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富士の高嶺から見渡せば

市民の憩いの場に出現した歴史空間、ソウル光化門広場の化粧直し

2022.08.21 10:01

政治的空間だった広場が集会・デモ禁止に

ソウル中心部の光化門広場が、一年半近くの工事が終え、8月6日リニューアルオープンした。

光化門広場といえばソウルの顔であり、かつて李明博政権では米国産牛肉の輸入に反対する市民が広場を埋め尽くし、朴槿恵政権を倒した弾劾ろうそく集会、文在寅政権では「ノー安倍・ノージャパン」の反日デモなど、数々の政治集会、大衆デモが行われた舞台だった。

ところが革新左派の故・朴元淳市長時代、新型コロナウイルスの感染拡大に伴って、広場での集会はすべて禁止され、去年3月からは光化門広場の西側はフェンスで囲まれて閉鎖され、埋蔵文化財の調査と緑地公園化が進められた。

今は、松の大木が何本も移植されて木陰をつくり、あちこちに噴水が湧き出す水の広場となり、子供連れの家族の格好の遊び場になっている。ソウル市によると、市民の憩いの場として静寂を保つため、今後は一切の集会やデモは禁止だという。

“歴史広場”としての機能が強まった

光化門広場のもう一つの顔は、歴史広場としての機能だ。広場には世宗大王と李舜臣将軍の大きな像が建っているが、世宗大王の像の裏側は地下へと進む入り口になっていて、その地下は、世宗大王の功績を称える広大な専用博物館となっている。

そして地上に敷かれた敷石の一部には、李氏朝鮮建国の年、つまり今のソウルを首都と定めた1392年に始まり、現在に至るまで一年ごとの年号と、その年の主な出来事が刻まれている。いわば、敷石に刻まれた年表が一直線に延々と続いている。この年表自体は、リニューアル工事前にも広場にあったことは知っていたが、今回、はじめて見て驚かされたのは、その年表の部分が一本の浅い溝になっていて、1392年から日本統治が終わる前年の1944年まではそこに水が流れていることだった。広場を訪れた市民は、靴を脱いで腰を下ろし、その水の流れに足を浸して涼を楽しむ一方、足元に刻まれた歴史年表の文字を追うという構図になっている。溝に水を流すのは夏の数か月間のイベントだと思われるが、李氏朝鮮の1392年から日本統治時代までの1944年を「水に流す」という意味でないことはもちろんで、むしろ足元を見つめて、過去の歴史に立脚せよということだろうか。

今回の光化門広場のリニューアル工事では、広場の下の埋蔵文化財調査も行われ、そこで発見された朝鮮時代の水路の跡が、そのまま遺構として保存され公開されている。

一新された李舜臣像礼賛広場

そして、この広場でもっとも目立つのが高さ16.8メートルの「忠武公李舜臣将軍像」である。過去には何度か像の作り直しや移転話があったそうだが、今回のリニューアルでも国家を代表する英雄であり、すでにこの場で知られた存在だということで、残されることになった。というより、今回のリニューアルで、像の周りには新たな石碑や噴水設備が造られ、むしろ李舜臣の事績を顕彰し、その生涯を礼賛するムードが高まっている。

像の周囲には34基の黒曜石の石碑が並べられた。石碑には、李舜臣が全戦無敗で戦ったという閑山島海戦や鳴梁海戦など11の海戦の名前と日時が記され、李舜臣が書き残した言葉の断片23がハングルと英語で刻まれている。

その中には、「国の怨讐を晴らすまで、日本の船は一隻も帰さない。」「この怨讐(敵)どもを殲滅できれば、もはや遺恨はない。」「生きようが死のうが、国を守るためなら、私ができるすべてをやる。」「この剣をもって天に誓えば、江山(川と山)が震え、剣をひと振りすれば血が江山を染める。」「死を求める者は生き、生を求める者は死ぬ」「私が大海に誓えば龍が動き、山々に誓えば山川草木が理解してくれる」「生きようが死のうが、国を守るために、私ができるすべてをやる」などとある。

“ソウルの顔”広場を利用し何を伝えたいのか

敵意をむき出しにし、「怨讐(ウォンス)」や「殲滅(ムチルダ)」など激烈な言葉が並ぶ石碑の向こうでは、ずぶぬれになった子供たちが噴水と無邪気に戯れ、それを親たちが幸せそうに眺めている。なんともシュールな風景ではある。

この石碑を作り、これらの言葉を選んだ人たちは、何を意図したのだろうか。そして、これを見た外国人観光客は何をどう感じただろうか、気になった。

そして、市民の憩いの広場に新しく生まれ変わったはずの光化門広場は、歴史や民族の英雄を政治目的のために利用する、相も変わらぬ政治空間だった。