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日本の原郷・五島列島

2022.08.20 07:49

ttps://stringfixer.com/tags/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%8E%9F%E9%83%B7%E3%83%BB%E4%BA%94%E5%B3%B6%E5%88%97%E5%B3%B6  【 日本の原郷・五島列島】

https://stringfixer.com/tags/%E6%95%B7%E5%B3%B6%E3%81%AE%E8%83%8C%E9%AA%A8%E3%82%92%E6%B8%A1%E3%82%8B%E7%A7%8B%E6%97%A5%E3%81%8B%E3%81%AA 【敷島の背骨を渡る秋日かな】

Facebook五島高資さん投稿記事  長崎県 諫早市 ·翡翠(ヒスイ輝石・硬玉) 他

天保海岸は、富江熔岩(玄武岩)と五島層群が接しており、火山活動により 玄武岩中のかんらん石が熱水変質を起こしてできた蛇紋岩の露頭が見られ、この中に翡翠の原石が見つかります。日本でも稀少な翡翠産地の一つです。

http://gototakaamanohara.livedoor.blog/archives/176312.【五島市富江町天保海岸の翡翠(ヒスイ)】

https://ishitetu.sakura.ne.jp/hidaka.html  【各地の翡翠】より抜粋

そもそも「翡翠」とくくりますが「硬質翡翠」(ジェダイト)と「軟質翡翠」(ネフライト)に

鉱物的なつながりはなく、見た目では区別がつきにくいことからどちらも「翡翠」(ジェード)と呼んできたそうです

歴史的経緯は中国では、軟玉(ネフライト)しか採れず古代より中国で価値ある宝石とされてきましたが18世紀に入りミャンマーでジェダイトが発見されたためネフライトは軟玉と呼ばれ区別されるようになったといいます

日本では、地方の緑色の石を産地名をつけて長崎翡翠とか日高翡翠などととよびます

こうした石は、産出量が少なく、採掘できなくなっているものもあり鉱物ファンにとっては、本物の国産翡翠と同等あるいはそれ以上に惹かれる存在となっているようです

そこには絶滅した動物、マンモスやナウマンゾウなどを捕獲しているような心情があるなどと表現されているかたもいます

一方、別の土地でなら〇〇翡翠と呼ばれたはずであろう石が姫川の河原やヒスイ海岸にあるばかりに本物翡翠に似たあやしい石とさげずまれて「キツネ石」とよばれているわけです

長崎翡翠

長崎県でのヒスイ輝石の発見は、昭和52年(1977) 当時大学生であった、九州大学の西山忠男教授によります

西山氏は、卒業論文のため長崎県の西彼杵(にしそのぎ)半島を調査していたとき長崎市三重町の海岸で淡緑色の翡翠を発見したといいます

三重町三京海岸には1~1.5m大の翡翠の転石が3個、保管されているらしいです

また、長崎市三重海岸に露出する緑色岩には陽起石(ようきせき) 緑廉石(りょくれんせき) 緑泥石(りょくでいせき)曹長石(そうちょうせき)などの変成鉱物と共にごくわずかですがヒスイ輝石が含まれていて「三重海岸変成鉱物の産地」として県の天然記念物に指定されています (1978年指定)

その後、西山教授の研究グループは、平成15年(2003)三重町の琴海町(きんかいちょう)の小さな沢(戸根渓谷)で世界的に珍しい石英入りの翡翠を発見しています

曹長石(そうちょうせき)という岩石がヒスイ輝石と石英に分解されるという化学反応によってできたと考えられその証拠に石英が含まれているそうです

宝石としての価値は低いものの ヒスイ輝石岩中に石英の含有分が多く地質学的に大変珍しいものであることから市の天然記念物に指定されています

こうした翡翠輝石とは別に観賞石とされてきた長崎翡翠というのがあって

これは、クロム、ニッケルによって色がついたドロマイト(苦灰石)と石英が混合した岩石だといいます

ドロマイトとは、珊瑚などの生物が海底に堆積して石灰岩になった後カルシウムの一部が海水中のマグネシウムに置き換わって生成された鉱物だそうです

緑色はニッケル発色によるといいます

古墳時代には勾玉や管玉が作られたこともあったらしいです

https://www.jstage.jst.go.jp/article/geosocabst/2021/0/2021_251/_article/-char/ja/ 【長崎県五島列島の層序と堆積年代】より

五島列島は長崎県本土の西方約100kmに位置し,北東-南西方向に配列する5つの島(福江島,久賀島,奈留島,若松島,中通島)と約140余りの小島からなる.五島列島の基盤岩類は中新世の堆積岩類からなる五島層群(植田,1961)とそれを覆う流紋岩類(五島酸性凝灰岩類)と15Maの花崗岩類(河田ほか,1994)からなる.我々は,五島層群および五島酸性凝灰岩類についての柱状図作成および年代測定により全体の層序を復元した.五島層群下部層(層厚300m+)は緑色火山砕屑岩,中部層(層厚約1000m)は泥岩優勢で,リップルラミナをもつ砂岩泥岩互層,上部層(層厚約1500m)は斜交層理を多く含む厚い砂岩を主体とする砂岩泥岩互層からなり,それを不整合で五島酸性凝灰岩(層厚およそ500-3000m)が覆う.

本研究では,五島層群中の凝灰岩や五島酸性凝灰岩中の流紋岩溶岩や火山砕屑岩についてジルコンのU-Pb年代測定を行った.また,斜交層理の発達する五島層群中の砂岩層において,Dickinson(1983)に基づく砂岩モード組成の測定と古流向測定を行い,堆積物の供給方向を推定した.

(U-Pb年代)五島層群下部層は塊状緑色火山砕屑岩を主体とし,下部は角礫を豊富に含み,上部ほど斜交層理を伴う火山砕屑岩に移り変わる.この火山砕屑岩中には18億から1億年前の年代を示す円磨されたジルコンが多く含まれる.そのうち角張った小さいジルコンから21.7±0.5Ma,22.6±0.5Maが得られた.奈留島では,五島層群中部層の砂岩泥岩互層中の酸性火山灰層が17.66±0.19Maを示した.福江流紋岩類は,流紋岩質の凝灰角礫岩と白色流紋岩を測定し,それぞれ16.36Ma±0.09Ma,16.80±0.36Maを示した.

(砂岩組成)モード組成は五島層群中部層の砂岩は石英約80%,長石約20%,岩片数%,五島層群上部層の砂岩は石英約90%,長石約10%,岩片数%であり,上部層は石英の量比が増加する.

(古流向)五島層群中部層の砂岩は砂泥互層中の比較的薄い砂岩層が多く,リップルラミナを持つものが多い.比較的厚い砂岩は,波高5 cm~30 cmの斜交層理を保存しており,古流向はNWからNEの範囲を示した.五島層群上部層は,厚い層厚をもつ砂岩層が卓越しており,そこで見られる波高20 cm~1,2mの斜交層理が示す古流向はほとんど南から北方向の流れを示した.

(まとめ)五島層群下部層の火山性砕屑岩は,20-18Ma頃,中部層の砂岩泥岩互層は17.5-17Ma,上部層は17-16.5Maに堆積したと考えられる.五島酸性凝灰岩(福江流紋岩類)は2カ所で16.5Maの年代が取得でき,五島層群の砂岩層堆積後に火山活動により形成したと考えられる.また,砂岩モード組成から中部層から上部層にかけて石英の量が増加し,厚い砂の層が形成する.中部層は北方向に幅広い方向の流れでできるが,波高の大きい上部層は南から北への方向を示した.つまり,丁度西南日本の回転時期(星,2018)に堆積場が大きく変化しており,蛇行河川から網状河川-河口デルタ環境への変化が起こったと考えられる.

〈引用文献〉

植田, 1961, 九州大学理学部研究報告 地質学, 5 (2), 51-61. /河田ほか, 1994, 5万分の1地質図幅「福江」調査報告, 地質調査所, 4-32. /Dickinson et al., 1983, GSA Bulletin, 94 (2), 222–235. /星, 2018, 地雑, 124 (9), 675-691.

https://goto.nagasaki-tabinet.com/feature/geobunka 【大地から感じる五島の魅力(文化サイト・自然サイト)】より

五島列島は、日本列島の西の端にあると同時に、東シナ海の一角を占める場所にあります。

五島列島の大地は、約2200~1700万年前に堆積した(ユーラシア)大陸由来の砂と泥が基であり、その当時は大陸の一部でした。

この大陸由来の砂と泥の地層(白と黒のしましま地層)のことを「五島層群」と呼びます。

いくつもの大地の変化を経て、日本列島が大陸から離れて形成される際に、最後まで大陸とつながっていた特徴を持ち、その後、火山の噴火によって、溶岩台地と多くの火山島が形成されています。

中国大陸と日本の中間に位置する五島列島は、遣唐使の経由地、倭寇の拠点、潜伏キリシタンの移住など、大陸との関わりや離島であることを背景とした歴史が数多く存在しています。

亀河原のツバキ純林

石田城石垣

江戸時代末期、黒船来航を機に外国船警備のために「海城」として築城されました。

石田城の石垣は、鬼岳火山群から流れた溶岩(玄武岩)で、硬くて丈夫であるという特徴があります。

武家屋敷通りの石垣としても使われています。

武家屋敷通り

福江武家屋敷通りには中級武士の屋敷の石垣が残っています。石垣は、付近の海岸から運んだ玄武岩の丸石を主体に築かれ、さらに石垣の上に積まれた小石(こぼれ石)は、敵が侵入してくるのを防ぐ役割を果たしました。

石田城や武家屋敷通りがこの場所にあるヒミツは大地にあった!?

福江大津の岩川

大津地区には、鬼岳の地下を流れた水が湧き出る場所がいくつかあります。

このような湧水地を地元では「かわ」と呼び、洗濯場や野菜の洗い場として利用してきました。

大津地区では、この貴重な湧水を利用してきた歴史があります。

水温は18℃前後で、年間を通してほとんど変わりません。溶岩台地でろ過されているため、透明できれいな水が流れています。

農村集落を代表する景観であり、福江地区の地形的特色を持った場所といえます。

明との交流遺産

2つの遺産は、五島が東シナ海の拠点のひとつであったことを示す歴史遺産です。

●六角井

井戸枠を六角形に板のような石で囲んでいます。井戸の中を覗くと、水面下まで六角形の形をしています。

この型の井戸は長崎県内に3つあり、所在地はいずれも港町で、唐船との交渉があった場所とされています。

天文9年(1540)五島領主17代盛定のころ、活躍していた五峰王直が交易を求めて来航したので、盛定は居城(江川城)の対岸に土地を与え、唐人町を開かかせました。その際、来航してきた唐人達が江川城本丸下につくったのがこの井戸であると伝えられています。五島における倭寇時代の遺跡の一つです。

●明人堂

天文9年(1540年)、当時東シナ海を舞台に貿易商として活躍していた明国の王直は、通商を求め福江に来航、財政的に苦しかった領主宇久盛定は喜んで通商を許し、江川城の高台(現在の唐人町)に居住地を与えました。その一画に王直ら中国人が、航海の安全を祈願するために廟堂を築き、その跡が現在の明人堂であると云われています。

富江の陣屋石蔵

溶岩の切り石を隙間なく見事に積み上げたこの建物は、江戸時代の富江藩の貯蔵庫として使われていました。

屋根部分はないものの、350年以上経った今もしっかりとした形で残っています。

カンコロ棚などにも同じ玄武岩質溶岩が使われており、富江町の石文化を象徴するひとつです。のひとつの象徴です。

勘次ヶ城

「山崎の石塁」(昭和45年県の指定史跡)ともよばれ、今から150年程前、大工の勘次が河童と築いた石の城という説や、中国沿岸地域の海賊の築城方式に似ていることから倭寇のアジトとして築城されたという説があります。

城には、富江半島の大地を作る玄武岩の溶岩が使われ、迷路のような石積は長さ約180mもあります。

円畑

日本の耕地の原形とも言われ、福江島北部の三井楽地区や南部の富江地区で見ることができます。

五島の大地、なだらかな火山だからこそ、この風景に出会えます。

●富江の円畑

富江半島は只狩山を中心とした火山から噴出したサラサラの溶岩で出来ています。サラサラの溶岩は平坦な大地を作り、平坦な大地には円畑が数多く残っています。溶岩を円畑の囲いに使っていることが一目で分かります。

●三井楽の円畑

三井楽半島では楯状火山である京ノ岳の山頂から麓まで、円畑が広がっています。

季節風から作物を守るため、防風垣、椿の防風林で畑を囲っています。

スケ漁・スケアン

スケアン、又はスケ網(九州一円ではスキ)は、その起源が数万年前といわれる原始的漁法の一つです。遠浅の海岸に石積みを築き、潮の干満を利用して魚を獲る方法で石干見(いしひび)漁業とも呼ばれます。なだらかな溶岩で出来た遠浅の地形をうまく活用した漁法と言えます。

●富江のスケ漁

石積みを復元し、観光に活用しています。典型的な縄状パホイホイ溶岩の姿が残る遠浅の溶岩海岸に位置しています。

●三井楽のスケアン

建築時代は不明ですが、底部で約1.5m、上部で50~80cm、高さが1mから最高1.5mに積み上げた石塁で、約80mにわたって入江を塞いだ大規模な遺構が残っています。

遣唐使関連遺産

三井楽には、遣唐使や遣唐使として渡った空海にまつわる歴史が多く残されています。

●空海記念碑

遣唐使にとって日本最後の寄港地となった三井楽の柏崎。川原の浦(現在の岐宿町水ノ浦)や相子田(上五島)のように港としての規模は大きくないものの、風待ちや臨時寄泊地の役目を果たしたと言われています。

第16次遣唐使で唐に渡った空海の言葉「辞本涯」が刻まれた石碑が建っています。

●ふぜん河

遣唐使船の乗組員たちの飲料水として利用されていたとされる井戸。渇水期でも枯れることなく、良質の飲料水として喜ばれました。丸い石(玄武岩)を積んで井戸が作られており、現在も水が湧き出ています。

八朔鼻の海岸植物

八朔鼻は、岐宿町の北端に位置し、岐宿火山から流れた溶岩から形成されています。狭い地域ながら、福江島で海岸植物が最も多い地区であり、長崎県に産する海岸植物の約3分の1が生育するという、きわめて海岸植物が豊富な場所と言えます。中にはレッドデータブックに記載されているスナビキソウ、ハマサジ、ゲンカイミミナグサが生育し、また、対馬暖流によって運ばれる南方系種子も発芽しており、グンバヒルガオも毎年見られます。

皺の浦のハマジンチョウ

ハマジンチョウはハマジンチョウ科の熱帯性の常緑低木で、東南アジアから北上分布し、台湾、琉球、種子島を経て、九州西岸を経て五島列島まで生育しています。

奈留町大串の池塚には、直径100m、短径50mの海跡湖があり、その湖岸に長さ80mにわたってハマジンチョウが群落をなしており、県指定天然記念物になっています。指定地のハマジンチョウ群落には3つの特色があります。

・1つ目は、かつて五島列島の入り江各所に存在していたであろう大規模な群落をなしていること

・2つ目は群生地が海岸ではなく海跡湖の岸にあること、

・3つ目はその環境の高い自然度

いずれの点からも我国第一級のハマジンチョウの群落であると言えます。

亀河原のツバキ純林

亀河原は、久賀島の西部に位置しており、久賀島の中でも特に椿が多く自生しています。

ヤブツバキは海からの潮風にも強く、久賀島では海岸線や急崖でも繁茂しています。

古くから人の手によって管理され、ヤブツバキ以外の樹木を伐採することによって形成されたヤブツバキの純林。ツバキ分布調査では、約10,000本のヤブツバキが確認されています。

島民を中心に保護・活用され続け、椿油の生産・販売は地域の産業のひとつになっています。