vol.17 金川征弘さん(48)【今という点を繋げていつか線になる。】
栃木県那須塩原市生まれ。 大学進学を機に上京。バブル全盛期だった大学在学中には、オールラウンド サークルの立ち上げや政治家事務所でのアルバイトに従事。忙しくも充実した 日々を送る。 卒業後は広告代理店に入社し、今年で広告人歴も 27 周年を迎える。
◼︎20歳の時
20 歳の誕生日は、両親が結婚披露宴を挙げた割烹料理屋で両親と食事をしていま した。当時、地元栃木には頻繁に帰省していましたよ。 生まれて初めてシャコを口にして「なんだこの気持ちの悪いものは...」と思った ことを覚えていますね(笑)
◼︎バスケに興じた高校時代
ー努力の末の「大成」と、慢心がゆえの「敗北」
小中と、ずっと野球を続けていたこともあって、高校に入ってからも周りから の、「野球を続けるんだろ?」という圧力がすごかったですね。
しかし、 入学し た高校は甲子園出場経験があったことから、OBや学校関係者の期待が大きく息苦 しい空気感を感じたのです。
そんなことから 当時はもう野球に飽き飽きしていたので、入部せずブラブラして いました。
高校一年生の夏休み前に友人の勧めもあって一緒にバスケ部に入ることを決め、
そこからは猛練習でしたね。初心者だったこともあったのでとにかく必死。
粉骨砕身の努力の末、県北の新人戦ではチーム初の準優勝を果たしました。
その後、練習試合中に頸椎骨折を経験したりと、大変なこともありましたよ。 幸いなことに、 40 日間の入院と約 2 年間のリハビリにより日常生活に支障がない状 態に回復しましたが。
そして、高校三年生の最後の試合では、シード権を持っていながら まさかの“初 戦敗退”という結果になりました。
実は準優勝を成し遂げた後に、慢心し 真面目に練習をしなくなりました。新しい ユニフォームやチームウエアを作ったり、強豪大学の掛け声を真似したり、体裁 ばかりにこだわっていたので、余計惨めでしたね(笑)
「慢心」って怖いなあとつくづく感じた経験でした。
◼︎中身の充実を目指した大学時代
大学は経済学部に在籍していました。
実はもともと理系で受験をしていたのですが、全て落ちてしまって。
たまたま空いていた日に、経済学部を受験し合格をもらったんです(笑)
しかも、なんと特待生として入学を認めてくれたので、二年間学費が無料に。
両親からはとても喜ばれましたよ。(笑)
ー中身の充実を目指して立ち上げたオールラウンドサークル
大学入学後はバスケサークルに入ってみたりもしたのですが、結局怪我で続けられなくなりました。
時間を持て余している時に友人とオールラウンドサークルを立ち上げました。
バスケ部の時の経験を生かして、外見ではなく中身の充実を目指した活動をしようと心に決めていて。
活動の軸は毎週土曜日2時間のテニス。そして、冬場はスキーの活動もしていました。国体や全国大会の出場経験がある子がメンバーにいたので、コンテンツ的にはとても充実していたんですよ。
難点はメンバー集め。
女の子がいれば、男の子が自然と集まってくることは明白だったので、近くの看護学校に通う女子生徒を勧誘していました(笑)
サークルを作って代表になった以上、活動にはたくさん来て、メンバーに楽しんで行ってもらいたいという気持ちが強かったんですよ。女の子には特に。(笑)
なので、活動にかかる経費はなるべく幹部である自分たちで賄うようにしていたんです。
早朝に皆で集まって日雇いの過酷なアルバイトにも挑戦していましたよ。
メンバーの中には、名門ではない自分の大学に誇りを持てない子も多かったのですが、だからこそ「俺ら主役でやろうぜ!」っていう熱い想いも湧いてきました。
—政治家事務所で秘書として働く
大学3年の後半からは永田町で政治家事務所で 私設 秘書として働いていました。
国会見学に来る方々のご案内、後援会報誌の校正、各種集会・パーティへの代理
出席などを卒業まで続けていて。
雲の上の存在だと思っていた政治家と日常的に交流をしていくうちに、 何事にも動じなくなり、 その後のサラリーマン生活で「態度デカイ伝説」 をたく さん生み出してしまいましたね(苦笑)
◼︎地域活性を広告で叶えたい
開発が進んだ町から、昔の営みが残る街 ... 小さい頃から電車に乗って旅をするの が好きでした。
でも、自分が大学を卒業する時にちょうどバブルが崩壊。
地方に残ったのは、バブル景気の傷跡となった町でした。
人影がなくなったスキーリゾートやテーマパーク
そこで生きる、生き続ける方々の需要なしに作られた施設の残骸を見聞きするた
びに、
本当に必要なのは何なのか?を考えた時に行政と民間企業、生活者を結びつけるアイデアを持つ、考えることの出来るのは広告会社だと思い、志しました。
◼︎想いとのギャップ
念願叶い、広告代理店への就職が決まりました。
当初希望していた 地方活性の事業にも従事できることになり、内定後すぐ茨城県 の担当になりました。
主に役所に出かけ行政と地域活性のための 企画提案 などを行っていましたが、 補助金頼りの企画提案 をしていくことに、だんだんと違和感を感じるようになっ ていました。
その土地で暮らす生活者の目線に立って、継続的な事業を仕掛けたい!という想
いが強くなっていったんです。でもそれは一朝一夕に出来ることじゃないって気付き一旦諦め、一般消費材の広告を手がける会社に転職しました。
◼︎有名 CD ショップの屋上でのプロモーション活動
転職した後は、主にレコード会社に携わるようになっていました。
この時に有名 CD ショップの屋上をハックして、プロモーション活動を行ったんで す。 渋谷のスクランブル交差点にある大きなスクリーン上に ゲリラ的に ライブ映像を 流して、 駅前を客席に した 演出に 自分自身もドキドキしていました。
街中には、感激して泣き崩れる女の子もいて、
頑張ってよかった!と本気で思いましたよ。
数年 後、担当していたアーティストが活動休止をするということを耳にし、 その時代ナンバー1のアーティストに成長したこともあり、
爆速で駆け抜けてきたし、「俺も一旦休もう」と思い切って退職。 三ヶ月間お休みし、 無職中に 結婚。入籍をした日に今の会社からオファーをいた だき転職しました。
◼︎これからのこと
—これからの金川さんの夢
子どもたちがやりたいと思ったことを、経済的理由で諦めてほしくないので、経済的に余裕が持てる状態を維持したいと思いますね。
自分の夢...、実は、将来のビジョンは持たない主義なんですよ。
今を生きること。今一緒にいる人を大切にすること。そうしてできたたくさんの点が最終的に繋がっていって線になる。
今の連続が大事だと僕は思うんです。
これは広告にも似ていて。
広告では基本的に、今どのように売るか?を考えます。
長いスパンで戦略を考えることはそんなに多くはないんです。
そういった意味では自分に合っているのかなと思いますね。
そして、人と人を繋げていくことも好きです。
人と人が繋がり、ビジネスが生まれる。より大きな力になる。
これは大学時代のサークル活動の影響も大きいのではないかなと思います。
◼︎20 歳の人たちへ
ご両親を大切に、という言葉に尽きます。
ご両親は、いつ何時でも見捨てることなく守ってくれる唯一の存在です。
年齢を重ねるうちに、そのありがたみを忘れてしまいがちですが、
自分の成功を自分一人によるものだと思わずに、
感謝の気持ちを忘れないことです。