原始神性
https://note.com/motoyakito/n/na67cb67eb7c2 【火と水と石と原始神性】より
子供が執着しやすい3つのものは「火、水、石」とする説がツイッターランドで流れた。これに対して、この3つだけでなく「棒」や「虫」、「男性器」が気になると答えた人も。
ツイッターランドの動向を見つめ続けるサブカルライター・モトタキが、学術的では決してない戯言で、この事象をそれっぽく語る。
原始宗教の神体となる火と水と石
神をカミと呼ぶ。そしてカミは火水とアテることが出来る。原始宗教で神体とされがちな自然エネルギーそのもの。神性が宿るのもわかる。石に関しては巨岩信仰がある。
子供たちには、まだ世界宗教による入れ知恵が弱い。だからこそ原始宗教の神性に惹かれやすいと見るべきか。
これらのものは原始生活において、人類にとって生命を助けるものである。火があれば肉を調理することができ、獣を近づかせない効果も期待できる。水は無ければ生きていけない。生命の源でもある。石は棲家となりうるものだ。道具としては飛び道具になる。
もっと別目線でいけば、山と海も異界である。異界とは神の住まう場所である。神性がそこに宿る。山には木がある。雷が落ちれば火が生まれる。山にも海にも水がある。山と海を繋ぐ川を石は転がる。全ては異界に近いものばかりなのだ。
さて、3つの他に挙げられた他の要素たちであるが、実際これが面白い。実はこれらもまた神性の強い存在たちなのだ。
棒や虫にある神性とは
棒は人類が最初に手にした道具とも言われる。農具であり、本能的に求めやすい形状なのかもしれない。神も杖を持つものであり、その姿は槍にも見えて武具としての形状でもある。
虫に関しても、本来はそのあたりで突然わいてくるものだと考えられていた。そして害虫であるか益虫であるか。或いは食べ物としては毒虫であるか。このあたりがどう動くのか。
なお、今では忌み嫌われ気味な虫であるが、蜘蛛や百足は本来は神である。蜘蛛は多産であり、その生態は子沢山の象徴としてもてはやされた。糸を吐く姿や水神としての一面もある。機織りと天の川と織姫の流れを見るように、原始的には糸は川と同一視される。
蜘蛛を愛した人はいなかったが、ダンゴムシやコオロギはいた。ダンゴムシは土いじりでよく見る。触れれば石のようであり、害がない。コオロギもまた害がない。やはり、害がない虫は益虫として子供を夢中にさせる魅力を秘めているのか。
男性器の神性は根深い
男性器なんてものは神性の塊である。男性器や女性器を祀り上げるのはかなまら祭りだけではない。そもそも、子を為す為の象徴である性器はそもそもに神性を帯びた存在なのだ。
異性の象徴でもある。そこには生物的な違いを視覚的に見せつける効果があり、子供ながらにそこに興味を持つのも当然だろう。
女性に関していえば、異界と親しい存在とされる。子を生む女性は異界とつながっている。魂は異界から来て、異界に戻ると考えられていた。原始的にそれなのだから、子供のなかにはそれを感じ取る人がいないとも限らない。性器への興味は、異界への興味なのだ。
神性は荒御霊と和御魂によって成る
多々ある意見のなかに「怖いので好きにはなれない」との言葉もあった。神性は必ずしも惹かれるものばかりではない。怖がる気持ち。畏れもまた神性を生み出す為に足る感情である。
これを荒御霊と和御魂という。脅威と恩恵のそれぞれの側面である。いってしまえば、作り物の神仏は完璧善神であり悪は魔とされ切り離される。ドラゴンボールの神様とピッコロ大魔王の関係のようだ。だが日本の神はその善悪の面を兼ね備えた存在なのである。つまり、神コロ様こそ日本的な神の姿だと言える。
子供たちが興味を惹かれ、愛して、そして怖がるその物質の本質にこそ神性はあるのだろう。
https://www.min-iren.gr.jp/?p=44627 【神々のルーツ 天皇主権時代の象徴】
文・写真 片岡伸行(記者)
1920年創建の明治神宮(東京都渋谷区)。写真は「内拝殿」
第1回 明治神宮、靖国神社
正月には多くの人が訪れる神社ですが、その起源や歴史はあまり知られていません。
古代の暗がりに分け入ると、“祈りの場”から見た日本列島の本当の姿が立ち現れてきます。
鬱蒼たる境内の森。広い参道をゆくと、重厚な拝殿が見えてきます。初詣の参拝者数で全国一の「明治神宮」(東京都渋谷区)。1920年(大正9年)創建と歴史の浅いこの神社は、明治天皇を祀り、130年余り前に始まった「天皇主権」時代を象徴する場所の一つです。
異常な56年間
〈大日本帝国ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス〉
1889年公布の大日本帝国憲法第1条の条文では、天皇が国を統治する主権者だと明確に宣言しています。しかし、明治時代以前の日本は天皇主権ではなく、征夷大将軍が政を治める事実上の主権者でした。
最初の将軍は鎌倉幕府を開いた源頼朝(1192年)で、最後の将軍は1867年に退いた江戸幕府の徳川慶喜。室町幕府の足利氏ら計40人の将軍がいた約700年間、天皇や朝廷は京都にいて年号制定などの仕事をしていました。政治の実権は対外的に「日本国王」を名乗っていた将軍にあったのです。
私たちは、1945年の敗戦で「象徴天皇制」になったと理解していますが、実はそれ以前も象徴天皇制のような時代が長く続いたのです。大日本帝国憲法ができてから敗戦に至るまでの56年間、この短い天皇主権の時代が、いかに異常な時代であったかが分かります。
この天皇主権の“国体”に利用されたのが、明治から昭和にかけての神社の姿でした。代表的な施設が1879年に「東京招魂社」から改称した「靖国神社」(東京都千代田区)です。天皇と国に殉じた軍人・軍属を祀るので「戦争神社」と言われることも。A級戦犯を祀り、侵略戦争を美化するような主張をしているためか、1975年を最後に歴代天皇はここを訪れていません。
今は「国民主権」の時代ですが、実は表のように「国民の」ではなく「天皇家の」儀式(=皇室神道)に関わる祝日が全体の過半数にのぼります。私たちはいまだ異常な56年間の残影に浸かっているかのようです。
多民族の列島に萌芽
本連載では、神社の起源に迫るため古代にまで時間を遡ります。古代とは日本の場合、古墳時代の西暦200年代半ばから平安時代までの約800年間です。
神話と事実がないまぜの『日本書紀』『続日本紀』をはじめ、限られた史料をもとに神道と神社の姿を見てゆくと、この国の歴史や成り立ちと密接に関わっていることが分かります。
この国と関わりがあるということは、列島に生きる私たち自身と関わりがあるということ。ですから神道や神社について誤った認識をしていたり、事実と異なることを信じていたら、この国の成り立ちを誤解、曲解していることになります。それはとりもなおさず、私たち自身の本当の姿を見失っていることを意味するでしょう。
よく「神社は日本民族固有のもの」などと言う人がいますが、そもそも“日本民族”という単一の民族は存在しませんし、人種的に私たちはモンゴロイドです。列島にはアイヌ民族や琉球民族などが先住し、中国大陸や朝鮮半島からも多くの人が移住してきました。「日本は単一民族国家」などと臆面もなく発言する政治家もいますが、無知も甚だしいものです。神道および神社は、そうした多民族の列島の中で萌芽したのです。
さて、古代の暗がりの中に立ち入る前に、100年あまり前の神社を巡るこの国の姿をもう少し見ていきましょう。(つづく)
https://www.min-iren.gr.jp/?p=44760 【神々のルーツ 消された「権現社」の名】より
文・写真 片岡伸行(記者)
宇佐神宮(大分県)
第2回 高来神社、根津神社、浅草神社
神社の起源や歴史を探索するシリーズ。
今回は、かつて全国各地にあった「権現社」を取り上げます。
権現社の名前が消えてしまった理由は実はあまり知られていません。
明治期に発せられた「神仏分離令」によって祈りの場も“偽装”されたのです。
たなびく雲の彼方に浮かぶ伊豆の島影。大磯の海岸に古代、朝鮮半島の高句麗(高麗)から船で漂着した一団が上陸しました。目の前の山は高麗山と名付けられ、その麓(現在の神奈川県中郡大磯町高麗2丁目)に、明治維新前には高麗権現社と呼ばれた高来神社があります。
〈坂を降りて左側の鳥居を這入る。花崗岩を敷いてある道を根津神社の方へ行く〉
森鴎外の長編『青年』にある根津神社(東京都文京区)の描写。20代後半の鴎外はこの神社へ徒歩で行ける上野・不忍池近くに住んでいました。根津神社もまた、明治維新前は根津権現社という名称でした。
初夏の風物詩「三社祭」で知られる東京の浅草神社(台東区)も、かつての名は三社権現社。三社とは、創建時の逸話にある「檜前浜成・竹成兄弟と土師真中知」という、いずれも朝鮮半島系の姓を持つ三者のことです。
これら「権現社」の名称はなぜ消えてしまったのでしょう。
神仏分離令と「国家神道」
前号で〈天皇主権の国体にするために神社が利用された〉と述べました。日本では古代から1000年以上も、神と仏を一緒に敬う「神仏習合」の時代が続きました。実際、皇室の菩提寺は京都市の泉涌寺です。
しかし、明治維新政府は神と仏を分離させ、神道を優遇する「神仏分離令」(神仏判然令)を1868年に布告します。仏教を排除(=廃仏毀釈)し、神社と神職の国家支配を進め、神社神道と皇室神道を結びつけた、祭政一致の「国家神道」を偽装的に作り上げました。
神社の歴史も偽装されました。具体的には祭神および社名の変更です。これにより「権現」という名称は消去されたのです。権現とは「日本の神々は仏教の仏が仮の姿で現れたもの」(=本地垂迹説)との意。「仏の仮の姿」というのが気に食わなかったのでしょうか。こうした例は全国各地にあり、白山権現社も白山神社に強制的に名称を変えさせられました。
名称だけではありません。古来それぞれの起源や歴史を背負って祀られた祭神も、日本神話に基づく祭神に変えさせられたのです。これについては改めて紹介します。
神話と洗脳の時代
天皇主権の時代には、「天孫降臨」などの神話を信じないと非国民とされ、不敬罪で処罰されました。天皇暗殺を謀ったとして幸徳秋水ら12人が処刑された大逆事件(1910年)。当時、軍医総監だった鴎外がこの事件を受けて発表したのが短編『かのやうに』です。
上司の山縣有朋の依頼で「危険思想対策」として書かれたとの説があります。小説は神話と事実の間で悩む歴史学者が主人公。学問を重んじる立場では非科学的な神話を信じることはできないが、突き詰めていくと“危険思想”になるため、結局は神話を事実である「かのように」受け止めるという内容です。
大日本帝国憲法公布の1889年から敗戦までの56年間、多くの人が歴史的に洗脳され、現在も洗脳から解かれていない人が国政の場にいたりします。天皇のために死ぬことが美化され、多くの人が鳥居と呼ばれる結界をくぐり戦場に送られました。日本で310万人余が犠牲になり、アジアでは2000万人以上の命が奪われました。神社はその天皇制イデオロギーの思想的な装置とされたのです。
キリスト教や仏教には教祖の教えを体系化した「教義」がありますが、実は神道には定まった教義がありません。その意味で神道は宗教ではないことになります。では、そもそも神道とはなんなのでしょう。古代への旅を続けます。(つづく)
https://www.min-iren.gr.jp/?p=44982 【神々のルーツ 原始神道の誕生】より
文・写真 片岡伸行(記者)
第3回 三輪山、大神神社
神社の歴史から日本の成り立ちを探るシリーズ。
今回は神社の始まり「原始神道」を紹介します。
「八百万の神」というように、太陽や空や森、その全てに神や霊魂が宿る自然崇拝の時代。そこから萌芽したのが「原始神道」です。
誰でも自国を中心に物事を見たり考えたりしたくなるものです。しかし、私たちが子どもの頃から見慣れた地図を逆さにすれば、日本列島は中国大陸と朝鮮半島に張り付いた小さな島にすぎません(地図)。古来、大陸の果ての島々に、半島などを経由して人とモノが流入してきたのです。
紀元前の列島に来た人たち
日本列島の稲作は縄文時代末期、もしくは弥生時代に北九州地方で始まりました。佐賀県唐津市の菜畑遺跡からは、紀元前930年頃の日本最古の稲作遺跡が発掘されています。倭族※1のいた中国南部原産の短いイネは、朝鮮半島中南部(のちの伽耶もしくは加羅)あたりから、海を渡って九州地方にもたらされたとの説があります。遺跡の見つかった唐津市の「唐津」はもともと「加羅津」であり、「加羅に向かう港」という意味です。※2
日本最古とされる青銅器は福岡県福津市の今川遺跡から出土。同じく最古の鉄器は同県糸島市の曲り田遺跡から発掘されました。いずれも弥生時代前期までに半島経由で流入した農具や武器です。
このように文明社会の基盤となる稲も青銅も鉄も、中国大陸を源流に朝鮮半島を経由して船で北九州地方などにもたらされました。弥生時代とは1884年(明治17年)に現在の東京都文京区弥生で発掘された土器にちなむ呼称ですが、その中心は九州北部でした。当然ながら、モノや技術だけが勝手に入って来るわけでなく人も移り住みます。これが原始神道誕生前夜の列島の姿です。
森や山をご神体に
古代は神を「かむ(かん)」と発音し、アイヌ語の「カムイ」もまた神という意味です。その「かむ(かん)」に朝鮮・韓国語で国を意味する「ナラ」をつけると「かんなら」「かむながら」。かむながらとは奈良時代まで使われていた古語で、「神の心のままに」という意味です。このように当時倭国と呼ばれていた日本、朝鮮半島、アイヌ民族の言葉は重なり合っていました。
日本最古の歴史書とされる『日本書紀』に、朝鮮半島にあった国・百済から王仁という博士を招いて文字を学ぶ話が出てきます。5世紀初め頃の伝承ですが、日本で漢字が使われ始めたのはこの頃とされます。当時の倭国では百済語が通じたからこそ、漢字を学ぶことができたのでしょう。
先進技術を持って列島で暮らし始めた人たちは、故郷の山河や祖先を思い偲んだことでしょう。先祖を祀り、亡くなった人を埋葬する、いわゆる原始神道はこうして始まったと思われます。
鎮守の森というように、当初は森や山自体がご神体でした。これを「神奈備」と言います。日本最古の神社とされ、ヤマト王権成立前からの歴史をもつ大神神社(奈良県桜井市)は本殿を設けず、三輪山自体がご神体でした。大神神社ではそれを〈神社の社殿が成立する以前の原初の神祀りの様〉と、その由緒に記しています。
御嶽や堂との類似性
沖縄県には「御嶽」と呼ばれる聖地があり、そこもまた森の一角が祈りの場になっています。朝鮮半島の先にある済州島には「堂」と呼ばれる聖地があり、やはり大木や森を祈りの場とします。また、朝鮮半島には中国から伝わった「城隍神」という地域の守り神を祀る場もありました。
列島の原始神道はそれらのバージョンの一つに見えます。「共通の要因もあるが、異なる要因もあって結論は出ない」とする専門家もいますが、次の似通っている風習をどう捉えたらよいでしょう。
済州島の堂は周辺の木々に布を巻き付けて垂らし、城隍神も樹木などに白紙や縄を張り巡らせます。日本の神社や祭りも、白半紙を折った紙垂やしめ縄を張って結界を設けます。これは単なる偶然でしょうか。(つづく)
※1 倭族 現在の中国江南地方で水稲栽培に成功し、東南アジアの広域に移住した人々。倭族の中で朝鮮半島を経て縄文晩期に日本に渡ってきたのが弥生人とされる。鳥越憲三郎著『古代中国と倭族-黄河・長江文明を検証する』(中公新書)などに詳しい
※2 上垣外憲一著『倭人と韓人 記紀からよむ古代交流史』(講談社学術文庫)に詳しい。