苦しみ、悲しみは喜びに変わる
(鴨野)
私は、男女どちらも好きになる自分はどう生きたらいいのかわからない、と悩んでいたころに、「元レズビアン」だというクリスチャンと知り合って、「変わるという”choice”」があるなら信じたい、と願って、クリスチャンになりました。
自分でも「変わった」と感じている時期はあったと思います。
でも、完全にではなかったし、勘違いでもありました。
結局、女性と関係を持ってしまい、罪悪感にさいなまれることもありましたが、その度に「変われるんだ」という原点に立ち返ろうとしていました。
教会では「過去に何かしらの原因があって同性愛に”なった”」と教えられていたので、自分の記憶にはなくても、幼い頃に性意識が混乱するような「何か」が起こって、そのせいで女の子を好きになるようになったのではないかと考えていました。
でも、過去に戻って確かめようもない原因について悩むのはただ苦しいだけでした。
それは現在の自分自身を否定して生きることだからです。
教会ではカウンセリングを受けていて、同性に惹かれる傾向は変わらなかったにしても色々良かった面もあったとは思います。でも、親しい人にしかカミングアウトしなかったのにそれが牧師に伝わって奉仕をいくつかやめさせられたり、一方的に非難され、こちらの言い分については聞いているフリだけはしても絶対に聞き入れることはしないという態度にとても傷つけられました。
その当時はわけがわからないことばかりで、全体的にとにかくものすごく苦しかったことしか覚えていません。自分の気持ちすらも分からなくなっていました。
やがて、「他の当事者の生き方について私は裁く立場にない」という考えには至りましたが、少なくとも自分自身については、同性愛は罪だと思うので避けるべきだと思っていました。そのように発信もしていました。
その後、ルカくんや約束の虹ミニストリーと出会い、また神学的にも根拠をもってLGBTQとしての生き方を否定しない牧師と出会ったことで、少しずつ私の中に変化が起き始めました。
女性を好きになり関係を持ちたいと願うのは罪ではなく、これこそが神様に造られた自分自身なのだと確信するようになったのです。
自分を否定して生きるのがどれだけ苦しかったか、今振り返って改めて思います。
今、自分はこのセクシュアリティを含めて神様に造られたんだ、同性愛であることも祝福なんだと思っています。私はこのセクシュアリティがなかったら救いを求めて神様のところに行くこともなかったなと思うからです。
かつての私の人生は、つねに同性愛についての悩みでした。でも、ヨハネの福音書16:17に、「苦しみ、悲しみは喜びに変わります」とあるように、その悩みを通して私は神様と出会うことが出来ました。同性愛者だからイエス様と出逢えたことこそが一番の祝福です。
私にとって、そのように自分のセクシュアリティを感謝と喜びを持って受け止めることが、神様の栄光を表すことなのです。与えられているものを否定する必要はない。
つい先日も、礼拝メッセージを通してそのように背中を押される経験をしました。
こんなふうに思えている今の自分を、昔の自分に教えてあげたいです。
今ではかつての自分を初めて、恥ずかしいと思っています。
近年、政治家が性的少数者を貶めるような発言をすることが多く度々話題になっていますが、私も彼らと同じことをしていたなと思うからです。
心の中で罪だと思っているだけならいいけど、誰でも罪人なのは一緒なのに、同性愛は罪、と表明するとそれだけが特別な罪であるかのように聞こえます。それを発信してしまうことでどれだけ色々な人を傷つけ、辛い思いをさせているか私は知らなかったのです。
その人自身が神様との関係の中で同性愛を避けるように導かれたなら尊重したいと思いますが、それを他者に対しても同じようにするべきと言うなら、人の生き方の否定になってしまう、それは隣人を愛するのとは違ってしまいます。
クリスチャンの人たちに伝えたいのは、神学はまず置いておいて、想像力を持って行動してほしいということです。「これを言ったら相手はどう感じるんだろう」と考えてみて欲しいのです。
クリスチャンである以前に人として、相手の思い、背景に対して想像力を持つということが、愛の形だと思います。
そういうことについて、クリスチャンの皆さんに、一緒に考えて欲しいです。
今悩んでいるセクシュアルマイノリティ当事者の人には、「独りじゃないよ、仲間がいるから繋がってね。当事者が集まる教会や、約束の虹ミニストリーの集まりに参加してみてください」と伝えたいです。教会は、礼拝するだけじゃなく、前後の交わりもすごく大事だと思います。