縄文遺跡と シュメール文明
https://blog.goo.ne.jp/johmonkinseistar/e/8696a9f7721ba08cc8d10a1238f3ed76 【縄文時代の暦はシュメール文明に先行していたのか】より
そうなると、シュメール文明と縄文人の関係はどうなるのでしょうか。
というのはシュメール人たちは、数多くの謎を持っていたから。
シュメール人はどこから来たのか分かっていない、発展してきた歴史経緯が分らないというから。
それは特に噴火により九州から逃げ出した縄文人と関係するものなのだろうかということ。
縄文時代早期と前期の境目の時期に、九州南方の鬼界カルデラが大噴火を起こし、日本列島全域に火山灰が降り積もるなどの被害で西日本は壊滅的だったようです。
7300年前の鬼界カルデラ噴火の時は緊急的に海外に避難したようでだが、5500年前の阿多カルデラ噴火の時は海外で土器が見つかるなど、九州から計画的に海外に移住しているようであるという。つまり、前期までに縄文人は外洋航海の技術を得ていて、広く拡散できたと考えられている。当時としては縄文人は世界トップレベルの高度文化を保持していたようで、噴火に追われて列島内はもちろん、遠く中東までも拡散して行っていたと考えても良いようだ。縄文人はマダガスカルまで行っていたと云われているから、遠洋航海していた可能性はあるのでは。 因みにシュメール文明の立地は九州とほぼ同緯度にあり、移住先としては、気候的に最適と感じるこの地まで探し求めて行ったのだろうか。
シュメール人は、膠着語を使っており、周囲からは孤立した文化を持っていたようで、日本人が縄文人を祖先として、言語や文化を継承しているという前提の元に、シュメール人と縄文人は、かなり近い文化を持っていたものと推察する。
シュメール人は暦を世界で最初に作ったとされているが、縄文土器に残されていた記録から、縄文時代前期の縄文人は、二至二分の暦を開発していたと考えているので、この暦の知識からシュメール人が二至二分の暦を進化させ、更に都市文明の中では、暑い昼よりも涼しい夜が好ましく、月の周期を取り入れることで、都市での人間の生活に便利な太陰太陽暦を作ったのだろうと考えている。
一方田園にあった縄文人は二至二分の暦から、金生遺跡の縄文人は四立八節の暦を考案することで、さらに季節感を明確に捉えて、狩猟農耕に便利な二十四節気の暦を開発することで、シュメールの都市生活の暦とは対照的な暦に進化をさせたと考えている。
図に縄文時代の暦開発の経過を追加しました。
図はお借りしました
引用します---
そんなシュメール人たちは、数多くの謎を持っていました。
どこから来たのか分かっていない
古代メソポタミア文明を、さらに遡るとウルク文化に行き着きます。
ウルク文化の初期は紀元前3900年とされていて、その後文明が栄えて行くのですが、シュメールの言語や文化は、周囲の地域とは全く違っていたものでした。
近隣の文化などとは、多少の共通点が見つかりそうなものですが、シュメール語は独立しています。
もともと住んでいたのではなく、移住して来たとされていますが、俗に言う「シュメル人問題」「シュメール問題」とされていて、どこから来たのか不明です。
また、一説にはキエンギ地域に住み着いたとするのは、東から来た人ともされていて、モンゴロイドであった可能性もあります。
ですが、実際にどうだったのかは謎のままとなっています。
どんな民族だったのかも分かっていない シュメール人たちがどのような生活をしていたのか、どんな人生を送っていたのかなど、詳しいことまでは分かっていません。
さすがに、最古の文化だけあって、物質的に風化してしまった部分も多くあるかと思います。
絵文字を作ったとされていて、文章での記録が残っているから、多少読み取ることはできていますが、やはり全貌までは難しいようですね。
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メソポタミア南部に登場したシュメール人は、極めて謎の多い民族です。
この地域では、紀元前8000年頃には原始農耕が始まっていましたが、シュメール人はそこから発生した民族ではなく、いきなり何処からかやってきた人達なのだそうです。そして、その後何処に行ったのか不明なのだそうです。
彼らの楔形文字は、周辺の土着の民族とは明らかに違う言語であり、民族系統は未だに不詳です。
興味深い事に、このシュメール語、実は日本語と同じ膠着語に分類されている
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シュメール文明は海洋民族によって築かれたといわれていますが、それはシュメール語の7割が漁労の言葉が含まれるからと言われているそうです。シュメール文明はメソポタミア平原を流れるユーフラテス川とチグリス川をまたぐように広がっていますが、元々この平野にはウバイド族という勤勉で規律正しい農耕民族が住んでいて、合流して都市を築いたようですね!主に海洋民族を中心にシュメールのことが書いてありました。
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さらにいうと、シュメール語は、どのヨーロッパ系語族とも異なる構文を持ち、このため一般に言語系統が不明とされています。
ではシュメール語がどのような構文を持つのかというと、なんとこれが日本語と同じ膠着語であり、日本語と同じ主語・目的語・動詞という順番で話されるSOV型言語です。しかも日本語と同様、冠詞がない。
シュメールはおよそ7?8千年前からはじまったとされますが、残念なことに、シュメール以前の文明の痕跡、もしくは、その痕跡がシュメール文明に至るまでの過程を証明する遺跡がありません。
逆に日本では、およそ4万年前からの文明の蓄積が確認されていることにくわえ、日本人(倭人)が海洋民族であれば、船に乗ってどこまでも行くし、着いた各地に文明をもたらしたとしても、何ら不思議ではないし、そのように考えることが合理的だからです。
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シュメール語
【20世紀になって欧米考古学者、言語学者、オリエント史学者によって解読され始めた】
シュメール人の文字と言語は、次のようなことが明らかになっている。
【1】シュメールの楔形文字は、漢字の形成とほぼ同じ過程を経て成立した
【2】シュメール文字は現代日本語の漢字仮名まじりと同じ構造をもつ
【3】シュメール文字は子音のみならず母音をも記す
(シュメール周辺のセム系言語の文字は、子音のみを表記する)
【4】シュメール語は膠着語である
※ 日本人は漢字仮名まじり文章で生活しており、日本語の文法は膠着語(にかわで接着するの意で、テニヲハの接着語によって単語がぺったりとくっつくさまを示す)系統に属する。さらに日本語は、母音が非常に強調される特色がある。
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縄文文明とメソポタミア文明の關係は?https: //ameblo.jp/ooyashima1208/entry-12604455544.html
…四大文明の中でも最初に出現したとされるメソポタミア文明であるが、新石器時代に突然出現したことになっているのは本當なのか!?と思っていたら、最近の研究では、メソポタミア文明に先立ち、ウバイド文化というものが、メソポタミア地方にはあったようだ。おおよそ七千年前、日本では縄文時代中期頃、灌漑農業、彩色土器、銅器等を特徴とするウバイド文化が、始まったという。それが進化發展して、メソポタミア文明になったようだ。これら、ウバイド文化からメソポタミア文明の担い手は、シュメール人とされる。このシュメール人が、それ以前、どこでどのような生活をしていたかは、不明とされているようだ。
さて、ここで気になるのが、ウバイド文化よりもさらに前の時代から、我が國で榮えていた、縄文(時代)文明との關係である。縄文文明は、一万数千年前に始まった、世界最古の土器文明だ。また、縄文時代に作られた土偶と、シュメール人が作った偶像との類似性を指摘する聲もある。--中略--
縄文文明とシュメールすなわちウバイド・メソポタミア文明との關係性は、より深く研究されていい気がする。同じ種族が移動したのではないかもしれぬが、何らかの形で兩文明の交流伝播があった可能性もあるのではなかろうか。
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このシュメール人が謎の民族とも呼ばれることがあるのは、その言語的な民族系統が現在でも不明なことにあるのかも知れません。紀元前2,600年の楔形文字が解読されたことにより、かつて古代にシュメール語が使われていたことが発見されました。この楔形文字が刻まれた粘土板の出土品は、紀元前3,400年のものまで時代を遡ることができます。
この古代シュメール語は分類上は膠着語というもので、単語の前後に接頭辞や接尾辞を付けることで変化させるものです。日本語もこの膠着語なのですが、シュメール語はその膠着語の分類のなかでも同じ系統と考えられる言語が現在も発見されていません。
シュメール人の都市国家圏には、アラビア半島から北アフリカにかけての地域で話されているセム語を話す人びとも住んでいたとされますが、シュメール語とセム語には系統的な関係はないそうです。つまりシュメール人とは、現在この一帯に住むアラビア人とは異なる系統の言葉を話す人たちだったということになります。
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メソポタミア南部に登場したシュメール人は、極めて謎の多い民族です。
この地域では、紀元前8000年頃には原始農耕が始まっていましたが、シュメール人はそこから発生した民族ではなく、いきなり何処からかやってきた人達なのだそうです。そして、その後何処に行ったのか不明なのだそうです。
彼らの楔形文字は、周辺の土着の民族とは明らかに違う言語であり、民族系統は未だに不詳です。
興味深い事に、このシュメール語、実は日本語と同じ膠着語に分類されている
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発達した天文学・太陰暦
天文学が発達したのは、作物を栽培するにあたって季節や時間を知る必要があった事、またチグリス・ユーフラテス川の氾濫の時期を知る為に必要なことでした。 また、メソポタミア地方の夏は暑く寝苦しいので、人々は涼を取るために、夜は家の屋上で寝ていたので、星空をよく観察できた事にあると思います。
先ずは、1日ですが太陽が昇り、沈み、また昇るのが基本の単位であります。 夜空で最も大きな星は月であり、満月になったり三日月になったりと、変化が大きくあるので、シュメールの人々は、月の変化で時間を知る暦(こよみ)をつくりました。 これが太陰暦です。
新月・上弦の月・満月・下弦の月が一つのサイクルとなり、その変化の間が約7日、これが4回あるので、一ケ月は28日です。 そして、それぞれの日に守護星をつけたのが、日(太陽)、月(月)、火(火星)、水(水星)、木(木星)、金(金星)であり、この7日を一つの単位とするのが一週間で、上記のような曜日という物が考え出されました。
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【ウバイド人が原住民】
メソポタミア地方での最初の農耕はザグロス山脈(北イラクとイランの間)の山麓で雨水に頼る原始農耕(天水農耕)が10000年前には始まっていたが、8500年前に中部メソポタミアで灌漑農耕が発生しミニ氷河期が始まる7900年前には最初の定住跡が確認、7000年前にはバビロニアの乾燥地帯で灌漑農耕が定着し安定した収穫を得るようになった。ウバイド期と呼ばれるこの時期には既に大きな町が成立し、原シュメール人がメソポタミアに進出する前にウバイド人が彩陶土器による発達した文化を形成していた。長頭のウバイド人はセム族ともシュメール族とも異なりこの地に最初に定住した黒人の一派ではないかと思われる。その人口は2500人から4000人と言われており、すでに原シュメール人が来る前から灌漑農耕を行なっていた形跡がある。
【シュメール人の起源】
原シュメール人がメソポタミアに到達したのは6500年前という説があり、戦争の痕跡がない事から先住のウバイド人と平和的に混血融和してシュメール人を形成したと思われる。神話体系の構築を通じて自らが神官となり、次第にウバイド人を配下においていった。
灌漑農耕はウバイド人が作り出したという説と原シュメール人が持ち込んだという説が有るが、灌漑農耕を用いなければ不可能だった南メソポタミアに都市を作ったのが6300年前以降という年代からして既に天文的知識を有し、土木技術をもっていた原シュメール人がウバイド人の技術を吸収しそれを拡大した可能性が高い。その後、6000年前頃にはシュメール人はすでにアフリカやイラクとの交易網を拡大しており、これをウルク・エキスパンションと呼んでシュメール人が交易を主体として発展していった事を指す。交易の発展は銅鉱・木材・石材・貴石・瀝青を輸入し、穀物・ナツメ椰子・繊維品を輸出していた。この頃温暖化はピーク、海面は急上昇した。
ベヌー鳥の逸話を連想します。
https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/8120836?categoryIds=5803418 【不死鳥・孔雀・鳳凰・ベヌー鳥・火の鳥】
https://www.youtube.com/watch?v=RJ7JxpXeWig
シュメール文明は縄文人が創ったのか?
文明の起源の謎に迫ります・シュメール文明も縄文人が創ったというお話です。
いつも、世界最古の文明はこの日本から発祥したと言っているのですが、今回はよりもっと深く掘り下げていきたいとおもいます
そして、まずシュメール文明というと有名な話は人類起源説ですよね
この説が始まったのは1849年にシュメールの遺跡で14個のタブレットが発見されてそれを解読したのが、ゼカリアシッチンです。ゼカリアシッチンはパレスチナ生まれのユダヤ人です。シュメール語文献を解読できる学者は全世界200人足らずという中で、最も有力な学者としてその名を挙げられています。
その解読により、人類の起源にはアヌンナキという宇宙人が絡んでいることが解かりました
シュメール文明とは紀元前約3800年前 人類最古の文明と言われています
現代ではイラクが位置するところにあったんですけど最古の文明なのにも関わらず突如現れてしかも高度なな技術を持っていたんですね
都市国家、医学、60進法、天文学、くさび形文字、きかがくなどがあげられています。
そして、何故急にそのような技術を持っていたのかという謎があってそこには、アヌンナキという宇宙人の手助けがあったからじゃないかというのがアヌンナキがシュメール文明を創ったと言われている説になります。しかし、ではアヌンナキが人類の文明の起源だとして、それが41万年前の物語になってくるのです。
シュメール文明の起源は紀元前約3800年前になります。
その空白の時間はいまだに埋められてなく、突如、シュメール文明は出来上がったと言われ、謎なのです。
しかし、最近面白いニュースが出てきました。
それはダーウィンの進化論が崩壊したという話です。
: かつてない大規模な生物種の遺伝子検査により「ヒトを含む地球の生物種の90%以上は、地上に現れたのがこの20万年以内」だと結論される。つまり、ほぼすべての生物は「進化してきていない」
「ダーウィンの進化論」について、それが、ついに「全否定」される可能性が強くなったことについての報道です。
これは、アメリカの科学メディアに掲載されていた記事をご紹介したいと思いますが、この研究の方法もすさまじいものです。かつてなかったもので、誰も想像さえしなかったものです。
それは、10万種以上の生物種の DNA と、アメリカ政府の遺伝子データバンクにある 500万以上の DNA の断片を「徹底的に調査した」というものなのです。
そこからいろいろとわかったのですが、最も衝撃的だったのは、現在地球にいる大半の生物(人間を含む)が地球上に登場したのは、10万年〜20万年前の間だとわかった。そして、「中間種は存在しない」。ことでした。
その部分を記事の翻訳から抜粋しますと、次のようになります。
おそらく、この研究の最も驚くべき結果は、人間を含む現在地球上に存在する生命種のうちの 10種のうち 9種が 10万〜 20万年前に出現したことが明らかになったことだろう。
これはつまり、この地球の生物の 90%以上は「それ以前への遺伝子的なつながりがない」ということでもあり、もっといえば、・地球のほとんどの生物は 20万年前以降に「この世に現れた」のです。
そして、ここからは古代日本の話になっていきます。
熊本県にある、押しと石の丘にある巨石には、シュメール文字が刻み込まれています。
そもそも、シュメールとは、スメラミコトのスメラからきている語源だと言われています。
現在、よく聞く説では、シュメール文明は日本の起源だったのではないかという説が一般的にありますが、実際はどうでしょうか?
この押しと石に刻み込まれているシュメール文字、そのくさび形文字はこの日本からメソポタミアに伝播したものだったのではないでしょうか?
つまり、シュメール人が日本に渡来してきて押しと石にシュメール文字を刻んだのではなく、日本で使われていたくさび形文字がシュメールでも使われるようになったということです。
シュメール文明が起きた紀元前3800年前よりもはるか以前に、この日本では高度な文明が発展していました。
それは、以前の動画でも流してきているように、阿蘇の大噴火以降にできた日本の古代文明は、阿蘇の大噴火を防ぐエネルギー技術を駆使して文明を築き上げてきました。
その技術の一つに、古代日本ピラミッドがあります。
まさしく、日本の巨石文明です。
巨大な磐座を自在に配置して、石組みを組み、山に文明を発展させていました。
古代日本のピラミッドが造られたのは約23000年前と言われています。
阿蘇の大噴火が約9万年前なので、67000年かけて、日本の文明は高度に発展して行ったと考えられます。
古代日本の文明は巨石を操っていました。現在でも日本全国に残っている人工的な磐座がその最たる証拠になります。
そして、その巨石文明はカタカムナという超高度な宇宙的言語も操っていました。
それは、くさび形文字などとは次元が違う高度なプログラム言語でした。
日本にはいくつもの神代文字が残されています。
カタカムナという超高度な言語があったのに、それからいくつもの言語に分かれて行ったのは謎です。
縄文時代の日本の超文明は水の循環や目に見えないエネルギーも操っていました。
それは、勾玉に象徴されている、陰と陽です。陰は物質、陽はエネルギーです。
さらに驚くべきは、日本の超古代文明は巨石を組み水を循環させるための渓谷や川や滝も創っていたのです。
それは、世界のどの文明もそれらを人工的に造れる技術は持っていなく、飛び抜けて日本の古代文明のテクノロジーが進んでいたという証拠になります。
のちのエジプトのピラミッドもこの技術が伝播したものでしょう。
さらに、古代日本文明には都市国家も存在していました。
それは、古代コンクリートで山の尾根にさらに巨大な遺構物をつくり、または麓には壁のように造形して住居スペースをつくっていたのです。
そこには、人々が集合して暮らしており、水路や畑の痕跡も石組みで見られるのです。
縄文文明の時には、日本は巨石を操り石組みで土地のインフラをつくっていたのです。
つまり、日本のこの豊かな自然ははるか古代の日本の文明のインフラ構築により造られた遺構物そのものなのです。
そして、何よりこの日本の古代文明はかなり高度な天文学を持ち合わせていました。
それは、縄文式ピラミッドや各地の磐座や神社などにも残っている痕跡ですが、日本の古代遺構物は、ラインで綺麗に結ばれているのです。
ピラミッドにも、方角をしっかりと示した方位石や夏至、冬至を観測する石や磐座は全国各地によくあります。
古代縄文人は日本から世界各地に渡り、様々な技術や文明を伝播していたという痕跡も最近では見つかっています。
アメリカのオレゴン州には多くの洞窟が存在します。
そんなオレゴンの洞窟の中で、最も有名な洞窟・フォートロック洞窟。
そこには1万年以上も前に人類がここで暮らしていた痕跡があるというのですが、そこでなんと日本の縄文人のわらじが発見されたのだというのです。
また、イギリスのストーンヘンジも縄文人が造ったとされる説もあります。
実際に日本にはいくつものストーンヘンジや環状列石、メンヒルなどが残っています。
さらに、日本の巨石以降の技術はスケールがでかいのです。
例えば、熊本の不動岩です。それはまるで山そのもの。高さ約80メートルもあり、前不動、中不動、後不動と3つも巨大な大岩があります。
それらも人工的に造られた痕跡があります。
その痕跡は、表側は1枚岩に見えるのですが、裏に回ると巨大な岩を組んでいる様子が見えるのです。
https://ameblo.jp/yukio0966/entry-12197381275.html 【縄文人のDNAの謎「世界の文明は日本から始まった」】より
男性の染色体DNAは、「XY」で、女性のミトコンドリアDNAは「XX」です。
男性は「Y」ですから、俗にヤッピーDNAと呼ばれています。
女性の染色体は、「X」DNAですね。
そして男性と女性が交配して子供が生まれた場合、産まれた子供が男の子なら必ず父親の「Y」DNAを継承し、女の子なら母親の「X」DNAを継承するようになっています。それが男女の染色体DNAの違いです。
だから、20年位前のアメリカの女性科学者が、母親のDNAだけを追いかけていった結果、一人のアフリカの女性にたどり着き、すべての人類の「母」はアフリカの「イブ」であると名づけられました。
ところで歴史で学んだ世界最古の文明のひとつはメソポタミア文明(後のシュメール文明)で、現在のイラク、クウェートに位置していて(現代のユダヤ人)、とても高度な天文学、数学、都市の古代遺跡などを持っていたことが分かっています。
シュメール文明は今から約5000年前に突然として現れた文明です。と言うのはあれほど高度な文明だったにもかかわらずその周辺から、高度な文明の遺跡のかけらがただひとつ発見されていないからです。
メソポタミア文明は、文字が無かったにもかかわらず約1000年繁栄しその後、いきなり忽然として文字を持ったシュメール人が現れ超高度な文明が突如築かれました。
特に天文学は優れていて太陽とその惑星を粘土板に図にして記しています。
火星や金星、木星、土星などの他の星ぼしが太陽を中心に公転している事を粘土板の図に描いて知っていたのです。(何故か地球だけがその図には描かれていません)
さらに天王星や海王星、冥王星の三つの星は肉眼では発見することができないのに描かれています。
天王星や海王星、冥王星が発見されたのは16世紀以降です。
どうやって、シュメール人はその知識を取得したか謎のままです。
シュメール人は「文字」を持っていましたから粘土板にいろいろ書き記しています。
それによると、天から舞い降りてきた神(宇宙人)アヌンナキの子孫であるなどと解読されています。
ここまではミステリー好きの皆さんは知っていると思います。
これらの話は、確かにミステリーで面白いのですが宇宙人が出てくると、う~んまたか!ってな感じでちょっと胡散臭くなります。
ところが私は新しいミステリーを発見しました。
それが縄文人です。
今までの縄文時代の歴史は1万年近く続いて、その後大陸から2300年前に弥生人が訪れて弥生時代が始まったというシナリオです。(ちなみに天皇家は初代神武天皇以来2700年の歴史を持つと、公式には言われていますが、竹内文書などでは数万年続いていると記されています。)
しかし最近、今から1万6000年前の縄文式土器のカケラが東北で発見され、世界最古の文明の走りは縄文時代であることが証明され1万6000年よりもっと古くから縄文文明が存在したことになります。
四大文明のように大きな都市国家は形成されませんでしたが、縄文人は自然と生きた文明人です。
当時の時代、土器と言う道具を発明するには、集団生活の集落=「文明」が数千年継続しなければ発生しません。
それか誰かに教わったか?
1万5000年以前は地球は氷河期の終わりです。つまり縄文人は氷河期の間も焚き火だけでなく土器を使ってお湯を沸かし寒さをしのぎながら文化を発展させ生き延びていた事になり、どうやら2万年以前から生活していた計算になります。
縄文人と弥生人の違いは、縄文人は狩猟、採集民族であったのに対して弥生人は農耕、放牧の文明を持っていた事です。
しかし、農耕する為には森林を伐採して自然破壊を行い農地に変える必要があります。
農地を耕作したとすれば、その農地には所有権と言う権利が発生します。
最初の資本主義の原型です。
自然破壊を行わない縄文人はすばらしい知恵の持ち主だったに違いありません。
自然の恵みをそのまま受けて、権力者が土地を支配しない原始共産主義だったのでしょう。
また、縄文文明は、小規模な集団(数百名程度)がいくつも点在した文明ですが、ひとつの文明が1万年も2万年も継続した例は地球上どこを探しても存在しません。
すべての古代都市文明は数千年で滅んでいます。
縄文人は個人の所有権と支配権力を認めなかった世界唯一の人類だったのかもしれません。
青森県の三内丸山遺跡の集落の周りには、クルミの木が生い茂っていてその量から、縄文人はクルミの木を人工的に植栽して集落の周りをクルミとどんぐりの木でぐるりと囲んで森を形成して村の共有財産とした可能性が濃厚となりました。
どんぐりの実は、そのままでは渋くて食べれませんから土器で煮て渋抜き(あくぬき)を行い食べていたようです。
また魚は、頭を捨てて鯖とマグロを日干しにして食べていた事が発掘調査で分かっています。
当時の森や海は自然の幸に恵まれ、まるでアダムとイブの楽園だったようです。
本当に素朴な生活をつつましやかに暮らしていたのです。
そして縄文人のDNAが世界のどこに分布されているかミトコンドリアDNAで調べた研究は数年前からありましたが、ユーラシア大陸全般に広がっていたのです。
特に朝鮮半島が一番多く次が中国、インド、そしてヨーロッパでも多くの縄文人のDNAが発見されています。
この事だけでも大きな疑問を投げかけています。
なぜなら遺伝子は、交配によって子孫にしか伝達しません。
つまり、世界中に「固有の種」の遺伝子が伝播されるには、おそろしく長い時間がかかるのです。
おそらく数千年では足りなくて数万年の時を必要とします。
そして縄文人は間違いなく大和の国(日本列島)の固有の種です。
縄文人がそんなに広くいつの時代に大陸に渡り子孫を残したのだろう。
ネアンデルタール人がアフリカ大陸から、ユーラシア大陸に渡りヒトと交配し、子孫を残し始めたのは10万年前です。
日本人の平均12%は縄文人のDNAを引き継いでいます。
アイヌ人と沖縄人は2倍くらい多いそうです。
最近、大分県の大学の教授が今度は、縄文人のヤッピーDNAから縄文男性の分布図の研究を行っております。
「Y」染色体DNAは当然男性の家系図を表していますから、縄文男性が世界のどの地域に広がっていったのかの調査です。
その結果驚くことに、なんと多くは3ケ所に限定集中していて他の地域では殆ど発見できなかったのです。
その3ケ所は、現在のイスラエル(1948年国家樹立の他民族国家で多くはユダヤ人)、中国内陸部、インドの南端です。
この事から推定すると男性だけで日本を出発し、大陸に着くと、辿り着いた集落に一定期間滞在定着して子孫をつくり、産まれた男の子たち全員を引き連れて、また旅に出かけた事になります。
どういう分けか産まれた縄文人ハーフの女の子は旅に連れて行かなかった事になるのです。
村で産まれた縄文人ハーフの遺伝子を引き次ぐ半分は女性ですから縄文「X」DNAは、その集落で広く繁栄してして残され、大陸中に広がっていき、縄文男性の「Y」DNAは、痕跡を残さずさらに旅を続けていった事になります。
その結果、「X」DNAと「Y」DNAの分布の広がり方に差がついたとしか思えません。
縄文人は、何か目的を持って男性しか耐えられない過酷な旅を行ったのでしょうか。
その旅の目的とはいったい何だったのでしょうか。
では、縄文人はいつの時代に、日本からユーラシア大陸に旅に出かけたのでしょう。
シュメール文明は日本の縄文人(大和民族)が築きあげたのでしょうか?
その答えはまだ出ていません。
ただし「日ユ同祖論」=(日本人とユダヤ人は同じ祖先を持つ)は、ご存知でしょうか。
古代ユダヤ人の文明と大和民族の文明があまりにも酷似しているからです。
古代のヘブライ語と日本のカタカナは半分くらい重なりあいます。(日本の文字の始まりはひらがなではなくカタカナです、漢字はその後中国から導入されました)
また天皇家の菊の紋章やその他のヘブライの紋章もピッタリ酷似しています。
7月1日から一ヶ月間にわたって行われる京都の祇園(ぎおん)祭りもユダヤでは「シオン祭り」と呼ばれ同じ日から行われます。
そして、神輿(みこし)として担ぐ2本の棒に乗せた長方形の箱も「失われたアーク」の形態と一緒です。
この単なる長方形の箱の形をした祭りの「神輿」は、あまりにも単純すぎて世界のどこに行っても「祭り」では見かけません。
そのほかにも数々の類似点が見つかっています。
だからイスラエル政府は、「失われたアーク」を探しに日本に調査団を派遣したほどです。
ここで興味深いのは、イスラエル民族とユダヤ民族には時間差があります。
同一の単一民族ではなく時間と距離を隔てて宗教などが入り混じりイスラエル民族から「ユダヤ民族」が出来上がったのです。
そういった事を考えると、どうやら最低でも紀元前2000~3000年以前に縄文人はエジプトかイスラエル地方にたどり着き同化して、そこでユダヤ人として文明を開化させた可能性があります。
そして旅の大多数の本隊は、日本に戻ってきたのではないでしょうか。
それも何世代にも渡って直近では、弥生人として帰ってきたり、キリスト誕生後に戻ってきたり数千年間(または数万年)縄文人は、大和の国から大陸を行ったりきたりしていた可能性が見えてきました。
ユダヤ12氏族の内10氏族が出て行ったと聖書に記されています。
その10氏族がどこに行ったのか記録がありませんが、10氏族は縄文人とのハーフ、クォーター、その又子孫で編成された一族で案外日本(大和)に戻った可能性だってあります。
ですから、「日ユ同祖論」は正しいのかも知れませんが、もっと正しい表現はユダヤの情報が大和の国に正確に頻繁に伝わっていたと言うことです。ユダヤの情報だけでなく大陸中の情報収集していた可能性も想像できます。
これはあくまで「日ユ同祖論」だけを前提とした話で、もっと以前のシュメール文明に縄文人が貢献した可能性だってあるし1万年前に大陸に出かけていた可能性だってあるのです。
「日ユ同祖論」などわずか2000年程度の浅い歴史のなかでの話しです。
もしかしたら2万年前の氷河期に日本海を渡っていたかもしれません。
渡っていたどころか、数万年間頻繁に往復していたのかもしれません。
縄文人のDNAの分布図を見ると、私はむしろそのほうが強い可能性を感じます。
2万年以上前に文明を手にした縄文人は、好奇心が強く可能性を求めて大陸に旅に出る決心をしました。
村では狩猟の数週間の「狩の旅」は男性だけで行い、女性は村の周りの森からクルミやどんぐりを拾って村から離れない習慣があった。
だから大陸の「旅」も男性だけで行うことになった。これは狩猟民族としては当然に考えられることです。
特に村の周りに森を人工的に増やした採集民族の縄文人の場合、女性は殆ど村の中にある家のそばから離れることは無かったはずです。
縄文人にとって「旅」は男のものだったのです。
ネアンデルタール人が10万年前にアフリカからユーラシア大陸に渡ったように縄文人も「長い旅」に出かけました。(ただし文明を持っていなかったネアンデルタール人はアフリカに戻っていません)
1万6000年以上前に文明を持った縄文人が「長い旅」をしたなら、世界四大文明のすべてに、縄文人(大和民族)が、関与していてもおかしくありません。DNAの広がり方にも、合理性のある説明ができるのです。
人間の歩く速度は、時速4Kmです。縄文人は背が低かったのでもうちょっと遅かったかもしれません。
それにしても、一日に8時間歩いたら30Kmは進めます。(ちなみに世界の軍隊の行軍は、武器、弾薬、食料などをゴッソリ持ち運んで一日20Kmとなっています)
仮にイスラエルまでの道のりを1万8000Kmとしますと、平坦な道なら毎日歩けばわずか600日で朝鮮半島までたどり着いてしまう距離なのです。後は日本海を渡るだけ。
3万年前は、日本と大陸は、千島列島を通じて陸続きだったらしいです。
毎日歩いたわけではないでしょうから5~6年あれば日本に帰国でき、狩をしたり旅の途中で立ち寄った集落から食料さえ調達できれば大した事ではありません。むしろ日本海を渡る危険のほうが大きかったでしょう。
だから縄文人にとって大陸に渡る行為は、帰ってくる事を前提とした「旅行」だったのです。
日本からイスラエルまで行く時の未知の旅は、大変な苦労を伴いひとつの集落に10年とか20年とか定着し現地人と交配して子孫をつくり、付近の地理的条件を調べたり、次に滞在する集落の様子を研究したりして、またもや狩猟民族特有の男性だけで「長い旅」を続けたと思います。「Y」DNAの痕跡を見ると決して3ヵ所以外では土着して永住はしなかった事になるのです。
一方ネアンデルタール人は、10万年前にアフリカ大陸からユーラシア大陸に渡ってきて各地に土着していきました。
つまり縄文人(大和民族)は、何故か滞在型定着から土着せず赤ちゃんを残した男性だけを引き連れ、また数年の「長い旅」を自由に何度も繰り返し、大陸中に広がり縄文人のミトコンドリアDNAを撒き散らしたのでしょう。
なぜ男性だけの「長い旅」を長期間、何世代も交代しながら繰り返し行ったのでしょう。
それもしょっちゅう大和の国に帰国して。
「X」DNAと「Y」DNAの分布の差は、そのことを物語っています。
しかし、大陸の各集落の間では交易があったはずで、縄文民族のことは皆知っていましたから(女性子孫がいたわけで、その子や孫は男でも女でも縄文人のDNAを受け継いでいて文化の進んだ縄文人の事は語り告がれていたはずです)、帰りの旅はそれぞれの集落に立ち寄り、食料を分けてもらいどんどん帰路の旅を続けて集団で日本まで帰りついて世界の文化や歴史、宗教を持ち帰ったのではないでしょうか。それも何回も何世代にもわたって。
これは100人単位の規模の大集団移動で、数名程度の移動は頻繁に行われていて大和の国にユーラシア大陸の様子など、報告しに帰国していたのかもしれません。それとユーラシア大陸全土に縄文人(大和民族)の情報ネットワークが出来上がっていた可能性だってあります。
そして土地を耕作して農地に所有権を発生させたら、必ず部族間で武力衝突して巨大な統治権力が発生することを現実に見て階級社会と税金が発生し国が滅ぶ事を覚え、その事を伝えたのではないでしょうか。
私が抱いたミステリーは、日本人の祖先がユダヤ人ではなくユダヤ人の祖先が縄文人(大和民族)であるということです。と言うかユーラシア大陸の多くの民族は四大文明が発祥する大分以前から、縄文民族のDNAを受けると同時に縄文文明も伝達されて大陸に拡散していったと言うことです。
それは二つのことが証明してくれます。
まず文明の発祥が縄文人は少なくとも1万6000年以前から発生していて、一方ユダヤ人を含むヨーロッパ人はエジプトやインダス文明まで遡ったとしても5000~6000年と3倍以上の開きがあります。
集団移動にはさまざまな道具が必要でそのひとつが1万6000年以上前に作られた縄文式土器だったのです。皮の袋では煮炊きができません。保存食料を煮炊きができなくては、「長い旅」を続行することは、不可能です。
もうひとつはネアンデルタール人のDNAです。
ネアンデルタール人は、アフリカからヒトよりも早く(10万年前)ユーラシア大陸に渡りユーラシア大陸全体に広がったホモサピエンスの仲間でヒトの亜種であり種の下等種類の事を指し、現代人類とネアンデルタール人は、同一種です。
だから、交配することによって子供が生まれるのです。
ユダヤ人も含む欧州人には、ネアンデルタール人のDNAが多数発見されています。
ところが、おかしな事に現代の日本人にはネアンデルタール人のDNAが51%も見つかっています。
しかしアフリカ人には、ネアンデルタール人のDNAは見つかりません。
つまり、ユーラシア大陸の一部の欧州人が縄文時代に日本に入り込んできたならばネアンデルタール人(3万年前に滅んでいます)のDNAは日本では、わずかしか発見されされないはずです。(ネアンデルタール人は日本列島には住んでいませんでしたから)
しかし人口の半分にあたる51%ものネアンデルタール人のDNAが日本人に含まれていると言うことは、逆に縄文人が数万年間ユーラシア大陸に積極盛んに出て行き、他民族と交配を行い、また日本に数多くの複数回、頻繁に何世紀にも渡って戻ってきたと言うことになります。
この二つの論点から地球最初の文明は日本から始まったと私は推測しました。
では、2万年もの大昔、もっと以前かもしれない時代の縄文人はどうやってアクセサリーなどを身につける文明をせまい日本で開花させたのでしょうか。
超古代遺跡と呼ばれる謎の巨石文明都市でさえ、古いものでも放射性炭素年代測定法で1万3500年前と推定されています。しかも彼らは一民族で数世紀以上にも渡る「長い旅」をした痕跡がまだ発見されていません。
南米ペルーのマチュピチュの人骨とエジプト人の人骨のDNA鑑定を是非行いたいものです。
謎の多いピラミッドのエジプト文明もメソポタミアとほぼ同じ時代の約5000~6000年、以前の頃です。
ネアンデルタール人の10万年前の「放浪の旅」から比べたら赤ちゃんの歴史のようなものです。
2万年前に石や骨を削って耳飾りをつけていた縄文人。
氷河期を乗り越えて文化の継承を行った縄文人。
男性だけでユーラシア大陸を自由に旅した縄文人。
小さな島国、「日本」から地球の文明の夜明けがなぜ始まったのでしょうか。
なぜ男性だけで旅を繰り返し行い各地に土着せず日本に帰ってきたのでしょうか。
土器、土偶は粘土を固めて焼いて作ったものですから数万年も保存されることはありません。土に同化してしままいます。
つまり縄文式土器が10万年前に存在したとしても、発見される可能性はゼロに近いのです。
一方世界各地の洞窟で見つかった壁画は、放射性炭素年代測定法で6万年前のものが発見されています。
しかし壁画が残っていても、文明をもっていた証拠にはなりません。
一体縄文人はいつの時代から文明を花咲かせ大陸に渡っていたのでしょう。
ロマンですねー。。。