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対談 空海が構想したもの

2022.08.26 07:14

http://www.mikkyo21f.gr.jp/academy/17.html 【対談 空海が構想したもの】より

松岡正剛(編集工学研究所所長)

聞き手 長澤弘隆(密教21フォーラム事務局長)

ここに『空海の夢』という本がある。

いまから10年前に、密教21フォーラムが船出するに際し羅針盤になった本である。設立メンバーに共有の知財としてこれを配った。フォーラムの旗印である「大師の旗の下に」の源淵でもあり象徴でもあった。

当時、オウム真理教による宗教テロが、「密教」(金剛乗、タントラ・ヴァジュラヤーナ)の名のもとに行われたにもかかわらず、法の源流を同じくする密教の徒として、真言各派当局あるいは同研究機関または同学会関係筋から当為を得た反論もなく、それがあるべきものと思っていた心ある末徒は忸怩たる思いを抱いた。

一方、世間の論評はほとんどが刑事犯罪としての罪と罰に論題が偏重し、社会病理としてかたづけることで納得したいようであった。教祖麻原をそそのかした宗教学者はどこかに雲隠れし、他の宗教学者たちも麻原の狂気の内奥に迫るものは見当らなかった。

私たちは密教の末徒の義憤からやむにやまれず、殺人容認の忌まわしい宗教の汚名を着せられた密教の名誉回復のために、「空海密教」こそが日本人にとって最もふさわしい密教だという視点に立ち、その真意真相を宗派では採れないような今日的な方法で世に伝えようと立ち上がった。

そんな折松岡正剛さんの『空海の夢』の再販本が出された。空海の知や方法に迫りながら、この本はオウム密教の欺瞞や教祖麻原の狂気を一瞥してはるかに超え、空海密教の豊かな文化人類性におよんでいた。オウムショックで宗教学者が皆口をつぐんだままの頃、この本だけが超然として光彩を放っていた。折も折、日本の空海研究史上まれに見る空海の内奥に迫った書に出会い、私たちはそこからスタートした。

この本はまちがいなく、密教学界に身を置かない好学の士に、空海とは何者か、空海が構想したものは何か、空海密教とは何かを、端的に教えてくれる秀逸な空海研究書である。その証拠に、ウェブ上で各界各層の著名人がこれに関心をもち、数々の賞賛の言葉を贈っている。空海は、『空海の夢』をキーステーションに真言宗や密教学界の枠をはるかに超え、情報・科学・文化・芸術・宗教・教育など現代社会の価値を創造し人間を動かしているダイナミズムのなかに広くよみがえっている。これを、松岡さんではないが、「母なる空海」といってもいいであろう。真言宗も密教学界もこの現実を玩味すべきである。同時に私たち真言僧の至らなさの所以を真摯に省みる必要がある。空海は、私たち真言宗や真言僧だけのものではなく、真言寺院の檀信徒や大師信者や四国遍路だけのものでもなく、世界の知財、世界遺産なのである。

私は『空海の夢』を座右の書としこの20年読み続けてきた。やっと60を越えたこの頃、松岡さんが40歳で書いた本がわかるようになった。読みながら綴ったノートをまとめて「『空海の夢』ノート」と題し、不遜ながらウェブ上で公開している。

その『空海の夢』の第14章に「アルス・マグナ」という特異なタイトルがある。「大いなる術」、つまり空海が唐から帰国ののちに創案した独自の密教構想という意味であろうか。それをまた松岡さんが自らの編集術によって現代的に再編してまとめたもので、以下のようにタイトルで明かされている

(略→「アルス・マグナ参照)

長澤 マスタープログラム、つまり密教の日本化、あるいは総合計画という発想はどこから生まれたんですか。

松岡 東西の思想・哲学の系譜を見ていますと、アリストテレスやフランシス・ベーコンやライプニッツやヘーゲルやディドロやホワイトヘッドといったように、「学の森」というものに向かえる巨大な資質の人たちがいるんですね。ヴィーコの「新しい学」やフィヒテの「全知識学」もそういうものです。

一方、レオナルド・タ・ヴィンチやゲーテのように、あるいは李白や雪舟のように、森羅万象をアートとして表現し、そこに人間の矛盾や歪みすらも採り入れられる資質の人々がいます。

それからまた、言語的な才能のほとばしる人たちが、これまたゴマンといました。とくに言語に潜む身体性や、呼吸と宇宙のプラーナのようなものとの対応を結びつける考え方は、古代インドはもちろんのこと、中国にも、また古代ローマにもすでにあったわけです。

空海を見ていると、そういった資質のすべてを備えているだけではなく、晩年に向かって休むことなくこの資質を拡張し続けています。だとすれば、空海はどこかで、最初はごく小さい発想(アイディア)だったかもしれないけれども、やがてマスタープランやマスタープログラムというような、「マスター」(熟達習練の基本)の発想をもったのではないだろうか、それは、ルネッサンス時代やドイツで言う「マイスター」(名人、師匠)の感覚に近いもので、人びとを教え導き、自分も工房を営んで生産をし続ける、単なる宗教の開祖というよりも、芸術や技術すべてを生み出すマイスターという感覚を空海は持っていたのではないかと思います。

長澤 松岡さんが空海のマスタープログラムを「アルス・マグナ」と名づけたことには、どのような意図があったんでしょうか。

松岡 「アルス」は技芸・芸術のこと、アートの語源です。このばあいのアートも技芸です。「マグナ」はグレートという意味ですね。つまり「大いなる術」という意味です。その奥にあるのは、「アルス・コンビナトリア」すなわち「アート・オブ・コンビネーション」です。日本ではしばしば「結合体」と訳します。

ヨーロッパの中世以降、たんなるヴィジョンやイメージではなく、技術や技芸を思想と組み合わせることによって「大いなる術」を生み出すという発想が生まれます。その代表的な人物が、先ほどのレオナルド・ダ・ヴィンチであり、ライプニッツであり、ベーコンであり、ゲーテです。

空海の全貌は、どうもそのような世界知レベルの「アルス・マグナ」の構想者として捉え直すべきではないかと思ったわけです。

また、そこから密教というものを照射し直してみると、宮坂先生や松長先生が説く「神秘性・象徴性・儀礼性・総合性・活動性」も、密教観にはとどまらない人間文化の可能性についての「アルス・マグナ」として捉えられるわけです。おそらく空海が計画し構想したことは、そういうものだったのではないかと考えたんですね。

■Ⅰ 絶対の神秘―神仏の共鳴 から

長澤 松岡さんがどのようにして空海の原初の構想というものを想定し、組み立てられたのか、その方法論とともに、ぜひ「空海のアルス・マグナ」を番号に沿って解説していただけないでしょうか。

「Ⅰ―1―a」に、まず「大日如来に始まる」とありますね。絶対者の設定です。密教学者でもあった私の父が、『大日経』住心品の講義をしているなかで、「実在である大日如来がそこにおわします」と何度も言っている録音がありまして、仏教の伝統では普通は実在は認めませんが、密教は実在の絶対者である大日を基本的な前提と、そこで父は言っています。

松岡 まさに「Ⅰ―1 絶対者の設定」のテーマですね。密教は神秘主義であることは間違いない。しかしアジア密教や日本密教における「神秘(じんぴ)」というものは、ありとあらゆる神仏を内包できるものですね。そこには、天神地祇もことごとく入ってきます。そうすると、神仏にはイコン(図像、記号、象徴、パソコンのアイコン)というものが伴いますので、そのイコンのすべてを内包する絶対者ないしは唯一者、ここでは包含者と言った方がよりふさわしいと思いますが、それが必要になります。

すでに密教の前に華厳が「ヴァイローチャナ(ビルシャナ))のような宇宙的イコンを想定していたわけですが、密教はそれを「マハーヴァイローチャナ」、すなわち大日如来というスーパーイコンに替えました。では、その大日如来とはいったい何なのか。空海はそれをどうしようと考えたのかです。

おそらく空海は、密教を日本という国に広めるために、総合エンジンのようなもの、今ふうに言うとホストマシン(複数のコンピュータや端末で構成されるネットワークシステムの中で中心的役割をになう多機能コンピュータ)のようなものの必要性を考えたのではないかと思います。 当時は南都六宗の中にもいろんなイコンがあり、執金剛神や孔雀明王のようにパワーをもったイコンも他にありました。けれどもいろいろ検討してみると、どうも日本全体に及ぼすイコンとしては、どこか帯に短し襷に長いというところがあったんでしょう。

そこで、華厳の「ヴァイローチャナ」をさらにスーパーにした大日如来を密教の中心に置いた。これはすでに中国密教が企画していたことです。

長澤 平城京(華厳国家)の象徴(イコン)である東大寺の 盧遮那仏に替るスーパーイコンの設定ということは、南都の旧仏教を超える新しい仏教という主張がそこにあったでしょうね、空海のプランニングの背景には。

松岡 ホストマシンが決まると次に必要になるのは、これを送る先の端末です。ホストマシンはそれだけあったって仕方ありません。そこからネットワークが張り巡らされ、その各点にクライアント端末(ネットワーク上のほかのコンピュータから多様なサービスを受ける側のコンピュータ)が必要です。密教は一人ひとりが覚醒し、大悟し、人品を段階的に達していくものですから、ホストマシンにアクセスする(接続してくる)クライアント側の方法とロジックとを組み立てる必要がある。そこで、ここに即身成仏モデルを置いたのではないかと思うんです。

これは、大日如来のもっている諸神諸仏を統合する象徴性、神秘性、絶対性を、一個の小さな端末も持つことができますよ、対応できますよというモデルなんですね。しかも膨大な端末から大日如来というホストマシンに向かって一斉にアクセスしても何も不都合が起こらないし、誰もが端末からサーバー(ネットワーク上のクライアント端末にサービスを送るコンピュータ)の中に入って大日如来化することができる、言い換えれば即身成仏が可能になる、どうも空海はそういうことを考えたのではないでしょうか。

こうしてホストマシンとネットワーク端末のモデルができあがれば、次にはそこにさまざまなイコンを投入することができます。日本の天神地祇からもってくることさえできる。空海自身はそこまでのすべてを金胎曼荼羅に持ち込んだわけではありませんが、あきらかにそういった構想は持っていたでしょう。もし空海がもう少し生きていたらきっと、菅原道真の天神さんや新羅明神や牛頭天王のようなものも、いわゆる鎌倉新仏教さえも取り込んでしまったんじゃないでしょうか。

ただし、実際にはそのような考え方を国家レベルで完成させたのは中世の密教者たちで、これは黒田俊雄さんなんかが研究されたことですが、王法と仏法、すなわち政治と宗教を、密教をOS(オペレーティングシステム、パソコンで各種プログラムやソフトウェアを可動させる基本ソフト、ウィンドウズ・MACなど)にすることによって統合化する、いわゆる「顕密体制」が、鎌倉時代にほぼできあがったと考えられています。

けれども、おそらくすでに空海は、それに近い国家モデルすら想定していたのではないかと思います。

長澤 密教をOSとした「密厳国家」ですか。スーパーイコン大日如来を法王として、王法である政治も経済も文化も密教というOSで可動する、しかも詔までも速疾に伝わる「重々帝網」のネットワーク国家ですね。諸国の国分寺と総国分寺である東大寺の関係もそうなるという・・・。

松岡 その次にマスタープランとして空海が考えたことは、大日如来に向かっていく「意識のプログラム」を用意し、そこにノウハウやスキル(習練)を関与させるという、プロセスの構築だったでしょう。つまりホストマシンと端末のあいだに、要するにサーバーとクライアントのあいだに、いくつものゲート(交信信号の電子回路)やインターフェース(接点、接続部)を用意したといえると思います。

長澤 絶対者である大日如来にアクセス(接続)するには、端末の方にアクセスの方法や習練が必要だと。三密加持や四種マンダラや重々帝網ネットワークや即身成仏モデル、それには三摩地法の実践修行や儀軌が必要ですね。

松岡 なぜインドでヒンドゥ教や密教が解体していったのかといったことを考えてみますと、どうも宗教的全体主義はファナティック(狂信的)な方向に向かってしまいやすいということがあったと思います。そういう歴史を空海が知っていたのかどうかわかりませんが、何か極小から極大に向かうプロセスに、左道などに逸脱しないスキルアップの階梯を設ける必要があると考えたのでしょうね。

  それと、『空海の夢』ではうしろの第27章で「マンダラ・ホロニクス」というような言葉も使ってみたんですが、「ホロニクス」というのは「どんな部分も全体に関与するホロン(関係子)によって組み立てられているシステム」のことです。生命体のシステムの大半がこのホロニクスで成立しています。これは20世紀末になって科学哲学者や理論生物学者たちが提唱したニューコンセプトなんですが、空海は早くもこういった考え方に直観的に近づいていたのではないかと思います。

長澤 ホロンのイメージは華厳の「帝網」とか一即多とか、その原初は800万の神のアミニズムを想起しますが、極大と極小との間に相似や合同、密教的に言えば平等(サマヤ)、であるとみなす、空海にはそういった直観力とそれに至る即時的な情報処理の速さがありますね。それがどうも言語能力とくに梵語、サンスクリット語の能力と深くかかわっているような気がしてならないんですが・・・。

私は最近、空海はいったいなぜ長安に行ったのか、あの時代の渡唐はもちろん命がけですが、その命がけの渡唐のモチベーション(気持ちの高まり)の問題が気になっていまして、リアルに考えてみて結論的にはサンスクリット語という言語の修得と真言・陀羅尼の理解が第一義だったと言うことに躊躇しなくなっています。

空海は唐の長安でインドを学ぶわけですが、サンスクリットの実力もインド人並みで、聞いてすぐわかるレベルだったと思います。空海はいわゆる空白の7年の間に奈良の大安寺などで相当にサンスクリットを習って行った、そうでなければ、長安でインド僧の般若三蔵や牟尼室利三蔵の文法・修辞・音韻・漢訳の字義の指導についていけなかったはずで、空海は梵語を耳にすると唐語でも和語でもその概念が頭にすぐ浮かぶレベルではなかったかと思います。求聞持法のスキルもあったでしょう。『三十帖冊子』の行外の赤入れを見ると、相当のレベルだったのがわかります。私も自分でサンスクリットをやりましたからわかりますが、あの難しい語学を1年や2年で修得するなんて普通はありえません。たぶん、空海のサンスクリットの語学力は、長安で相当にスキルアップしたのだと思います。

空海が恵果和尚に認められて「伝法潅頂」を授けられたことは、伝説では「汝を待つこと久し」となっていますが、現実の状況を考えると、おそらく恵果和尚の弟子の誰よりもサンスクリットができた(へたをすると恵果和尚より上だったかもしれない)、それを般若三蔵が恵果に伝えた、余命わずかの恵果和尚は、インド人並みにサンスクリットを解する空海を抜擢した、潅頂には印可といって秘密印とその真言の師資相承(師から弟子への秘密伝授)があり、大日と師と弟子とが印と真言によって一体になる、その時に弟子が師の口授する真言の意味が直解できなければ法の内実は伝わらない、伝法にならないわけです。今はこれがまったく形骸化していますが。

松岡 カシミールから来て醴泉寺にいた般若三蔵の教え方やスキルがすごかったんでしょうね。あの人はユニバーサル・ランゲージの体現者ですよ。

長澤 おそらくマンツーマンで付きっきりで空海に教えたんでしょう。もちろん、般若三蔵を通してリアルなインドの宗教の原理原則的なこともふくめ、インドを学んだのではないでしょうか。あるいは般若三蔵が訳した『四十華厳』の訳経作業の実際や華厳思想も聞いたかもしれません。

松岡 般若三蔵たちは『四十華厳』や『六十華厳』をすでにやってますし、空海はサンスクリットと中国語の対応関係も同時に学んだことでしょうね。

ちょっと余談になりますが、もう30年ほど前に、日本でもトップクラスの通訳者たちが、なぜか私の日本語の思想に学びたいと言って押しかけてきまして、10年ほど一緒に同時通訳会社をやっていた時期があるんです。同時通訳の能力には外国語の能力はもちろんですが、それと同等の日本語の能力が必要なんです。それを教えてくれる人ということで、なぜか私に白羽の矢が当たったらしい。

そんな彼らと日々つきあいながら、いかにインタープリテーション(外国語で語られている意味を日本語の概念に置き換えてその真意を即座に理解をすること)ということがトランスレーション(外国語で語られている意味を日本語に翻訳すること)以上に重要かということを私もいろいろ学びました。

どういうことかというと、通訳者たちはたとえば英語の「マナー」と「マニュアル」と「マネージャー」は同じグループの言葉であるということを徹底してマスターしていく、一個一個の英語と日本語を対応させて学ぶという方法ではないんです。おそらく空海も、そのようなインタープリテーション的な方法でサンスクリットのグロッサリー(検索用語集)を修得したのではないか。空海は「佐伯」という言語を司る一族の出自ですから、当然そのような言葉づかいの方法に長けていたとも考えられます。言語宇宙というものを一挙に把握するメソッド(方法論)を持っていました。

それともうひとつ、空海の言語能力について推理できることがありまして、実は15~16世紀まで、世界中のどんな民族も、文字というものは声に出して読んでいたんです。「音読」だけでした。今日では、本を読みながら声を出すのは文字を覚えたての子供くらいでしょうが、長い間人類は「黙読」という方法を持っていませんでした。ところが、空海は早くも黙読の能力すらもっていたのではないかと推測できるんですね。黙読の能力というのは、黙って文字を読んでも、その音声を内側に響かせることのできる力ということです。音読時代では、その音声を耳から入れない限り文字の世界を把握することができなかったわけです。

これも同時通訳の訓練方法を知って驚いたことなんですが、彼らは右側に英語のイヤホンを付けて聞きながら、左の耳には右から聞こえてくる英語とは関係のない日本語が聞こえるイヤホンをつけて、その両方を聞き取るという訓練をしています。空海が短期間にサンスクリット語や中国語をマスターできたのは、どうもこういった二カ国・三カ国語を同時に聞き分けるようなエクササイズ(課題練習)をやっていたのではないでしょうか。

だとしたら、空海は黙して内側に音声を響かせる力を修得していたはずであり、黙読もできただろうと思われるんです。要するに梵語や唐語を聞きながら、同時に日本語が響くような能力を獲得していたのではないか。すでに長安にいた永忠(空海と交代で日本へ帰った大安寺の留学僧、西明寺に止宿していた)も声明の研究者ですからね。そういう刺激もあったでしょう。これがのちの空海の言語哲学や、『声字実相義』や『吽字義』や悉曇辞典にまで至っているのではないかと思いますね。

長澤 なるほど。たしかに私どもでも、真言・陀羅尼を唱えるという身体活動は、脳の中でものすごいことが動いている状態になるんですね。口密で声を出しながら、同時に頭の中で観想し続けてイメージをつくっていくわけで、やはり普通のトレーニングじゃできないわけです。

本来の真言・陀羅尼の念誦行は、同時通訳の世界でいうトップクラスのスキルができていなければ可能にならないということが言えます。ましてや三密行なんて、「四度加行」の経験程度ではとてもとても。しかし空海はそれができた。やはりとんでもない言語能力の人ですね(笑)。

松岡 そうですね。口密、身密、意密が超高速に動かないとできない。

じつはヨーロッパでは「アルス・コンビナトリア」というのは、記憶術とも大変深く関係しているんですね。つまりアルス・マグナは「アート・オブ・コンビネーション」であるとともに、「アート・オブ・メモリー」なんです。驚くべきことに、空海が「虚空蔵求聞持法」でやっていることが、まさにこれなんです。

いま僧侶の皆さんは、密教も顕教もどの宗派でも、だいたい経典を見て読んでいますよね。もちろん真言や陀羅尼はすっかり覚えているでしょうが、お経全部となると普通は経文を読みながら唱える。

ところが空海は、お経一巻すらほとんど見ないでも唱えられたんじゃないか。もし、経文を見ながら読んでいたらすっかり退屈するくらいに、空海というのは高速だったろうと思うんですね。口密で声を出して文字を読んでいるうちに、身密・意密の方はどんどん別のものが動いてしまったのでしょう。

こういう見方で空海の書いた本をあらためて読んでいると、どうも書きながらどんどん退屈しているんじゃないかと思えるようなところがあるんですね。書くスピードよりも思考や意識の方が速すぎて、意密すら遅くて耐えられなくなっているような感じがするんです。だから、途中まで書いたらすぐ「頌」とか「詩」に飛んでしまうんです。

長澤 確かにそういうところがありますね。途中で飛ばしている、手より意識の方がどんどん先に行って、残りは濃縮して「頌」や「詩」にしてしまう、ある意味「一字に千理をふくむ」真言に擬化しているような・・・。

松岡 そうです、そうです。『即身成仏義』などでも、いよいよ即身成仏の本質を書くのかなと思うと、さっさと詩を引用してもう終えてしまいますね(笑)。空海がたった2年足らずで長安から帰ってきてしまったというのもよくわかりますね。

長澤 いまの『即身成仏義』にしても、帰国後亡くなるまでの間に空海がまとめた論文は、独特の(ほぼ中国の)文章ですよね。インド的なものはほとんど見当たらない。だから、空海密教の編集は最終的には中国語の素養で完成したということが言えるんですが、遠景には必ずインドのヴィジョンがあって、「中国」を通して「インド」を編集していたんでしょうね。

松岡 それと同時に「日本」も編集していましたね。三国同時です。そこが般若三蔵から受けたユニバーサル・ランゲージ(世界言語、国際言語)のセンスですね。

長澤 なるほど言語の普遍化ですね。考えてみれば、山林での求聞持法の修行ですでに宇宙語的な言語感覚を身につけていたでしょうね。

■Ⅱ―象徴の提示―イメージのコミュニケーションから

松岡 さて、「アルス・マグナ」の「Ⅱ」に書いたことは、空海のイメージの方法論です。

普通、語学を極めるとヴィジュアリティ(視覚性)を失うことが多いんですが、空海はむしろヴィジュアリティやイコノロジー(図像解釈学)の力もどんどん拡張していくんですね。

アルス・マグナに沿ってその方法論を説明しますと、まず一つは「果分可説」ということをものすごく確信していた。空海の「果分可説」は真言宗のみなさんが想定されている以上に視覚化まで入っていたと思います。もともと、空海にとっては言語そのものがヴィジュアル(視覚的)でありオーディオ(聴覚的)ですからね。

二つ目は、「発生と消滅」を重視していたということです。「生まれ生まれ生まれて、死に死に死んで」もそうなんですが、プロローグとエピローグの両端を押さえるという発想があった。その上で、太始の「阿字」と太終の「吽字」の間に、言語の可能性と真言世界のすべてが入るということを見切っていく。

三つ目はメタファー(隠喩)ですね。象徴の提示のためにはどんなにメタファーを駆使しても、その選択を間違わなければ説明がつくし立証もできるということを確信していたはずです。一般的には、メタファーには立証力がないと考えられがちなんですが、空海は引喩・換喩・暗喩を間違えないで用いれば、人々は必ず大日如来に至れるし、即身成仏もできると考えたんでしょう。

長澤 仏教全般の伝統、とくに大乗思想では「果分不可説」、 要するに「果分」(仏のサトリの境界)については「言亡慮絶」である、人間の言語ではとても表せないものであるとされています。インド・中国の仏教は疑いもなくそこで完結しているわけです。それを空海は真っ向から引っくり返しました。人間世界の音響も視覚も実相だと。南 都の旧仏教は目をむいたでしょうね。

松岡 空海は大乗のテーゼともいうべきものに挑戦したかのように見えますが、否定したのではなかったでしょうね。おそらくそれを超えたんだと思います。

  例えになりますが、「バラ」は「バラ」という言葉では説明ができないということが「果分不可説」ですね。でも、空海はどういうふうに考えるかというと、「バラ」という言葉には「ヴッ」という音もある、「ウゥッ」という音もある、「ラ」という音もある。その上、目にもその「かたち」が見えているし、「薔薇」という文字もある。「バラ」と自分のあいだに音がありイメージがあり文字もあって、それらは空間に伝わっているではないか。きっとそんなふうに考えたのではないでしょうか。単に「真如」は言語にならないというだけの説明では満足できなかったんでしょうね。その間をとことん埋めつくして超えてしまったんですよ。

現代思想的にいうと、空海はあの時代に早くに「記号論」に到達しながら、さっさとそれを超えてしまったということだと思いますね。ソシュール言語学どころではないものまで進んでいたと思います。

長澤 「超えた」・・・か。否定したのではなく、超えたんですね。なるほど。

松岡 しかも空海はヴィジュアライゼーション(可視化)とボーカライゼーション(音声化)を伴った言語哲学者ですから、記号的な分別知ではなく総合的な知、もっと言えば「わかる」ということを目指したんでしょう。のちに宗教学者のエリアーデが「エピファニー」(顕現)という言い方をしますが、そういう「影向」というかフワッと出てくるようなもの、あるいはブッダの知といったようなものは、記号を超えればもっと高速のイメージで伝わるんではないかという確信を空海はもっていたように思います。

長澤 そこに「真言」という切札をもってきたわけですね。

松岡 そこがすごいところですね。おそらく空海は言語の発生についてかなり早くから考え続けていたでしょう。さきほどの「マナー、マニュアル、マネージャー」の例でいうと、そういう「マナー」ですべてがわかるということに早くから気がついていた。まさにそれが真言ですよね。語根の根っこをつかんで、一挙に進む。その真言こそが諸々のカテゴリー(範疇、領域)を生んでいるのであって、意味や記号のカテゴリーが真言をでっち上げたのではないという確信です。語根が射出してくるところにマントラの蕾があるという発想です。

長澤 おそらく空海はそのことを長安で体得したんでしょうね。その方法を日本に持って帰ればたいへんな武器になるということもわかっていた。

松岡 マントラをそこまで重視できた理由のもうひとつは、さっきも言いましたメタファーの自信でしょうね。マントラというのは凝集されたものですが、メタファーによってそれをいくらでも飛び火させ、敷衍できると思えていた。そういう意味では空海は詩人でもありました。

長澤:メタファーの力というのは結局、相似や合同を発見する力とか、イメージや概念のグルーピング(グループ処理)の知恵ということになるんでしょうか。

松岡 そう考えていいと思います。結局、思想というのは同質か異質かということをつねに議論するわけですが、同質になりすぎても異質に走りすぎても主義主張に陥る危険性があります。異質に行きすぎるとただのオカルト主義になるというようにですね。ですから同質と異質というものをどこかで融通無碍しなければいけない。そのためには「異・同」というものを両方孕むニューコンセプト(新しい概念、見地)を出現させなければいけません。

空海の場合、異と同を寄せながら、相似性で新たな合同をつくるというところがすごいと思います。それがニューコンセプトになる。実際にも空海はものすごくたくさんの造語を創っていますね。中国語にも梵語にも大和言葉にもないようなニューコンセプトあるいはニューターミノロジー(新しい用語法)を創っています。

空海の書もそうです。梵字のカリグラフィー(書法)からも漢字の象形性からも学んで、「文字だって創り出せる」と考えたのではないでしょうか。もちろんムドラー(印、印契)だって創り出せる。マントラがあれば、ありとあらゆる概念をイメージの可視化を通して自由に創造可能であるというところまでいっていたと思います。

■Ⅲ 儀礼の充実―華麗なるパフォーマンス から

長澤 では、第Ⅲ部の「儀礼」のところです。密教には儀礼が常に伴います。密典には多くの儀軌もあり、儀礼ぬきの密教はありえないと言っても過言ではありません。密教の儀礼には秘儀(潅頂など)に属するものとそうでないもの(大曼荼羅供などの法要)とがありますが、いずれにしろ、ヴィジュアルな事相(荘厳・法式など)と「経」にもとづく教相が表裏一体になっています。

松岡 儀式性というものも、空海が密教を日本に定着させるにあたって早い判断とたくさんのアイデアによって構想できたことだと思います。

「儀礼」というのは、今の密教の言葉でいうと「事相」と「教相」です。「事相」は、概念をオブジェクト(事物・具象)として表せるということですね。それを、「教相」という内面的なコミュニケーションの方法の世界と一一させようとしたことに、空海の成功の秘密があると思うんです。つまり「それは護摩壇の上のここにある」というオブジェクトをつくることによって、それを教え伝えるプログラムとしても使えるようにした。この仕組みは、いまだに他の日本の宗教には少ないですね。オブジェクトの数は圧倒的に密教が多い。多すぎてわからないというくらい多い(笑)。

ここでまたコンピュータの比喩になりますが、空海の発想は「オブジェクト指向」という考え方に非常に近いのではないでしょうか。オブジェクト指向というのは、オブジェクトにプラスやマイナス、すなわち「が」とか「に」とか「を」といった助詞を付けるということです。たとえば「リンゴ」を例にして言いますと、「リンゴ」がオブジェクトなのではなく、「リンゴが」という区切りでオブジェクトの一単位なんです。3+4=7という数式をオブジェクト指向で言うと、「3+」という区切りがオブジェクト、あるいは「+4」がオブジェクトです。つまり、概念に糊代がついているオブジェクトなんです。

空海の方法を見ていますと、オブジェクトの数も多いけれども、そこに「てにをは」がちゃんと付いていて、それをどこへ持っていったらいいかというようなことがわかるようになっている。この考え方は当時としては相当進んでいると思いますね。

長澤 それは、サンスクリットの名詞・形容詞(単語)の格変化や造語に似ていますね・・・。

密教の儀礼には「擬する」「みなす」という「見立て」の知がはたらいていて、あるいは代替、あるいはシンボリズムと言ってもいいと思いますが、道場荘厳も行法もみなそうです。極大と極小を「平等(サマヤ)」(相似=合同)だと見立てたり、教相の世界を事相としてビジュアル化して対応させたり。

「四度加行」でやる「金剛界念誦法」に「五相成身観」というステージがあるんですが、その最後の「仏身円満」の段階で行者は「一切の如来たちが(そう)あるように、(いま)私は(そう)あります」という意味の「オンヤタサラバタタギャタサタタカン(オーム ヤター サルヴァタターガタース タター アハム)」と、英語の「so~as」に似た「ヤター~タター」の表現法はその象徴で、相似=合同の典型です。

松岡 そうですね。行法のどんな場面にもミニ宇宙やミニミニ宇宙のオブジェクトが用意されているということだと思います。それが部分品になっても、パーツになってもなお「次の宇宙」や「より大きい宇宙」に至れるようになっています。そこがホロニックなところです。

 ところで、現状の「潅頂」の儀式では「三昧耶戒」から「入壇潅頂」へ行く順序というかプロセスはどういうものなんですか。

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長澤 私どもの場合では、「四度加行」を成満して「潅頂」壇に入壇を許された人(受者、付法の弟子)は、一日の日程で受法し終わります。師となるアジャリは有縁の人がなる場合もありますし、偶然の出会いの人の場合もあります。

まず、受者は「三昧耶戒」の道場に引入され、アジャリから「三昧耶戒」を受戒します。これが密教の戒で、仏と平等(サマヤ、不二)の資位を与えられ、小宇宙が大宇宙と相似・合同に向かう機根が認められたことになります。続いて金剛界の道場に引入され、金剛界の敷マンダラ壇に「樒」の小房を投げて得仏します。そのあと、アジャリの待つ小壇所に入り、金剛界大日の威儀に住して秘印と真言を口授されます。続いて胎蔵界の道場に移り、同じく投華得仏ののち胎蔵界の大日の威儀に住し秘印と真言を授かります。秘印と真言はもちろん口外無用です。

  「投華得仏」とは、金剛界・胎蔵界の壇の上に両界の「敷マンダラ」を敷き、その壇の至近に目隠しをされた受者が導かれ、両中指の先端にはさんでいる「華」(樒の小房)を「敷マンダラ」の上に投げるのです。

「華」がどこに落ちるか、落ちたところの仏がその受者の一生の持仏になります。空海の場合は金剛界・胎蔵界両方とも真ん中の大日如来に落ちたわけですが、高雄山寺に残る『潅頂記』には高雄潅頂の際の最澄や泰範らの得仏名が「宝幢」とか「般若」とか記されていますね、あの時は「伝法潅頂」ではなかったようですが、「投華得仏」はやったようです。

松岡 伝授されるものは三つとも秘印なんですね。それは恵果の頃からほとんど変わってないんですか。

長澤 秘印です。おそらく恵果の頃と同じでしょう。これだけは儀礼が形骸化した今でも口外厳禁、節を守っています。野沢十二流といいますが、法流は違っても秘印だけは共通のはずです。

松岡 気分は相当に高揚するものですか。

長澤 受者の方は緊張の極ですね。目隠しをされていますから、目の前で何が行われているかはまったくわかりませんので、余計です。

ただ、道場内のアジャリと受者の動きの折々に、道場の舞台裏で唱える声明が聞こえてくるんですよ。その声明がジーンときまして、目頭が熱くなるんです。第九の「歓喜の歌」どころではなく、「フロインデ」ではなく、福音のような、大日の「影向」のような、仏の世界に今いるんだみたいな、あれは感動なんてものじゃありません。密教はあれに尽きると思います。仮説の見立てがいつのまにか真如と化しているんです。だから密教にとって儀礼というのは不可欠になるわけです。

松岡 だからこそ秘密曼陀羅、密厳心(秘密荘厳心)というのはそこに儀礼化の頂点をもってくるわけですね。きっと、比叡山の天台法華や戒壇院の神秘性にくらべて、密教の方がダントツでしょう。

密教の儀礼でもうひとつおもしろいと思うのは、やはりムドラー(印)の連続的な変化です。手の動きがセンテンスになるというんでしょうか。

長澤 連続的な変化といえば、一つの印がいくつかの変化をもつという場合もありますし、「念誦法」の『次第』に従う意味では作法の順序で印が連続的に変化します。その際も意味が連続します。

今、私がちょっとおもしろいと思っているのは、ムドラーと南インドなんかの古代舞踊との関係ですね。あの手の仕草は完全にムドラーです。しかも手指の連続的な変化で意味をあらわすようになっている。ムドラーもやはり連続的に意味がつながっているはずではないか、ということは思いますね。

松岡 しかも左手と右手で五本ずつの指が完全に対応している。それ自体が金胎であり、仏と衆生が対応し合った手話であるとも言えるわけでしょう。

長澤 右手が仏で左手が行者で、これを合わせて生仏一如です。

松岡 そういった儀礼や身体行法がすべてステップアップ・プログラムになっているということも、空海の発想の大胆緻密なところですね。

ステップアップといえば、『十住心論』を読んでショックだったのは、「一、二、三、四、五、六、七、八、九」まできて、いよいよの「十」をほとんど説明してくれないというところ。「いよいよですよ。はいこれで十です」と言ってるだけなんですね。それこそが密教の一番の奥義だから、九までは説明するけれども、十は説明しないんですね。先ほども言いましたように、こういうところに文字で書くうちに飽きてきてしまうほどの空海の速さが現れているんですが、論証が最後の最後になって吹っ飛んでしまう。空中に花火のように上がって終わり(笑)。

長澤 『般若心経秘鍵』などは、ねっちりねっちりと、くどいようにやるんですよね。だから書き方もワンパターンじゃない。『十住心論』は空海の晩年に書かれたものですね。しかも朝廷の求めに応じて各宗の宗義をまとめた、というようなものだった。それにしても『十住心論』の「十」は、ぶっ飛びすぎてますね。

松岡 それを『秘蔵宝鑰』でまたダイジェストしてみせる、私の専門の「編集」という観点から見ると、なぜあれほどの確信をもってそれができたのか、謎ですね。

■Ⅳ 総合と包摂―普遍世界を求めて から

松岡 空海の構想の特徴を大きくまとめて言うと、仏教思想の個別発生と系統発生のそれぞれを組み立てながら、そのすべてを重ねて総合化したということにあります。つまりインドから始まる全仏教史が密教に向かってテンカウントでステップアップしていくという大きなプログラムと、一人の端末がステップアップして如来に至るという小さなプログラムを、完全に重ねた。これは空海の独創的な発想だと思いますね。

taidan_kuhkainokoso_07.jpgそれから「流伝と付法」といいますか、この組み合わせがうまい。おまけに自分を「真言八祖」の一人に組み上げて、しかもその組み合わせすら時々違うわけでしょう。これも天空海闊いうか自由闊達。だいたいタクソノミー(系統樹)という発想は、少なくともヨーロッパでは12世紀を越えてやっと生まれたものなんですが、それを空海は早くも発想できた。このことも、もっともっと注目されていいことだと思います。

さらに言えることは、『空海の夢』の「アルス・マグナ」の前のところに書いた ことですが、空海においては、直観が「場面集」になっていて、方法が「回路群」になっている。私はこの本のなかでは「場面集」に「インターフェース」、「回路群」に「サーキット」とルビを振ってみたんですね。

そのことを「儀礼の充実」と重ねて言いますと、空海は修行の各階梯を、そこに差し掛かると何かが見えてくるというふうに、場面型に組み立てている。そして、その場面ごとにインターフェースが用意されている。ところがそれを俯瞰しながら連続的に見てみると、回路型にも組み立てられていることがわかります。それを極大化すれば八十八カ所のようなサーキット(回路)にもなるわけです。空海は、この「場面と回路」というものも必ず対応させているように思うんです。おそらくこういう発想の奥には、華厳の「重重帝網」のネットワーク感覚があったんでしょうね。

長澤 密教修行にしても四国八十八ヵ所遍路にしても、そのセッティングの奥に「場面と回路」のような発想を見てとるのは、やはり編集工学のマイスターでなければできない術だと思います。

松岡 「場」というものを、すべてのシンボルとアイテム(中身項目)から切り離さないという方法が貫徹していたんだと思います。

■Ⅴ 活動の飛躍―アクティビティの深化 から

長澤 松岡さんは空海の活動性にも大きな関心を寄せていますね。

松岡 活動性というのは、アニマ(生命、霊)やアニミズム(自然の事物に生命力や霊的な力が潜んでいて、自然現象は皆その顕現だという信仰)とかかわります。そこから、アニメーションという言葉が派生したことにも表れるように、何かが動いていくということです。

「即身」という一個のミクロコスモス(小宇宙)が活動を切らさないでどこまでも動いてそのまま拡張・拡大していく。「個」から「類」へ、あるいは一つの地域から社会大へ、さらには国家大、宇宙大に広げることができるという考え方です。

一個の身体が宇宙にまで到ることができるというのは、それほど珍しいわけではありません。ダンサーやミュージシャン、場合によってはスポーツ選手なども持っているかもしれない感覚です。けれども、それが地域を越え、社会にも国家にもなるというように、現実のエリアをまたいでアクティビティ(活動)が伝播するというような確信を持ったのは、弘法大師空海くらいのものではないでしょうか。そういう意味では空海は動的社会学の思想家でもあったわけですね。

長澤 空海は、入唐留学前も帰国後も実に行動的です。ジッとしていませんね。とくに高野山の造営に着手してから晩年までは実に行動的です。高野山の造営に苦心しながら、東寺を預かって鎮護護国のための密教化を行ったり、国家仏教の中枢の東大寺別当も兼ねて東大寺も密教化したり、高雄では密教の弟子も育て、宮中の中務省で嵯峨や淳和の側近を務め、神泉苑では雨乞いの祈祷を行い、満濃池を大修築し、大和益田池の潅漑開拓を指導し、大輪田泊の港湾修復を成功させ、藤原北家のために興福寺の南円堂を設計監理し、綜芸種智院の創設と、一を抑えて多に及ぶというか、一即多というか、これは単なる慈善事業とか社会奉仕とかそういうレベルではないと思いますが・・・。

松岡 まずは、南都の仏教のだらしなさに対する怒りもあったと思いますね。また、青年時代の「7年間の空白」と言われる山林修行時代に、原始的なアニミズムのようなものが身についたんだろうと思います。

アニミズムというのはアニマのモチベーションで概念や好みや活動を決定するということですね。おそらく空海はその頃に、言語もアニミズムでいい、そこにアニマが動けばいい、アニメーションであっていいということをつかんだのではないでしょうか。のちに密教のマントラに出会ったときに、それがアニマのエンジンに当たるものだと直観したのではないかと思います。

長澤 空海が「空白の7年」のことをどこにも書き残していないのは、弟子にすら秘しておくような濃密な体験をしていたはずだと思いますね。吉野・熊野・高野・天野、あるいは満濃池のある土地も真野(まんの)ですが、そういう「野」における求聞持法などの体験の中で・・・。

松岡 まさに日本のミステリーゾーンの秘密を、空海は早くに感知したんでしょうね。そういった体験を、のちの灌漑技術や水銀蒸着技術、あるいは水銀鉱山のトンネルの掘り方にいたるまで、画期的なテクノロジーに発展させていきました。

さらには「綜芸種智院」のような教育事業まで手がけたわけでしょう。今日の日本で言うと、各省庁と大臣全部の役職や機能を、アルス・マグナの一部として持っていたわけです。日本のシャドーキャビネット(影の内閣)のようなものを一人ですべて作ってしまったに等しいですね。もし空海が長生きしていたら、藤原氏の摂関政治に代わる別な国家モデルをつくっていたかもしれませんね(笑)。

弘仁元年の薬子の変のときは、「国家のおんために修法せんと請う表」を嵯峨天皇に上表していますね。しかも摂関政治にはビジネスモデルがなかったけれども、ひょっとしたら空海ならビジネスモデルもつくれたんじゃないですか。『高野雑筆集』には藤原冬嗣と「御密談」したという記事もあります。

長澤 私は、空海の社会事業というのは帰するところ「果分可説」の延長線なのではないかと思うんですね。

松岡 ああ、おもしろいなあ。それは明快ですね・・・。

長澤 「俺の論文でわからんやつは、満濃池を見てくればわかる」という気概ではないかと。

つまり、「自然も宇宙もみな仏(真如)の顕現であるとすれば、民の一人ひとりの生業も実相のはずだ、わが密蔵では秘密荘厳の目でそれがわかるのだが、それに気づかない人には視覚化し音声化してみせよう、真如の世界をヴィジュアル化するのは何も東寺の立体マンダラだけではない、俺のやる社会事業はみな羯磨マンダラと同じだ」と。つまり、空海の社会事業は、表面は「済世利人」ですが、裏面は「果分可説」ではないかと。空海の「果分可説」は単に言説によるアカウンタビリティー(説明責任)ではなく、可視化・視覚化、音声化・聴覚化を含め五官すべてに訴えるだと思ったわけです。

「綜芸種智院」をよく日本の民主教育のはじまりだなんて見方がよくありますが、そういった近代民主主義とはおよそ次元の違う構想だったと思うんです。自分の密教原理に合致するかどうか、「果分可説」の実践になるかどうかを見極めていたと思うんです。

松岡 おっしゃる通りだと思いますね。結局、日本の「まつりごと」の世界というのは、宗教者やアーティストや作家がかかわったりサポートをしている例が非常に多いんですね。

室町時代の夢窓疎石や一休や同朋衆たちのように、戦国時代の利休や徳川時代の天海のように、あるいは、現代の石原慎太郎や黒川紀章にいたるまで(笑)。そのすべてのモデルが空海にあると思うんですよ。そういう意味で、私は空海というのは「日本の母」である、「母なる空海」である、と言ってみたいわけです。

「空海密教」という一つの偉大な「アルス・マグナ」というモデルを、21世紀の日本にもっともっとあてはめ、大胆な試みをしてもいいんじゃないかと思いますね。

長澤 マザーコンピュータ、ホストマシンとしての「母なる空海」ですね。空海を宗祖大師に仰ぐ私たち真言僧へのご提言として受け止めたいと思います。

長時間にわたって貴重なお話を聞かせていただき、有難うございました。まだまだ言い足りないこともあったかと思いますが、おかげさまで、空海が描いた構想を追いながらその今日的意味もだいぶ浮き彫りにできたと思います。