術大学の彫刻専攻科の卒業作品を大城集落に設置しようという「彫刻カジマヤ―」プロジェクトとして2004年に始まり、毎年の卒業生の作品が道路沿いや公園に設置されている。


第一安谷屋交差点シーサー群

第一安谷屋交差点の西側が安谷屋集落になる。この合流する第一安谷屋交差点には15体のシーサー群が置かれていた。北中城村を中心に活躍する15人の陶芸家による作品で、交通安全を祈願して作られたそうだ。それぞれが、趣向を凝らしたシーサーで一つ一つを見ていて面白い。沖縄の人達にとってシーサーは昔からの魔除けに加えて、沖縄のアイデンティティになっている。


安谷屋公民館 (村屋)、アシビナー (遊び庭)

集落の中心地に公民館が置かれている。この公民館の前身が村屋 (ムラヤー) で1920年 (大正9年) に建てられて、本格的に村の運営組織が確立された。村の祭りで使用される獅子 (シーシー) も村屋で保管されていた。それまでは村の会議などは村内の大きな民家を借りて行われていた。村屋は昭和に入ると倶楽部と呼ばれ、沖縄戦では日本軍の駐留地となっていた。戦後は帰還してからの復興拠点でもあり、その後公民館と名を変えている。幼稚園も併設されていた。(写真) 1965年 (昭和40年) に鉄筋コンクリート造りの第二代公民館として建て替えられる。二代公民館も老朽化により、1994年 (平成6年) に立て替えられたのが現在の公民館になる。旧暦8月15日、十五夜の時に公民館の事務所の角にて拝む。

公民館の前の駐車場付近はかつてのアシビナー (遊び庭) で、村屋ができる前は村人総出の集会はこのアシビナーで行われていた。倶楽部時代は上森 (イームイ) の西に倶楽部 (村屋)、北側にアシビナー、南側に牛庭 (ウシナー) があったという。牛庭 (ウシナー) では闘牛 (ウシオーラセー) が、6月から8月にかけて行われていた。この闘牛がいつから行われていたのかは文献がなく不明だが、19世紀頃と思われる。戦前までは各地で盛んに行われていた。安谷屋では他の地域と異なり、牛が舌を出すと負けと決めていた。戦争で闘牛は途絶えていたが、1950年 (昭和25年) に再開されたが1953年 (昭和28年) が最後の開催となった。


上森公園 (イームイ)

安谷屋公民館の南側は上森公園になっている。この上森 (イームイ) は安谷屋部落の中心の聖地で、昔は小高い丘になって松が多くあったそうだ。旧暦の6月25日、7月17日、8月15日には、頂上北側の二本松とアシビナー脇の大きな一本松を通して、村の繁栄と豊作祈願が行われていたた。村人は上森を崇め、その前方に住居を建てることを憚ったという。

この上森は聖地でもあるが、生活との係わりも深く、四季の農作物や砂糖きびの搾り粕等の干し場でもあり、牛馬の飼料となる馬草を刈り取る場所でもあった。上森は昔はヒームイ (火の森) ともいわれ、周辺の三か所に、ムラグムイ (村溜池) があった。その麓には、北側に村芝居、踊りの舞台となるアシビナー、西側にムラヤー (村屋 現公民館)、南側にはウシナー (闘牛場) があった。安谷屋集落のほとんどの家で牛を飼っており、かつては上森 (イームイ) の斜面が観覧席となり、ウシオーラセ (闘牛) が盛んな地域で、上森斜面の下で行われた村芝居や闘牛を楽しんでいた。

この上森は戦後の中城村教育の再開の場でもあった。戦後、各地の難民収容所から帰ってきた村民は、 1945年 (昭和20年) にここに米軍テントを張り教室が造られ、8学級116人の生徒で、安谷屋初等学校として開校した。1946年 (昭和21年) には安谷屋初等学校喜舎場分校に三年生以上を移し、喜舎場分校を本校とした。安谷屋校は一、二年生だけの分教場として残っていた。

現在では上森頂上に東屋やおもろの歌碑が建立されている。1613年に編集されたオモロ草子には安谷屋を謡った10首が載せられている。石碑には

 御さけやらはかふし
一あたにやの きもあくみの もりに
  (安谷屋の敬愛されている杜に)
 世かほう よせわる たたみ
  (世果報を寄せなさる城主)
又くよくと たたみと しなて
  (又安谷屋グスクと城主がつり合って)
又たたみと まなてすと しなて
  (又城主と愛すべき村人が和合して)

安谷屋クスクと城主、その城主と村人が互いにふさわしい関係にあると謡い、安谷屋に世果報をもたらす城主を讃えることによって村の繁栄を願ったオモロが刻まれている。

旧暦8月15日、十五夜の時に東屋の東側松の下から月を拝んでいたそうだ。


大井戸 (ウフカー)

イームイから道を東に進むと、大井戸 (ウフカー) が残っている。子供が生まれた時に産湯に使ったので産井 (ウブガー) とも呼ばれていた。飲料水としては使用せず、洗濯場となっていた。平成20年に屋根が崩落の危険があったため造り変えている。


ノロ殿内 (ヌンドウンチ)

大井戸 (ウフカー) へ向かった道の途中、井戸の手前の道を北に進むと安谷屋ノロ殿内がある。ここの神屋ではノロの祖神とウミチムン (御三物 = 火ヌ神) が祀られている。安谷屋村の祭祀は安谷屋ノロが行っていた。安谷屋ノロは仲順村と渡口村の祭祀も管掌した。その他に辺土天孫氏の墓といわれているアカイ玉御墓も祭祀していたそうだ。

琉球王国時代にはノロは国家の公職でノロ家には、ヌールジー (役地) が下付され、その土地で収穫した穀物類、果物等を王府 (後に中城御殿) に上納していた。また、昭和初期まではノロ家へは下賜金が銀行に預金され、旧7月、正月には、カラクの玉 (牛角製の祝女の印章) を提示して、金五円を受け取っていた。


仲 (ナーカ)

ノロ殿内から道を北に登って行くと仲 (ナーカ) の屋敷の場所になる。仲門中は安谷屋六門中 (熱田門中、島袋門中、仲門中、 仲村渠門中、前里門中、蔵根門中) の一つで、安谷屋集落での拝みはこの仲から始まる。(他集落では通常、火ヌ神から始まる) 安谷屋集落が安里原 (アサトゥバル、現在の若松公園) から現在の位置に移住してきた際に、この地を最初に開墾して集落を形成したのが、この仲の祖先 (仲根屋) であるといわれていることとから、仲を敬い最初に拝んでいると思われる。仲門中の起源は古く、尚金福王時代に熱田から分かれた分家という。

ウマチー、旧6月カシチー のウンサク (御神酒) もここで造られた。旧歴6月25日には、前庭で御願綱、ジョー (門前の通り) でナーカジナが引かれる。今日はこの仲門中に多くの人が集まっていた。この時期各地で祭りが行われている様だ。公民館では祭りの道具を軽トラックに積み込んでいた。(公民館の項で載せた写真参照) 街中では浴衣姿の人が多くいた。盆踊りでもあるのだろうか?


若松公園、中城若松屋敷跡、若松の火ヌ神

仲 (ナーカ) から更に道を登り146号線を越えた所に、安谷屋集落の聖域の一つのユナハン (与那覇) /イーマシジと呼ばれる丘陵がある。

現在では若松公園として整備されている。ここの丘では旧2月1日にシマクサラサーが行われていた。シマクサラサーはフーチゲーシ (疫病を払い除ける) の行事として、動物 (牛、豚等) の骨片、肉切れを結んだしめ縄を、集落の出入口に張り、生血を付けた樹木を家屋の四隅に刺して疫病を払ったという。シマクサラサーの由来は、以下のようである。山原船などが台風で遭難したときに身元引受人がなく、焼香できぬ者や、フカに喰われて死体が見つからない場合など、その霊魂が海岸の方から部落に入ってきて、食物を求めて家々を徘徊し、その霊魂が入った家の食物は腐れてしまうという。それを防ぐためにシマクサラシが始まったと伝わっている。

若松公園入り口には組踊の執心鐘入の中城若松と宿の女像が置かれている。

入り口階段の側に若松のおもろ碑が置かれている。石碑には「あだにやのわかまつ あはれわかまつ よださちへ うらおそうわかまつ 又きもあぐみのわかまつ (安谷屋の若松は枝を伸ばし村を守護する立派な松である) 」と刻まれ、中城若松を松の枝に託して、若松の根心と聡明さ、有望な未来を若さと豊かさ表現している。

公園内に入り遊歩道を登って行くと多目的広場となっている野球グラウンドが整備されている。このグラウンドがかつての中城若松の屋敷跡だった。ここにもテラコッタ作品が置かれている。

中城若松は、安谷屋若松ともいい、玉城朝薫 (1684-1734) の組踊の執心鐘入 (1719年) のモデルになった人物で、尚円王 (在位 1470-1476年) と安谷屋ノロとの間に生まれた子ともいわれる。尚円 (金丸) が王位についたあと、越来按司 (鬼大城) を中心に安谷屋按司やその重臣が北谷間切野国村の東方(のちの国直村) に集結し国直城を築いて兵を集め、尚円王朝の転覆を企てたが、謀反が露見となり、尚円王の大軍勢に攻められ鬼大城は知花城に逃れたが火攻にあって最後をとげ、安谷屋城主は後難を恐れて隠棲した。この安谷屋に若松が父王尚円の命によって城主に任じられた。のちに首里に上がり、上間村の地頭職につき、章氏の始祖になったといわれる。

執心鐘入のクライマックスの舞台とされる遍照寺 (万寿寺、末吉の寺) の跡が首里の末吉公園内に残っている。

公園内の多目的広場のグラウンドの南側は小高い丘になっている。


丘の上には、もともとユナハンの麓に建っていた中城若松の屋敷跡にあった火ヌ神 (現在の多目的広場グラウンドの南部分) が置かれている。1989年に多目的広場建設時に屋敷跡が埋め立てられ、この場所に移設されている。中城若松の火ヌ神の祠内には香炉 (ウコール) やウミチムン (竈を表した三つの石) が置かれ、拝まれている。

中城若松の火ヌ神がある小高い丘の裏麓にも別の火ヌ神があり、香炉 (ウコール) と3つの神石のウミチムンが祀られ、若松公園と安谷屋の地の守り神として拝まれている。


中城若松之墓 (ナカグスクワカマチヌハカ) 

若松公園の奥にはユナハンと呼ばれる丘陵への上り口がある。

このユナハンの頂上には村指定史跡の若松の墓が置かれている。元々、頂上は一枚岩になっていたが崩落の危険があるため、頂上部の岩が削られ墓を下方に移している。死後、遺言により故郷の安谷屋に葬られたと伝えられる。

墓の裏側にも拝所らしきものがあった。

墓のあるユナハンの頂上からは大和 (本土) へ行く洋上の船の見送りも出来たという。樹々の隙間から、米軍瑞慶覧キャンプの向こうに海が臨める。


中城若松の母の墓、中城若松の妻の墓

中城若松の墓の裏の急な石段を降りるて行くと古墓が二つあった。洞窟を石積みで塞いだ安谷屋ノロだった中城若松の母の墓 (写真中) で、洞窟前には香炉 (ウコール) が設置されている。石積みは上部が崩れ、中に置かれた納骨甕が見えている。中城若松の母の墓の隣には中城若松の妻の墓 (写真下) も造られており、墓の前には石製の香炉 (ウコール) が置かれている。


壺井戸 (チブガー)

ユナハンの丘陵の北側麓の林の中に壺井戸 (チブガー) と呼ばれる井戸が残っている。中城若松が侍にこの井戸水をあげたという伝説が伝わっている。


後原樋川小 (クシバルヒジャーグヮ)

壺井戸 (チブガー) から樋川小道 (ヒージャーグワーミチ) があり、その途中に後原樋川小 (クシバルヒジャーグヮ) がある。昔はこの樋川小道は子供の通学路として使われており、子供たちが学校の帰りにこの井戸で喉を潤したりもしたという。井戸には石の樋 (右下) があり、少しだけ水が染み出しているぐらいで、水量は減っている。


夫婦井戸 (ミートゥカー)

道を更に進むと畑に出る。畑脇に夫婦井戸 (ミートゥカー) がある。いつ作られたかは不明。


くるま御井戸 (クルマウカー) (未訪問)

夫婦井戸の西側にくるま御井戸 (クルマウカー) があると資料にはあったのだが、道は畑の所で途切れてしまっていた。別の道があるのだろう。今日は訪問は断念し、次回次の集落巡りの際に訪れる予定。


辺土大主之墓 (ヒルウフスウーヌハカ)

若松公園の南側から安谷屋集落に降りる階段脇に辺土大主之墓がある。北中城村の民話によれば、この辺土大主が国頭の辺戸に海から上がってきて、その後、この地に来て安谷屋の国を始めて造った人とされている。平成七年に老朽化のため、若松公園の道路施設の際に墓が作り直されている。


与儀ヌ井 (ユージーヌカー)

辺土大主之墓のすぐ下に井戸がある。与儀家の屋敷内にあったので与儀ヌ井 (ユージーヌカー) と呼ばれていた。ただ、井戸は与儀家がここに移って来る前からあったのだが、もともとの井戸の名称は不明。


外間神屋 (フカマカミヤー)

若松公園の南、県道146号線を渡った所の林の中には中城若松の位牌が保管された神屋が見えている。この場所には瑞慶覧ノロが若松と同居していたと伝わる屋敷跡だそうだ。立派な石垣で囲まれ、幅広いヒンプンのある門から入ると、神屋が置かれている。ここには上之新屋 (現外間家) のアサギが置かれ、昭和8年までは瑞慶覧ノロ殿内としてノロの祖神とウミチムンが祭祀されていた。瑞慶覧ノロは瑞慶覧村・喜舎場村・(安谷屋村) を管掌しており、昭和8年に瑞慶覧の後安里に移り、その後、宜野湾市新城の新垣家に移管されている。ここには以前は屋号 仲の一家が住んでいたが、現在は神屋だけが置かれている。安谷屋村は、シチジチ (四季) の拝祀日には、両ノロ家を拝祀し、旧暦7月13日、16日、17日に、獅子舞いが両ノロ家で演じられていた。


熱田神屋 (アッタカミヤー)

県道146号線を安谷屋交差点方面に進むと熱田の屋敷がある。安谷屋の部落の六門中の中では一番古い根屋 (門中) で安谷屋に根屋 (ニーヤ) といわれ、天孫の子の中城大君から六代目にあたる中城按司が熱田門中の始祖とされており、熱田門中は、今帰仁天孫氏のものとされる墓を管理している。熱田の神屋には遠くは今帰仁からも拝みに来るそうだ。


寺小山坊主墓 (テラグァーヤマボウズバカ)、久米島の遥拝

安谷屋集落の東の端、沖縄自動車道の側の道路脇に石が積み上げられている。これは寺小山坊主墓で、寺小山 (ティラグワーヤマ) とか、坊主墓 (ボージバカ) とかいわれる。普天間の神宮寺の坊主が葬られ祀られているという。北中城村民話では安谷屋に火事が多く、火災から住民を守るために祈願し守ってくれた坊主だったと伝えられている。ここにその坊主を葬ったので、安谷屋では男の子が生まれなくて、養子が多いとも語られている。この寺小山のそばには伊波という屋敷があり、坊主と久米島の伊波家と繋がりがあったという。寺小山は旧6月25日の六月カシチーでは最初に拝まれた拝所で、ここに屋敷を構えていた久米島の出自の伊波家は御神酒を汲む係りをしており、カシチーでここから久米島の伊波家を向いて遙拝が行われていた。


安谷屋グスク

次は安谷屋グスクを登る。集落の北側、若松公園の東側には御願山 (ウガンヤマ) と呼ばれる杜があり、そこに安谷屋グスクが構築されていた。この安谷屋グスク一帯が、村落発祥の地といわれる。グスクは南北約80m、東西約110mの台地の丘陵にある。北西側には石段の階段があり、ここがグスク への入口だと考えられる。この階段を上って東側の広場が七殿で、さらに東側へ進むと上の御嶽、ウトゥーシ (遙拝所) がある。麓の北東側に下の御嶽がある。南側と北西側の崖下には古井泉が残り、現在でも安谷屋の人々の御願所となり、グスク全体が聖地となっている。安谷屋グスクの南側崖下では、グスク時代の土器、輸入磁器、陶器等が採集されている。後方の御願山には古墳墓群があり、多数のティラ (石棺)、ジーシガーミ (厨子甕) が安置されている。グスクの西側の南下、丘陵の南側斜面に住居が集中して集落を形成している。グスクに近い方の高所にある住居には旧家が多い。道路は石畳道でだった。そこから南側の斜面に旧家の分家が屋敷を構え、次第に集落が広がっていった。


根所火ヌ神 (ニードゥクルヒヌカン)

若松公園の東側の小高い山が安谷屋グスクになる。グスクへの登り口に安谷屋の根所火ヌ神 (ニードゥクルヒヌカン) がある。かつての安谷屋の集落はこの安谷屋グスクの西側一帯の安里原にあったといわれ、そのクサティ (腰当て= 聖域) あたる。根所火ヌ神は集落発祥にかかわる家の火ヌ神で、安谷屋のほとんどの門中の祭祀で拝まれ、村の祭祀では仲の次に拝まれる拝所となっている。火ヌ神は琉球石灰岩の祠で中に三個の石が安置されている。安谷屋グスクには幾つか拝所があるが、大雨や台風などで安谷屋グスクに登れない場合はこの安谷屋の根所火又神から、お通し (ウトゥーシ) を行っていた。


クガニジ御井戸 (ウフカー)

根所火ヌ神の向かって右側に道があり、少し進むと木の下に香炉 (ウコール) が置かれている。かつてはクガニジ御井戸 (ウフカー) と呼ばれる井戸があった場所で、井戸は消滅してしまったが拝所となっている。


クサテ御井戸 (ウフカー)

クガニジ御井戸からロープが張られた道を登ると、岩があり、小さな洞穴がある。ここにはクサテ御井戸 (ウフカー) になる。クサテとは聖域という意味のクサティ (腰当て) の事。昔は水が出ていたそうだが、現在では枯れてしまった。周りは崩れて土砂で半分ほど埋もれていた。


上ヌ井戸 (イーヌカー)

根所火ヌ神に戻り、その奥にある別の道を山に向かって登る。少し登った所に上ヌ井戸がある。昔に作られた井戸の形が残って、かつては水を湛えていたが、現在では涸れている。井戸は村の拝所になっており、井戸の右上が拝む場所になっている。


七殿 (シチドゥン)

上ヌ井戸から更に道を登ると安谷屋グスクの頂上に広場があらわれる。七殿 (シチドゥン) と呼ばれる場所で七根屋 (シチニーヤ) ともいう。昔はこの広場で七つの門中の代表の神人 (カミンチュ) が集まり白い着物を着け祈りを捧げた場所といわれている。7つの門中は東側から草分けの古い順に熱田、仲、仲村渠、野ン殿内・大屋、外間、蔵根が座していたそうだ。広場の奥に拝所が置かれている。資料ではこの拝所については触れられていないので、村祭祀には関係がないのかも知れない。二つの石碑があり、それぞれにウミナイ、ウミキィと刻まれている。沖縄での開闢神話に関わるになる。人類の始まりは天にいた天帝の長男で琉球開闢神話の神の天孫子が息子と娘を地上に降ろし、この二人は三男二女をもうけて長男は国王、次男は按司、三男は百姓、長女は上級神女、次女はノロとなった。次男の按司がウミキィでその妻がウミナイでここに祀られている。


上ヌ御獄 (イーヌウタキ)

更に道を進むと道の中央に石が積まれている。これが上ヌ御獄 (イーヌウタキ) で、琉球国由来記に記載されている安谷屋城嶽 (神名 コンキヤネイシラゴノ御イベ) にあたる。


今帰仁/島尻お通し (ナチジン/シマジリウトゥーシ)

道の西端は行き止まりになっており、そこにある大岩の下がお通しになっている。今帰仁と島尻へのお通しなのだが、なぜか二カ所が同じ方向を向いている。本来はそのお通しする方向に向かって拝むべきだが、今帰仁お通しが島尻を向いている。

ここは崖になっており、上ヌ御嶽の場所から崖下に降りる急な下る道がある。ロープをつたって下るとグスク時代のものだろうか?石垣が残っている。下の大岩には古墓があった。


下ヌ御嶽 (シムヌウタキ)

古墓からも道が続いており、その道を進みと安谷屋グスクの北側で行き止まりになる。そこに香炉が置かれている。これが下ヌ御嶽にあたる。



これで安谷屋集落内とその北側のクサティ (腰当て) の史跡を巡り終わった。字安谷屋の東にも大樋川 (タカヒージャー) の史跡があるのだが、気温30度の中一日中外にいるので疲れてしまい訪問は断念した。この史跡は荻道集落への道の途中にあるので、荻道訪問の際に立ち寄る事にする。



大樋川 (タカヒージャー) (未訪問)

安谷屋集落から県道146号線を荻道集落に向かう途中で、分岐する農道を北に進んだ所にコンクリートのタンクと整備されている大樋川がある。ウフヒージャーといわれるが、安谷屋ではタカヒージャーと呼んでいる。昔から枯れることなく水が沸いている。若水を汲んだ井泉だった。昔は生活用水や農業用水として使われていたため、部落の至る所にあったタンクにパイプで結ばれ、生活の糧として重要な湧き水だった。戦後初期の学校のミルクを作るときには、ここの湧き水が使用され、また、酒造業にも利用されていた。現在は水道設備が完備され、農業用水としてのみ活用されている。

1933年 (昭和8年)、沖縄県が飲料水改善施設補助制度を設け、農村地方の飲料水の改善に乗り出す。この事業の補助制度が翌年始まり、安谷屋でも住民たちは共同作業により集落内に10カ所のコンクリート造りの水タンクを造り、量豊富なこのタカヒージャーからパイプを引いてタンクに給水し簡易給水装置が作られた。住民はタンクの上に常備されていた柄杓でタンク内に溜まった水を水桶に入れて各家庭に運んで使用していた。その後、1958年 (昭和33年) に琉球列島高等弁務官資金により集落内に住民の共同作業で大きなタンクを造り、タカヒージャーから水を引き、部落内の数カ所に圧力式の水道蛇口を設置し、新しくできたタンクから送水を送り、簡易水道が完成し住民の飲料水を支えていた。集落内には20ヶ所程の時間制の給水所が設けられた。1964年 (昭和39年) に各家庭に水道が引かれ、簡易水道時代が終わり、その後はタカヒージャーの水は農業用水として使用されることになった。集落内にタンクが残っているかもしれないと思い探してみたが、残ってはいなかった。


アカイ玉御墓 (未訪問)

安谷屋部落東方の宝森 (タカラムイ) にアカヌウハカとも呼ばれる古墓があったそうだ。北面した断崖の中腹を掘り込んで造られた壁龕墓だ。墓口は幅2m、高さ1.4mにわたり石積みされ、朱塗りの木格子がはめ込まれている。この墓は辺土天孫氏王統の墓との言い伝えがあり、屋号・野呂殿内が管理している。障子のことを方言でアカイといい、墓の名称は、墓口にはめ込まれた格子がそれに似ていることに由来する。2018年9月30日の台風で崖崩れが起こり、埋まってしまった。



参考資料

  • 北中城村史 (1970 安里 永太郎)
  • 北中城村史 第2巻 民俗編 (1996 北中城村史編纂委員会)
  • 北中城村史 第2巻 民俗編 付録 (1996 北中城村史編纂委員会)
  • 北中城村史 第4巻 戦争・論述編 (2010 北中城村史編纂委員会)
  • 安谷屋字誌 あだんな (2020 安谷屋自治会)