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釜石市制施行80周年記念式典

2018.02.10 09:05

釜石観光物産親善大使として、岩手県釜石の市制施行80周年記念式典にお招きいただきまして、およそ一年半ぶりに釜石に足を運びました。


東京から新幹線で新花巻駅へ、そして釜石線に乗り、遠野などを経ておよそ2時間で釜石につきます。冬にいくことはこれまでにあまりなかったので、遠野から釜石市に入ってもしばらくの雪景色が続いて、改めて岩手の冬は厳しいのだと感じさせられました。


釜石に着いて、仮設商店街を少し回りました。

一年半前に来た時より、仮設商店街のお店はまばらになっています。震災からもうすぐ7年がたつ、ということで、来月3月に仮設商店街は開設を終えるとなっているようです。市内に新しくできた飲屋街や、街道沿いにお店を移して改めて開店する店舗もあるものの、中には移転の態勢が整わず、資金も揃わずにこれを限りに店を畳むところも多いということで、こればかりは本来ならご夫婦・ご家族経営でご自宅などで営まれていた商店が、震災のためにその場所を失わざるを得ないという結果になったということが非常に悔やまれます。


移転して新店舗を開店するお店や、すでに開店となっている新しい店や建物、カフェなどもたくさんありました。街を歩いてみると、真新しい綺麗な建物やお店も増えていて、釜石市は見事に道路やインフラの上での復興は果たしつつあるように見えます。



釜石の野田市長は、繰り返し、鉄鋼業で栄えた釜石のことを「かつては鉄と魚のまち、そして今では鉄と魚とラグビーのまち」と呼び、ものづくりで培った「不撓不屈の精神が」釜石市民には今も残されているのだということをおっしゃいました。

まさにその精神を震災後も老若男女が発揮して、見事短期間にここまで復興を進めて来たのだという事実はたまに足を運ばせていただく私のようなものにとってはただただ得難く、尊敬に値するの一言に尽きますが、地元の方々には色々な想いが去来していることが随所で伝わってくる式典で、あの時小学生だった子供達が歌う歌に、少し年上の高校生たちが舞う虎舞に、指で涙を拭う年配の人たちの姿がありました。

釡石東中学校と、姉妹都市である愛知県東海市の加木屋中学校の合同合唱では、生徒さんたちが歌う歌詞の一つ一つが、二つとないふるさとへの想いやこれからの未来をその地から出発して渡っていくのだという希望を現していました。釜石市住民ではないですが、私も一緒になって、歌を聴いているといくつもの場面が思い出されました。震災後最初に足を運んで復興イベントを行わせていただいた時に、流されてしまったたくさんの漁船に掲げる代わりに、野外の特設会場をぐるりと囲むようにして大漁旗が掲げられていました。釜石市の大漁旗は、この街の誇りであり自信であり、願いでもあるように感じます。一緒に会場に集まってくれた、小さなダンサーを務めてくれた子供達一人一人からもらった手紙の文面まで思い出されて、私まで涙を流しそうでした。

釜石市にもともと4つあった高校は今は釜石高校と釜石商工高校の2つとなり、この釜石商工高校の生徒さんたちが見せてくれた虎舞も素晴らしく、会場は一気におとうさんがたの掛け声で湧き立ちました。

獅子舞のようですが、虎舞、は上半身を担当する男性はとても低い姿勢をとったまま虎の顔の演技を担当するので、非常に訓練を必要とする舞であるように思います。そして後ろの下半身担当の男性も上半身より背を高くし続けるので、ずっと両腕を上げたまま。舞とは言えかなり男性的で、掛け声や合いの手と相まって本当に手に汗握る舞台でした。





式典の後の祝賀会で、野田市長と、そして赤いネクタイは元ラガーマンで早稲田卒、現在は釜石市議会議員を務めている赤崎さんです。お二人とも、復興イベントの頃から大変お世話になっています。そして、たくさんのことを私は今も直接的・間接的に教えられています。


新日鐵の釜石ラグビー部が昭和52年に初優勝してから、日本選手権を7連覇するほどの強さを誇り、釜石にとってラグビーは鉄と魚と同じくらい親しみと愛着のある大切なものであるということを、赤崎さんをはじめ釜石でお会いしたラグビーOB、新日鐵OBの方達に教わりました。もちろん、ラグビーW杯招致が決まって抱き合って涙を流して喜んでいた少年少女や年配の皆様の姿からもです。


先日、都議会の会派の代表質問に、ラグビーの部分で釜石のことをあげさせてもらったのには、市長をはじめ、市民が一丸となって2019大会に向けて準備を進めているこの街に東京も習うところが多々あるに違いない、と感じているからです。東京には釜石のようなバックグラウンドはありませんが、きっと東京ならではの盛り上げ方があるのではないかと、釜石を訪れてみて、市長が是非にと作ったというラグビーカフェなどものぞかせていただいて改めて思いました。


釜石はこれまでも、大戦中の砲撃や数度の津波被害で街は大きな被害を受けて来ました。けれどもその度に、たとえゼロからでも立ち上がり、まちづくりを進めて来て今があります。近代製鉄160周年の式典がこれに続いて翌日執り行われましたが、その160年前の記念すべき最初の時は、盛岡藩士大島高任が大橋に建設した洋式高炉で連続出銑に成功した時であり、その成功の前には実に58回の失敗があったそうです。59回目の挑戦で成功した日が、160年前、1886年の10月16日だということです。


たゆまない、そして諦めない姿勢、精神というものを、いつも釜石市から教えられます。

長くなってしまうので、続きはまた後ほど書きますね。