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Kazu Bike Journey

Okinawa 沖縄 #2 Day 207 (30/08/22) 旧中城間切 (06) Okuma Hamlet 奥間集落

2022.08.31 04:28

旧中城間切 奥間集落 (おくま、ウクマ)



大型の台風11号が接近している。天気予報では明日から数日間影響がせるそうで、今日は集落訪問日とした。脚の具合も大丈夫なので、中城村の集落巡りに戻り、今日は奥間集落を訪れる。


旧中城間切 奥間集落 (おくま、ウクマ)

奥間は中城村東部に位置し、集落の東側が中城湾、北側が安里、 西側が南上原と北上原、 南側が前回訪れた津覇に面する。地形は斜面部と平坦部に分かれ、西側の斜面部は標高約150m程で島尻層の泥岩となっており、その斜面部の下部から平坦部にかけて奥間の集落が形成している。 また、この集落の北側と南側には集落を囲むように2本の川が流れている。 

奥間集落の古島は、現在の北上原にあるシマクのウガン (キシマコノ嶽) のあたりにあったと伝えられている。移動した年については不明なのだが、その後、奥間の南側の上川原の山側に移り、次にイービヌメーあたり、最後に現在の奥間原に移ったと伝えられている。 奥間の地名の由来は、三方を丘陵に囲まれた奥まった地域に集落があった事からきている。

戦前の奥間は、宇津原 (ウチューバル)、海平原 (ウンピンバル)、桃原 (トウバル)、奥間原 (ウクマバル)、喜納原 (チナバル)、上川原 (イーカーバル)、前原 (メーバル)、浜原 (ハマバル) の8つの小字から成り立っていた。 浜原の方には屋取集落が形成され、1946年 (昭和21年) に奥間から独立し字浜となっている。

奥間と浜を合わせた人口は、浜が分離した後、人口の伸びがみられるが、近年は減少傾向になっている。

奥間単独の人口を見ると、明治時代と比べて10%しか増えていない。集落がある場所は三方が山に囲まれているので集落の自然拡張は困難だったのが理由だったのだろうか?国道329号東は農地となっているが、ここを代替的に開発して住宅地にすることには民間企業としては魅力がないからだろうか?那覇から遠くなるにつれてこの傾向は強いように思える。

中城村の他の地域との比較を見ると、明治時代は人口が最も多い地域だったが、その後は他の地域に抜かれている。


琉球国由来記に記載されている拝所

  • 御嶽: キシマコノ嶽 (神名: 天次アマツギノ御イベ)、喜納ノ嶽 (神名: 奥間森比喜セジノ御イベ、消滅)、イベノマエノ嶽 (神名: コダガマノ御イベ)
  • 殿: 神根之殿、中奧間之殿、当奥間座敷之殿、古隠座敷之殿
  • 拝所: 古隠根所

神根之殿、中奧間之殿、古隠座敷之殿、古隠根所については、現存する拝所のどれに当たるのかは書かれていない。

村の祭祀は屋宜ノロによって執り行われていた。


奥間集落訪問ログ



国道329号線から奥間集落へ入る。



拝所 (竜宮神)

奥間集落入り口北側の海平原から丘陵地が始まり、奥間集落の東側を取り囲むようになっている。その丘陵の始まる小高い丘はフトゥキントゥー呼ばれる墓地地帯になっており、その中に、石を集めた拝所が置かれている。事前に写真があったので、それを頼りに、丘の中を探し見つけた。拝所の名称は不明だそうだが、竜宮神とも伝えられており、以前は春先になると村内の漁業関係者が祈願に来ていたそうだ。


奥間公民館

集落に入ったすぐの所はナカシムーと呼ばれ、集落住民が集う場所だった。そこに奥間公民館がある。戦前は集落の南の端で広場になっていた場所だった。近くには綱引毛 (ツナヒチモー) と呼ばれた場所があり、綱引きが行われていた。綱引き終了後は相撲が行われ、県内各地から強者達がこぞって参加するほど有名な行事だったといわれている。横には児童公園なかしもー広場が造られ、昔からの住民憩いの場所となっている。公民館の隣には酸素ボンベの鐘 (打鐘) が吊るされている。終戦後、非常点呼用として、この鐘が設置された。火災の発生、泥棒や不審人物及び外人等の侵入時に、区民に状況を知らす為に鐘を連打して知らせていた。その後、1951~1955年までは、 学生により時報用として使用され、朝6時に2連打を3回、 夕方 の5時にの2連打の3回をたたいていたそうだ。


後道 (クシミチ)

奥間集落は後川 (クシガーラ) と前川 (メーガーラ) の間の奥間原 (ウクマバル) にあり、後川 (クシガーラ) 沿いに後道 (クシミチ) が走っている。後川 (クシガーラ) はかつてはもっと川幅が広かったのだが、後道 (クシミチ) の道路拡張工事で狭くなってしまった。綱引きの行列 (ジュネー) の際に、後組 (クシベー) の綱引き祈願所である後組ヌ綱ヌ御願所 (クシベーヌチナヌウガンジュ) に向かう際に通ったのがこの後道だった。


前道 (メーミチ)

もう一つの川が前川 (メーガーラ) で、奥間集落の西に流れ、その川沿いに前道 (メーミチ) が通っている。この前川 (メーガーラ) も前道 (メーミチ) の道路拡張工事で狭くなってしまった。綱引きの行列 (ジュネー) の際に、前組 (メーベー) の綱引き祈願所である上間ヌ御嶽 (イーマヌウタキ) に向かう際に通ったのがこの前道だった。


中道 (ナカミチ)

公民館も前から奥間集落の中央を丘陵に向かって登っていく道が中道 (ナカミチ) で、集落の幹線道路だった。この道を境として南側を前組 (メーベー)、 北側を後組 (クシベー) に区分けしていた。綱引きの際はこの二つの組で綱を引きあった。



まずは中道沿いにあるスポットを見ていく。


殿庭 (トゥンナー)、奥間村屋跡

中道の中間点、奥間集落の中央部には殿庭 (トゥンナー) と呼ばれた広場があった。現在はゲートボール場になっている。この殿庭 (トゥンナー) には、戦前は村屋 (ムラヤー) があり、十五夜の会場にもなっていた。 また、戦前はウマチーの祭祀を行うために屋宜ノロが立ち寄る大きな瓦屋があったといわれており、奥間集落内において重要な祭祀場だったと思われる。戦後もしばらくまで獅子舞などが演じられていた。


獅子舞

奥間集落の獅子舞は戦前から戦後にかけて、毎年旧暦8月の十五夜で道ジュネーして披露されていた。獅子頭は沖縄戦で消失した後に新たに獅子を製作したが、品質が良くない素材で作られて朽ちてしまい、その後、獅子舞も途絶えてしまっていた。それから55年ぶりに2013年に獅子舞が復活している。



ウカミ (村火の神 ムラヒヌカン)

殿庭 (トゥンナー) の一角に「ウカミ」 (ムラヌヒヌカン) と呼ばれるコンクリート製の祠があり、3つの自然石と 香炉が置かれている。


殿庭 (トゥンナー) 南側にある火ヌ神 (ヒヌカン)

殿庭 (トゥンナー) の側にマーニが茂る平場があり、その中央部には自然石が3つ置かれている。 奥間ではここを単に火ヌ神 (ヒヌカン) と呼び、現在は六月ウマチーの際にシム小の火ヌ神 (ヒヌカン) を拝んだ後に拝まれる。戦前、旧暦9月9日に菊酒を供えて祈願した場所、また、旧暦2月1日は、牛を殺してシマクサラシー (厄払い) を行った場所と言われている。シム小の火ヌ神 (ヒヌカン) は村の火種を保管していた場所で、奥間が東西に長い集落となっているため中間にあるこの火ヌ神 (ヒヌカン) に火種を分けたといわれている。


当奥間御殿 (トォークマウドゥン、当奥間座敷之殿)

殿庭 (トゥンナー) の北側に祠がある。 琉球国由来記に記載されているので古い拝所の当奥間御殿 (トォークマウドゥン)。 屋号 当奥間 (トォークマ) が所有していた土地の側にあるので、当奥間座敷之殿 (トォークマウドゥン) と呼ばれている。同家とゆかりのある拝所と考えられる。琉球王国時代は5月と6月ウマチーの際に屋宜ノロによって祭祀が行われていた。


根屋 (ニーヤ)

殿庭 (トゥンナー) の東側には奥間の村立ての根屋にあたる伊佐家 (屋号 仲村渠) の屋敷があり、その一角に神屋 (カミヤ) が置かれている。神屋内には火の神、仏壇、観音様が祀られている。 5 月と6月ウマチーには各地から多くの参拝者が集まる。天孫氏の玉城村仲村渠のミントン家の百名大君の子孫である中城城按司が仲村渠から奥間ムラへ移り、奥間原 (ウクマバル) の西側の上川原 (イーガーバル) に井戸と屋敷をつくり住み始めたのが、奥間邑における根屋 (ニーヤー) の始まりと伝えられている。


シム小屋敷地内の火ヌ神 (ヒヌカン)

中道沿い、殿庭 (トゥンナー) と公民館の間に屋号 シム小屋敷があり、その敷地内に奥間邑の火ヌ神 (ヒヌカン) の「もと (火種)」といわれている拝所がある。 奥間邑の集落は東西に長いため、ここから火種をとり、 先程訪れた集落中央部にあるもう一つのヒヌカンへ火を分けたと伝えられている。旧暦2月2日のニングヮチャー等の年中行事でも拝みが行われてい た。ニングヮチャー (クシユックヮシー) ではサトウキビを刈り取った後に植えた大豆豆の豊年をここで祈願し、シム小の庭で大きい鍋に肉を煮炊きして、シム小の前の道で宴会をしていたそうだ。このニングヮチャー際には、村の青年がこの屋号シム小の火ヌ神に厄除けの祈願を行っていた。昔は土間の台所で薪を燃料にして火をつけたため、火の用心のための祈願として行われた。祈願が終わった後、シム小の人が屋敷を出ようとした青年たちに水をかけるのが習慣だったそうだ。旧暦2月1日のシマクサラシの行事では、牛を1頭殺し、中道の入り口に左縄を張ってそれに昆布と炭と牛肉をさげた。集落に入る前に、殺した牛の血液を樽に入れてマーニの葉に血液をつけて厄祓いをして通った。その後、このシム小屋敷の火ヌ神に向かって道路沿いから拝んでいた。


後組ヌ綱ヌ御願所 (クシベーヌチナヌウガンジュ)

奥間集落の中道 (ナカミチ) を上原道 (イーバルミチ) に向かって歩いていくと、左手側の民家と民家の間に小道があり、そこを進むと祠がある。後組の綱引きの祈願所にあたる。綱引きの前に後組 (クシベー) が後道を行れる (ジュネ―) をして、ここに来て祈願を行っていた。拝所の奥は今は民家になっているが、戦前はアシビナーだった。アシビナーは段々の観覧席のようになっており、村アシビやニングヮチャー (クシユックヮ シー) が行われていた。 以前は拝所 (消滅) もありニングヮチャーの時は各組で三線をひき鳴らしながら、アシビナーに向かい祈願を行っていた。


合祀所

中道を西に上り、集落が終わると道は上原道 (イーバルミチ) に変わる。上原道 (イーバルミチ) は丘陵の上にあった上原への道になる。この上原道 (イーバルミチ) から脇の山道に入ると奥間集落の合祀所が置かれている。1970年頃、喜名山 (チナーヤマ) の土砂崩れにより流された喜名御嶽 (チナーウタキ)、按司墓 (サムライ墓) と、奥間集落発祥の地の北上原の山中にあるシマクヌウガン (キシマコノ嶽) への遙拝所を合祀したといわれている。 現在の合祀所は改修されて破風墓のような形をしたコンクリート製の拝所となっている。ここに合祀されている按司墓は以前は喜名御嶽 (チナーウタキ) の上方にあり、琉球王国の三山時代に中山王として即位していた武寧王の墓と伝えられている。喜名山 (チナーヤマ) は戦前まで、根人の方が管理していた。 平日に木々を伐採することは禁じられ、年に一度の特定日しか入れなかったという。山の麓に喜名御嶽 (チナーウタキ) と対の一鎖ヌ井 (チュクサイヌカー) がある。


喜名ヌ井戸 (チナーヌカー)

喜名御嶽 (チナーウタキ) と対の一鎖ヌ井 (チュクサイヌカー) にあたる喜名ヌ井戸 (チナーヌカー) が喜名山 (チナーヤマ) の入り口にある。ハチウビーの際に拝まれていた。


喜納ヌ獄 (チナーウタキ 消滅)

喜名山 (チナーヤマ) には、1970年頃の土砂崩れで消滅するまでは、琉球国由来記に記載されている300年以上の歴史をもつ喜納御嶽 (チナーウタキ 神名: 奥間森比喜セジノ御イベ) があった。現在は合祀所に移され、按司墓と、シマクのウガンの遥拝所とともに祀られている。

何かそれらしきものがあるかと思い、森の中に入るが、樹々が深く探索は断念。


タッチュー

喜納山 (チナーヤマ) の南側にある小高い山はタッチューと呼ばれ、の呼び名である。 厄除け行事であるヒー ウチャゲーの際には、この喜納山 (チナーヤマ) の中に松明を持って入り、ネズミや害虫除けの祈願をしたといわれている。



次は前道沿いのスポットに移る。



前ヌ井戸 (メーヌカー)

奥間集落の南側の後方、前川 (メーガーラ) 沿いに前ヌ井戸 (メーヌカー) がある。戦前は各家で豆腐を作っており、この井戸の水は味が良質で、豆腐を作る際に利用されていた。日照りが続いた時にも枯れることが無く利用されていたという。ハチウビーの際に拝まれていた。


上間御嶽 (イーマヌウタキ)

前川 (メーガーラ) を渡った所から集落西側に丘陵に向けて坂道が始まる。その坂道が始まる場所に、上間御嶽 (イーマヌウタキ) が置かれている。奥間では、ウークイ (旧暦7月16日) の夜に行われる綱引きの前に、前組 (メーベー) が前道 (メーミチ) を行列 (ジュネ―) を行い、この上間御嶽 (イーマヌウタキ) で祈願している。現在は子供綱引きが行われて、その際にも拝まれている。


樋川井 (ヒージャガー) (未訪問)

前川 (メーガーラ) から上間御嶽 (イーマヌウタキ) への道の川沿いに樋川井 (ヒージャガー) があると資料でも公民館にある地図に載っていたのだが、その場所に来て探すも、井戸跡らしきものは見つからなかった。


慰霊塔

上間御嶽 (イーマヌウタキ) の道の向かい側には、沖縄戦で犠牲になった奥間集落住民の151柱を慰霊し、昭和38年に慰霊塔が建立されている。奥間集落では慰霊祭が毎年6月23日に遺族によって行われている。

資料では戦没者は、慰霊塔に刻まれている戦没者151柱より多く219人となっている。沖縄戦直前の1945年 (昭和20年) の奥間人口のデータがなく、集落のどれほどの割合が犠牲になったのかは分からないのだが、奥間の人口は1919年 (大正8年) の人口は625人から少し増えているとすると、700人程度ではとすると、30% ぐらいではないかと思われる。


上門御嶽 (カミジョウタキ)

慰霊塔と民家の間に小道の先に上門御嶽 (カミジョウタキ) がある。草が生い茂りかき分けて進むと、小さな祠があった。祠も草で覆われていたので、持参している鎌で祠の周りの草を刈り写真撮影。祠はコンクリート製に改修されているが、屋根には以前の祠に使用されていた石が置かれている。戦前までは上門アシビー(ウマチーのことか) の際に、屋宜ノロによって祭祀が行われていた。資料によっては、この上門御嶽は神根之嶽とされている。


イービヌメー (イベノマエノ嶽) (未訪問)

上門御嶽 (カミジョウタキ) の林の奥には威部ヌ前 (イービヌメー) と呼ばれる御嶽があった。琉球国由来記にはイベノマエノ嶽 (神名 コダガマノ御イベ) と記載されている。マーニ (クロツグ) が生い茂る中に祠とヒヌカンがあるそうだ。中城王子の墓として晴明 (シーミー) に拝む人もいるのだが、詳細は不明。この地域は上川原 (イーガーバル) で、集落が現在の奥間原に移ってくる前の集落があった場所になり、奥間の根屋である屋号 仲村渠の屋敷跡があり、井戸もあったといわれている。以前は村でも拝みを行っていたが、後に途絶えてしまい道も草に埋もれてしまった。現在は道が無くなっているため、奥間自治会ではカミジョーウタキからのタンカー (遥拝) を案内している。上門御嶽 (カミジョウタキ) の側に、イービヌメーへの遙拝の説明板が置かれていた。

資料にはまだ道があった時に撮られた写真がある。石の祠とその近くにあった火ヌ神。


イーガー (ソールーグヮー) (未訪問)

上間御嶽 (イーマヌウタキ) 西側の道を上った途中に水が湧き出しているイーガーがある場所がある。ソールーグヮーともよばれている。水量が豊 富で、ここからレンガで造った土管で水渡しを作り、上間御嶽の側に貯水池を作り、農作業の洗い物や洗濯等をしていたそうだ。


ヒラグヮー

奥間集落内には後道、中道、前道の他にもう一本集落を通る道がある。後道と中道の間に並行して通っている。この道は名前はないのだが、道の途中に激坂がある。短い坂なので国はならないだろうが、老人には登るにはちょっと大変だろう。この坂はヒラグヮーと呼ばれ、近くの家の木が鬱蒼と生い茂り、昼間でも暗かったため、住民は通るのがこわかった場所だったそうだ。次は、この道沿いにあるスポットを見ていく。


村井戸 (ムラガー 、産井戸 ウブガー)

ヒラグヮーを登り切った所、後道への路地の民家に囲まれたところに、コンクリートで固められた村井戸 (ムラガー) がある。 産井戸 (ウブガー) とも呼ばれ、正月にここから初水 (ハチミジ) を汲みお茶を沸かして飲んだり、出産の際の産水 (ウブミジ) に使われ、ハチウビーに拝まれていた。現在は農業用水として使われている。この井戸の前はかつては屋敷だったが、現在は民家はなく畑になっている。


村屋跡

ヒラグヮーを下って公民館に向かう途中に、村屋だった跡がある。今は民家になっている。奥間集落がイビヌメーの上川原から移ってきた最初は殿庭 (トゥンナー) に村屋が置かれ、次にこの名所に移り、その後現在の公民館の場所になった。 


シマクの御願 (ウガン) (キシマコノ嶽) (未訪問)

集落北の丘陵の北上原は奥間集落が始まった場所で、そこには御願毛 (ウガンモー) と呼ばれる山があり、その頂にシマクのウガン (キシマコノ嶽) が置かれ、以前はウマチー等で奥間集落住民に拝まれていた。 琉球国由来記にはキシマコノ嶽 (神名:天次アマツギの御イベ) と記載されている。北上原集落訪問の際に訪れる予定。


これで奥間集落訪問は終了。続いて、奥間集落の屋取集落として海岸側にあった浜集落を訪れる。



参考文献

  • 中城村史 第1巻 通史編 (1994 中城村史編集委員会)
  • 中城村の文化財 第5集 中城村の拝所 (2004 中城村教育委員会)
  • 中城村の文化財 第7集 中城村の屋取 (2004 中城村教育委員会)
  • 中城村地域散策 (中城村教育委員会)
  • 戦前の中城 (2022 中城村教育委員会生涯学習課)
  • 中城村 戦前の集落 シリーズ 3 奥間 (2016 中城村教育委員会)
  • ガイドブック 中城村の戦争遺跡 (2020 中城村教育委員会生涯学習課)
  • 百年の軌跡 (2009 中城村役場企画課)