Okinawa 沖縄 #2 Day 227 (10/12/22) 旧中城間切 (11) Minamiuebaru Hamlet 南上原集落
旧中城間切 南上原集落 (みなみうえばる、ミナミイーバル)
- 南坂田原公園
- ビジュルモー (賓頭盧毛)
- ハンタ道 (崖道)
- 伊集への道
- 南上原糸蒲公園
- 糸蒲寺 (イトカマデラ) 跡
- 糸蒲の塔
- 合同遥拝所 (ウトゥーシ)
- 和宇慶への道
- 東太陽橋 (アガリティーダバシ)
- 南上原のユクヤー
- 奥間への道
そろそろ天気も安定してきたので、中断していた中城村の集落巡りを再開する。前回までは中城湾の海岸沿いの集落を巡ってきたが、今日から何回かは丘陵の上の集落を巡る。首里迄坂を登り、そこから西原町の翁長、上原を通り、中城村の南上原に入る。翁長集落の残っていたスポットを見終わって南上原に入る。
旧中城間切 南上原集落 (みなみうえばる、ミナミイーバル)
南上原は、中城村の南西部の台地上に位置し、北は北上原、西は宜野湾市、南は西原町に接する。西側には1979年 (昭和54年) に琉球大学が首里から移転し、東側は1994年 (平成6年) から区画整理事業が行われ、中規模商業施設や住宅が広がり、人口が急増し市街化が進んでいる。 下の写真は北上原から見た南上原の様子。今まで那覇市や浦添市、宜野湾など200以上の集落を巡ったが、この様な街並みは初めてだ、多分沖縄ではここだけだろう。
南上原は、もともとは奥間に属していた奥間上原 (イーバル) 屋取だった井水原 (イスイバル)、北坂田原 (キタハンタバル)、新田原 (アラタバル)、山内原 (ヤマウチバル)、と津覇に属していた津覇上原 (イーバル) 屋取と呼ばれた厚生原 (コウセイバル)、石橋原 (イシバシバル)、中坂田原 (ナカハンタバル)、竹口原 (タケクチバル)、更に和宇慶に属していた和宇慶上原 (イーバル) 屋取だった南坂田原 (ミナミハンタバル、一部)、葦山原 (アシヤマバル)、伊集だった南坂田原 (ミナミハンタバル、一部)赤森原 (アカモウバル) の11の小字から成り立っていた。
1965年 (昭和40年) に、当時首里にあった琉球大学の移転計画が出され、この地が移転先に選ばれた。杣山だった村有地も1969年 (昭和44年) に売却され、1975年 (昭和50年) に移転整備工事が開始、1979年 (昭和54年) に農学部の移転し、1984年 (昭和59年) に附属病院の移転で全学部の移転が完了した。琉球大学が移転してきた事で、北西部の村有地も1977年 (昭和52年) 頃に払い下げられ区画整理事業により住宅地となっている。この琉球大学の移転により、南上原では周辺道路の整備やバス路線の新設、琉球大学の附属小、中学校が設置されるなど、文教地区として発展して行くことになる。
現在の南上原の人口は中城村総人口の40%を占めるまでになっている。
南上原は明治以降に行政区となった屋取集落なので、全体でまとまった村祭祀は存在しない。移住してきた帰農士族のそれぞれの門中で祭祀を行っていたようだ。南上原にあった拝所は、昔この地の糸蒲集落に住みその後、移っていった現在の津覇集落の拝所になる。
南上原集落訪問ログ
南坂田原公園
西原町の上原と東側に隣接しているのが中城村の南上原で、その境界あたりに南坂田原公園があった。ここが中城村のハンタ道遊歩道の起点になる。
標高150mで、南東方面、丘陵下に中城村の集落、西原町の小那覇集落、向こうには中城湾、更に向こうには知念半島が見渡せる。
ビジュルモー (賓頭盧毛)
南坂田原公園の西側にはビジュルモー (賓頭盧毛) と呼ばれた場所。かつては小高い森となっていたそうだが、現在は丘は削られて、住宅地となっている。名前の通り、昔は拝所となっちて、御願する人もいたようだ。
ハンタ道 (崖道)
1853 年にペリー提督率いる米国の艦隊が琉球に立ち寄り、そのうち12人が「琉球奥地探検隊」として沖縄本島に上陸し、那覇から北部の金武までを踏査した。一行は首里経由で西原・中城・越来・美里を通っているが、彼らが歩いた中城の道がこのハンタ道といわれている。ハンタ道の道沿いは、松林になっており住民が松の枝を拾いに行くことも多かった。また、当時、中城グスク内にあった役場に行く時もこの道が利用された。戦前までは日常的に使われていた道だった。
公園からは、首里グスクから中城グスクに通じる道のうち西原を経由して南上原、新垣など丘陵上を通る道だったハンタ道に合流する入り口がある。1
伊集への道
戦前はハンタ道から丘陵下にある中城村の各集落への道が存在していた。津覇集落への道は3ルートあり、いずれも子ども達の通学路にもなっていた。津覇集落を訪れた際にこの道をこの道を歩いたがいずれも途中で消滅していた。現在は使われていない。
南上原糸蒲公園まで来たが、公園内が工事中のため、ハンタ道はここで通行禁止になっている。
南上原糸蒲公園
南上原の東端標高約150mの丘陵に南上原糸蒲公園が整備されている。南上原糸蒲公園敷地とその東側一帯は糸蒲と呼ばれ、かつては津覇に属しており、昔は津覇の糸蒲集落があり、津覇の古島と伝えられている。公園内の東側で集落跡の糸蒲遺跡発掘されている。糸蒲門中が現在の津覇集落へと移住する前の集落跡といわれており、グスク土器や白磁などが出土している。
糸蒲寺 (イトカマデラ)
- 添石のヨキヤノロと補陀落坊主は知人で、ある日、ヨキヤノロ宅で幼い女の子を家の外へ追い出してお茶をしていたところ、ヨキヤノロの夫が、この幼女の言葉によって2人が密通していると誤解し、このことに腹を立てたヨキヤノロは「この家の女子は未切れ末切れ (女子は途絶える)」という呪いを吐き、乳房をかみ切って自害し、補陀落坊主も寺院に戻り、は糸蒲寺の財宝を上津覇拝み (上津覇ヌ嶽) と糸蒲拝み (糸蒲ヌ嶽) に埋めて隠し、自身も寺院の櫃の中に閉じこもった。この直後に寺院が火事になり全焼してしまった。弟子が棺を探し出し開けてみたが、櫃の中は空っぽになり天に帰っていったという。その後、ノロの家では女児は生まれなくなり、寺は再建されず、寺の石段だけが残っていた。
- また火事で寺が焼失する瞬間、寺の本尊が首里城の漏刻門に現れたという伝説も残っている。
この高台は沖縄戦で4月8日から9日にかけて激戦地となった場所だ。ここには日本軍独立歩兵第14大隊第5中隊の陣地が置かれていた。日本軍は155高地、米軍はTomb Hill と呼んでいた。 1945年 (昭和20年) 4月8日、 米軍の攻撃を受け、独立歩兵第14大隊第5中隊には多大な損害が出たが、独立歩兵第12大隊第4中隊の増援もあり、この日は何とか陣地を保持している。 日本軍はこの夜間にも第12大隊第5中隊が増援を行ったが、9日朝から米軍は集中的な攻撃を加え、激戦のすえ陣地を占領している。南上原糸蒲公園造成時に、南西斜面でU字型の壕が発見され、壕の中からは人骨や兵士の遺品が出土している。
糸蒲の塔
中城村の発行している資料では南上原の沖縄戦の犠牲者数は540人となっている。当時の人口のデータがないのだが1919年 (大正8年) は683人、戦後1946年 (昭和21年) は444人となっている。大正時代から戦前はそれ程大きな人口増加はなかったと思われるので、50%-60% の住民が犠牲にあったように思える。多分、中城村の中では最も犠牲者の割合が高いとも思える。慰霊碑の800人は戦死した兵士の慰霊碑で南上原住民は含まれていない。
合同遥拝所 (ウトゥーシ)
南上原糸蒲公園の東側のハンタ道沿いに合同遥拝所 (ウトゥーシ) が造られている。この一帯は糸蒲 (イトカマ) と呼ばれ、かつては糸蒲集落があったといわれている。糸蒲集落の祖先はシージマタと呼ばれる地域に住んでいたが、棚原一門との戦いに敗れ、糸満に移り、一時期生活した後に、現在の津覇集落へ移って来たといわれている。この糸蒲は水が乏しい場所で、住んでいた人々はシージマタ (琉球大学構内) まで水を汲みに行っていたといわれている。遥拝所 (ウトゥーシ) へは崖の上に細い道が設置されている。
遥拝所はコンクリート製の3つの香炉が置かれており、糸蒲ヌ嶽、シージマタノ嶽 (シキマタヌ嶽)、糸蒲寺 (イトカマデラ) を遥拝 (お通し) している。戦前は、ムラの年中祭祀の際に拝まれており、 現在はウマチーの際に各門中で拝まれている。
近くには祠もある。
和宇慶への道
現在の糸蒲公園の南側から和宇慶 (国道329号 沿いにある材木店の側) へ下りる道。ちょうどこの丘陵下に和宇慶集落がある。この道は村道で、荷馬車が通れる道幅だった。 特にフェー組 (南組) の人がよく利用し、製糖期になると、南上原の人々は荷馬車にサトウキビを積んで、この坂道を通っていた。どの辺りまで道があるかわからないが、降りていくと、途中で泥濘みになって滑りやすい。急な坂なのでここで断念して引っ返す。
東太陽橋 (アガリティーダバシ)
公園の北からハンタ道に戻りを北に進む。ハンタ道は東太陽橋に続いている。橋は歩道橋で国道に架かっており上は展望台になっている。中城湾と中城村の町並みが一望できる。
ここからは崖下に津覇集落が見渡せる。
更に北浜集落も見える。
更にハンタ道を進む。
ハンタ道の途中、安里集落、その向こうには添石集落が見える。
南上原のユクヤー
南上原のユクヤーと書かれた表示板がある場所に出る。ユクヤーは休憩所のことで、ここは中城湾が眼下に広がる見晴らしのよい場所だった。ハンタ道の旅人が麓から吹き上げてくる涼やかな風で休憩していた。かつては100坪ほどの広く開けた場所で、東の海側は一段高く、西側は平坦で広場全体に芝が自生していたという。現在では開発等により昔の面影は残っていない。このユクヤーは旅人に休憩所だけでなく、戦前までは南上原のアシビナー (遊び場) として、周辺地域から若い青年男女が集まってきてモーアシビー (毛遊び) が行われていた。
奥間への道
ユクヤーの側から奥間集落の後方 (西側) へ下りる道がある。津覇国民学校 (津覇小学校) へ登校する際にも利用された。 南上原の人だけでなく奥間の人も頻繁に利用した。 戦後も利用されていたそうだ。ただ、この道はすぐ下の作業所までで、それより下の奥間への道は消滅している。奥間集落を訪れた際に丘陵上への道を探し進んだがやはり途中で消滅いていた。
この後、予想通り山越えになり、アップダウンが連続するのだが、そのレポートは北上原のスポットを巡り終わってからとする。
参考文献
- 中城村史 第1巻 通史編 (1994 中城村史編集委員会)
- 中城村の文化財 第5集 中城村の拝所 (2004 中城村教育委員会)
- 中城村の文化財 第7集 中城村の屋取 (2004 中城村教育委員会)
- 中城村地域散策 (中城村教育委員会)
- 戦前の中城 (2022 中城村教育委員会生涯学習課)
- 中城村 戦前の集落 シリーズ 15 南上原 (2016 中城村教育委員会)
- ガイドブック 中城村の戦争遺跡 (2020 中城村教育委員会生涯学習課)
- 百年の軌跡 (2009 中城村役場企画課)