Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

神使

2022.08.23 06:09

https://book.asahi.com/article/12735262 【「神さまに選ばれた動物図鑑」 ムカデも神の使いです】より

 神社で見かける狛犬や狐などの動物の像。これらの動物たちは「神使(しんし)」や「神の使わしめ」と呼ばれる神さまのお使いで、神さまからのメッセージを伝える役割を担っているといいます。なかには、動物自身が神さまになっている神社もあります。

 今回紹介するのは、そんな神使を務める動物にスポットを当てた「神さまに選ばれた動物図鑑」。キツネやウシなどの身近な動物たちが、なぜ神さまの使いとなったのか、その理由や背景、ご利益などをかわいいイラストと共に解説しています。

 キツネやウシ、シカ、サル、ヘビは日本中でまつられているというほど神使の中でもメジャーな存在なのだそうですが、本書で取り上げられているのは全55種もの動物たち。それほど多くの動物たちが神使として扱われていることに驚かされます。

 なかには、意外な動物の姿も。その見た目から嫌われがちなムカデもその一つ。もともと龍神や大蛇の天敵として神話に登場していたムカデは、はっきりとした云われはわからないものの、鍛冶屋や金属産業を守る神使となったといいます。武士たちの間では、「前にしか進めない」=「後退しない」ということから勇ましいとされ、甲冑や刀装具などの意匠に用いられたのだとか。また、お金のことを「お足」と呼ぶことから、足の多いムカデはお金に困らないというご利益もあるのだそうです。


https://tenki.jp/suppl/sachico_nakayama/2019/09/29/29424.html 【今再びご注目!動物像が神社に置かれている理由】より

秋のお出かけのひとつに神社仏閣の参拝を予定されている方もいらっしゃることと思います。鎮守の森の中に佇む神社は、四季折々の景色の変化を楽しむことができますし、祀られている神さまやその歴史に心惹かれて参拝される方もあることでしょう。また、境内で見かける動物は神に仕えるものとして「神使(しんし)」や「眷属(けんぞく)」と呼ばれます。ちなみに、本日9月29日は日本招き猫倶楽部によって制定された「招き猫の日」。招き猫は商売繁盛、招福のイメージで多くの方に親しまれていることと思います。それでは今回は、猫が縁起物とされるようになったきっかけと、神社で見かける動物はなぜそこにいるのか?についてご紹介いたします。

猫が縁起物「招き猫」になったきっかけとは!?

日本で飼い猫として人々の身近な存在になったのは、平安時代前後のことだそうです。また時を同じくして、平安時代初期の頃に書かれた最古の説話集「日本霊異記」には化け猫としての記録もあり、猫は不思議な力を持つ動物というようにも捉えられていたことが伺えます。さらに時代が進み、江戸時代のこと。東京都にある今戸神社の近隣住民であった老婆の愛猫が夢枕に立ち、自分(猫)の形を人形にすると福が来ると言ったそうです。実際に、貧しかった老婆は猫の言う通りに人形を作り売ると、それが評判を呼んで裕福になったことが「招き猫」の始まりと言われています。また、同じく東京都の豪徳寺にも、招き猫発祥の伝説があります。こちらも同様に江戸時代。時の彦根藩主・井伊直孝が豪徳寺の飼い猫の手招きで寺院に入ったところ、その直前に立っていた場所に雷が落ち、命拾いしたと言われています。その後、豪徳寺は井伊家の菩提寺となり栄えるようになったそうです。

動物が神使として神社にいる理由とは?

國學院大学神道文化学部教授の茂木貞純氏によると、神社に動物などの神使の像が置かれるのは、そもそも日本の神々が人前に姿を現さないことから、神々に近くゆかりのある動物が代理でその意思を伝えてくれると考えたからなんだそうです。豊かでありながら時に厳しい自然に身を置いてきた我々の祖先は、豊作、豊漁、豊猟を山や川、海の神に祈願しご利益に感謝を捧げ、その信仰は様々な祭りとして行われてきました。神々は人の目に見えないため、自然に棲息する動物が神と人とを仲立ちすると考え神聖視し、動物の行動や鳴き声などの些細な変化を読み取り、神の意志を感じ取ったそうです。古くから神聖視されてきた動物の種類は、陸の生き物20種、水辺の生き物11種、空の生き物14種、霊的な生き物(龍や天狗など)9種、全て合わせると54種も!改めて、日本人の自然への信仰の深さを思い知ります。この秋、神社を訪れる際には、その神社にまつわる神使の歴史や像にも触れてみてはいかがでしょうか?

【出典】監修/茂木貞純「神社のどうぶつ図鑑」(2018)二見書房


http://shinshizo.com/2020/10/%e8%83%bd%ef%bc%88%e8%ac%a1%e6%9b%b2%ef%bc%89%e3%81%a8%e3%80%80%e7%a5%9e%e4%bd%bf/ 【能(謡曲) と 神使  前編 ①~④】より

能(謡曲) と 神使

能(謡曲)の演目や曲目は多数あります。そして、それらの演目の題材とされているものは、全国各地の風俗、習慣、伝承、和歌、記紀、風土記、物語、歴史、仏教説話、仏教の大乗などなどと多種・多様です。

これらの中には、神使が登場したり、神使に関連するものもあります。「能(謡曲)に関連する神使・動物」を「演目のあらすじ」とあわせてご覧ください。

「能」「狂言」は、日本の古典芸能の一つで、平安時代に唐から伝来した散楽(さんがく)に日本古来のこっけい味のある台詞や所作などが加えられて、特に神社の祭礼などで職業芸人(役者)よって演じられてきました。武士や庶民に広く愛好され、室町時代に、観阿弥・世阿弥父子によって能楽として大成されました。なお、能は狂言も含めて、江戸時代までは「猿楽」と呼ばれていました。「謡曲」とは、「能」の歌詞、所作、囃子などのうち、歌詞(言語・声楽)の部分だけを取り出して、「謡(うたい)」として独立したものです。なお、能はそれぞれの役柄に応じた 面(おもて・能面)をつけて演じる仮面劇です。能には、シテ方として、観世、金春、宝生、金剛、喜多の五流があります。

① 謡曲「善知鳥(うとう)」と ウトウ鳥

謡曲「善知鳥(うとう)」のあらすじ

猟師(亡霊)の面:「痩男」(東京国立博物館蔵)

 陸奥国(青森県)「外の浜」への行脚を志した旅僧が、途中、越中国(富山県)立山で禅定(修行)を終えて下山したところ、一人の老人に呼び止められました。老人は「もし、奥州の外の浜へ下るのなら、去年の秋に死んだ猟師の家を訪ねて、その妻子にそこにある蓑笠を手向けて回向するよう伝えて欲しい」と頼み、自分か頼んだ証しだとして、着ていた麻衣の片袖を引きちぎって旅僧に渡します。僧はそれを引き受けて別れます。

僧は外の浜に着くと、去年亡くなった猟師の家を訪ね、猟師の妻と子どもに、立山で会った老人の片袖を渡し、伝言を伝えます。妻は形見の衣を取り出し、僧が預かった片袖をそれに合わせるとまさしく亡き人の形見とぴったり合います。そこで妻子は驚き懐かしみつつ、蓑笠を手向け、僧と共に回向します。すると、猟師の亡霊が現われ、鳥獣とりわけ善知鳥を殺した罪を悔いつつ、わが子の髪をなでたり、妻子に近寄ろうとしますが、生前善知鳥の子鳥を捕って親鳥との仲を引き離した報いで、雲霧に妨げられて妻子の姿は見えなくなります。

猟師(亡霊)は、殺生に明け暮れ過ごした在りし日を語り、諸鳥の中でも親子の愛情が深いと言われる善知鳥を殺した罪を懺悔します。数多くの「うとう」を殺した罪にさいなまれる地獄の苦しみを見せ、果ては善知鳥が鷹となり猟師は雉となって追い責められる様など見せて、どうか自分を助けてほしいと僧に弔いを頼みつつ亡霊は消え失せます。 参照:能楽手帖(権藤芳一)

「善知鳥」の駒札 善知鳥神社(青森市安方)内

「善知鳥」の題材 :善知鳥(うとう)の伝承

宝生流・世阿弥の作「善知鳥(うとう)」は、青森地方の「うとう伝承」を題材とするもので、藤原定家の和歌も登場します。謡曲「善知鳥」の中の、猟の残酷さや、蓑笠の意味合いも理解できます。

うとうの伝承

善知鳥安方(うとうやすかた)という鳥(うとう)が陸奥国外ガ浜にいて、親が「ウトウ」と呼ぶと、子が「ヤスカタ」と答えて寄ってくるので、猟師が親の声色を真似て子を捕らえたところ、親は血の涙を流して頭上を飛び狂った。その血涙が身にかかるとその部分が腐るので、それを避けるため、猟師は蓑笠を着けて猟をしたという。

藤原定家の和歌(定家は鎌倉前期の歌人・新古今和歌集の撰者の一人)

陸奥の 外が浜なる 呼子鳥 鳴くなる声は うとうやすかた

(みちのくの外ヶ浜にいる鳥は、親が「うとう」と子を呼べば、子は「やすかた」と鳴いて応じる)

ウトウ鳥とは

写真は北海道天売島の「ウトウ」{Attribution}

「ウトウ」という鳥の名や、善知鳥と書いて「ウトウ」と読むと知る人は極めて少ないと思われます。ウトウは、ウミスズメ科の海鳥の一種で、北太平洋沿岸に広く分布し、日本では北海道の天売島に約100万羽が繁殖するとされ世界最大の繁殖地となっています。群をつくって、島の沿岸の平らな岩砂地などに直接巣をつくり、一つだけ卵を産み、雌雄で小魚などを運んで雛を育てます。繁殖期には上くちばしに三角形の突起物のような飾りができ、顔に白線が見られます。ウトウとはアイヌ語で「突起」という意味だとのこと。個性が強く親子の情愛が強い鳥といわれます。

「うとう」は青森の古名、青森発祥の地

善知鳥(うとう)神社 青森県青森市安方

善知鳥(うとう)は青森の古名で、善知鳥神社は青森市発祥の地とされています。現在の青森市が昔、善知鳥村と言われた頃、この地を治めていた善知鳥中納言安方(うとう やすかた)が奥州陸奥之国外ヶ浜鎮護の神として、宗像三女神(弁財天)を祀ったのが当社の発祥とされます。明治6年9月に青森総鎮守社として県社に昇格しました。

善知鳥神社は、うとう村と呼ばれていた青森発祥の地に建つ社で、上掲の世阿弥の謡曲「善知鳥」も知られます。ウトウは善知鳥神社の神使とされ、善知鳥にまつわる江戸時代の歌碑や文書なども社内にあります。

「うとう」鳥についてこのような伝承も

 雌は「ヤスカタ」、雄は「ウトウ」と鳴く雌雄のうとうのつがいがいたが、猟師が誤って雄を射殺したところ、雌が怨んで、数万羽となって田畑を荒して農家を悩ました。一寺を建立して雄を祀ったところ、災いは無くなった。

神社入り口の大絵馬

江戸時代の歌人・民族学者  菅江真澄の遺した善知鳥にまつわる歌・石碑

aaa

② 謡曲「江口」と 象・普賢菩薩

謡曲「江口」 のあらすじ

江口の君の面:「増女」(東京国立博物館)

諸国一見の旅僧が、都から津の国(大阪府)天王寺へ参ろうとして、その途中、江口の里(遊女江口の君の旧跡)に到りました。この里で昔、西行法師が一夜の宿を乞うたが遊女に断られ、その際に交わしたという贈答歌(下掲)を思い出し、それを口ずさみます。すると、何処からともなく一人の女性が現れ、それは断ったのでなく、出家の身を思って遠慮したのだと説明し、あなたも僧の身として、そうした俗世のことに心を留めない方がよいと言います。そして、自分は江口の君の化身であると明かして、たそがれの川辺に消え失せます。

旅僧が夜もすがら読経をしていると、月澄み渡る川面に、江口の君や遊女達が舟遊びをする光景が見えてきます。遊女たちは、それぞれの身の境涯を語り、人間流転のはかなさや世の無常を嘆き、また、舞を舞いながら、五塵六欲の煩悩を悟すなどしていましたが、やがて、江口の君は普賢菩薩の姿となり、舟は白象に変じ、白雲に乗って西の空へと消えてゆきます。 参照:能楽手帖(権藤芳一)

「江口」の駒札  江口の君堂(寂光寺内)(大阪市東淀川区南江口)

「江口」の題材 :新古今和歌集の問答歌 象に載る遊女(普賢菩薩)、仏教の大乗

観阿弥の謡曲「江口」は、「浮世は仮の宿で、遊女でも、誰でも、精進すれば後生は成仏して救われる」という仏教の大乗を暗示する、奥深い曲です。新古今和歌集の和歌(下掲)が演目の題材であり、核になっています。普賢菩薩は象に乗った像容で表現されますので、「江口の君が白象に乗って西方へ消える姿は、普賢菩薩に化したことを表しています。

西行法師と江口の君(妙)の贈答歌 (新古今和歌集 巻十)

世の中を厭(いと)ふまでこそ難(かた)からめ、かりの宿りを惜しむ君かな 西行

世をいとふ人とし聞けば、かりの宿に心止(と)むなと思ふばかりぞ   江口妙

勝川春草「見立江口の君図」

勝川春章の筆画「見立江口の君図」は、観阿弥の謡曲「江口」に題材をとった(見立てた)、「象に乗った遊女」の絵です。

「見立て図」では、謡曲の中で遊女江口の君が普賢菩薩と化すさまを、普賢菩薩は白象に乗った姿で表わされることが多いので、「白象に乗った江口の君(=普賢菩薩)」として表現されています。

勝川春章「見立江口の君図」ボストン美術館所蔵

肉筆浮世絵展 江戸東京博物館(2006.11)

 (頒布グッズ・クリアファイルの絵)

●堀之内・妙法寺の奉納額絵 (額堂内)東京都杉並区堀ノ内3

妙法寺に奉納された額絵です。観阿弥の謡曲「江口」の場面です。 女「江口」が、侍女と共に舟遊びの様や歌舞を奏して楽しむうちに、普賢菩薩と化して白雲に乗って西の空に消えていく場面です。江口の君が普賢菩薩と化すさまを、普賢は象に乗った姿で表わされるので、上掲の勝川春章の「見立て図」と同様に、「象に乗った遊女」として表現されています。

妙法寺絵馬堂の奉納額絵

参考 象に乗る普賢菩薩像

普賢菩薩(ふげんぼさつ)は、理知・慈悲の仏。文殊菩薩と共に釈迦仏の脇侍ともされる。白象に乘る姿で表されます。

四天王寺(大阪市天王寺区四天王寺) 虚空蔵山大満寺(宮城県仙台市太白区向山 ) 喜多院(埼玉県川越市小仙波町)

長泉寺(東京都杉並区上高井戸) 大円寺(東京都目黒区下目黒) 増上寺(東京都港区芝公園)

➂ 謡曲「絵馬」と 黒馬・白馬

謡曲「絵馬」のあらすじ

老翁の面:「小牛尉」(IPA教育用画像素材集サイト出典)

老姥の面:「姥」(東京国立博物館蔵)

 年も暮の頃(注1)、左大臣公能は宝物供御の勅使として伊勢神宮へ詣で、斎宮(注2)に参拝します。夜中に絵馬を掛ける行事があると聞いて、その有様を見ようと待ちます。

 夜半過ぎになって忽然と老爺と老姥が現れ、掛ける絵馬の毛の色で明年の晴雨を占うと言い、老姥は雨露の恵みを受けるように黒の絵馬をかけて国を豊かにすると言い、老翁は自分が白の絵馬を掛けて、日を照らして民を喜ばせようと言って互いに競い合います。結局、一つだけ掛ける習いである絵馬を、今年は始めて万民のために二つ掛けて雨も降らし日も照らすことにします。やがて二人は、伊勢神宮の二神(天照大神と月読神〉の仮の姿であると告げ、夜明けを待てと言って夜の闇に姿を消します。

 月読の明神(月)が出ると間もなく、天照大神が天鈿女命と手力雄命を従えて現れ、神舞を舞ったあと、岩戸隠れの故事を目のあたりに再現してみせます。 参照:「宝生の能」平成11年12月号

「絵馬」の駒札 竹神社(三重県多気郡明和町斎宮)内

「伊勢参宮名所図会」に毎年大晦日(注1)に伊勢の斎宮で絵馬をかける行事が載っているが、黒絵馬は雨を、白馬は日照りの占方を示すという。謡曲「絵馬」はこの行事を節分の夜とし、老翁と姥が人民快楽のため二つの絵馬をかけ並べ、国土安穏を祈るというものである。もとの参宮道のこの辻に絵馬堂があり、「絵馬川」という小川に「絵馬橋」もかかっていた。絵馬堂は明治の終りごろ廃され、その折斎宮の加藤氏に譲られたが、終戦直後腐朽のため堂が焼却された。絵馬は佐々木氏が譲り受け、大正のはじめ竹神社に寄贈したもので、現在竹神社の神宝となっている。かっての行事を伝える貴重な絵馬といえる。 謡曲史跡保存会

注1 旧暦では立春が新年と考えられ、節分の日は大晦日とされていた。

注2 斎宮(さいぐう)は「いつきのみや」とも呼ばれ、その「斎王」は、天皇の代わりに伊勢の神に仕えるため、天皇の代替りごとに皇族の女性の中から選ばれて都から派遣された。天武天皇(670年頃)から後醍醐天皇の時代(1330年頃)まで約660年間続いた制度。現在遺跡を発掘中。

「絵馬」の題材 :伊勢斎宮の絵馬かけ神事 雨乞いの黒馬・祈晴の白馬

謡曲「絵馬」は、節分の夜に行われる伊勢の斎宮での絵馬かけ神事(黒馬・白馬のどちらの絵馬かで新年の雨・晴の多少を占う)を題材にしています。「水を司る神」を祀り、延喜式の名神大社の格式を持つ、「貴船神社」や「丹生川上神社」には、日照りや長雨が続くと、朝廷より勅使が派遣されて、「降雨」を祈願するときには「黒馬」が、「止雨」を祈願するときには「白馬」奉納される習わしになっていました。

貴船神社(貴布禰総本宮) 京都市左京区鞍馬貴船町

貴船神社は、水を司る神、「高龗神(タカオカミノカミ)」を祀る社として名高く、延喜の制に基づく「名神大社」という、最高位の格式を持つ神社とされていた。

「貴船神社要誌」によると、「嵯峨天皇弘仁九年(819)以後、歴代天皇は、しばしば、勅使を派遣して、炎旱(ヒデリ)の時には黒馬を、霖雨(ナガアメ)の時には白馬を献じて雨乞い、雨止み(祈晴)を祈願した」とある。

貴船神社の黒馬・白馬

なお、同じく「名神大社」の格式を持ち、水を司る神を祀る丹生川上神社(奈良県吉野郡)にも、朝廷から黒馬・白馬が奉納された記録が残る。(祭神:上社・高龗神、中社・罔象女神、下社・闇龗神)

水無(みなし)神社(飛騨一之宮) 岐阜県高山市一之宮町

由緒書に、「神代の昔より表裏日本の分水嶺「位山」に鎮座せられ、神通川、飛騨川の「水主」、また「水分けの神(みくまりのかみ)」と崇め、農耕、殖産祖神、交通守護(道祖神)として神威高く延喜式飛騨八社の首座たり」とある。特に農作業に欠かせない水源の神として、干ばつの時には雨乞い祈願がなされた。祈雨祈晴の馬として、黒白二体の神馬(木造)が神馬舎に保存されている。

飛騨一之宮・水無神社の黒白の神馬 黒駒は祈雨用、白駒は祈晴用。

参考:「絵馬」について・・

古来から、馬は神の乗り物とされていて、古代の祭りや祈願・雨乞いの時などには神に生きた馬を奉納する習わしがあった。

貴船神社や丹生川上神社にも上述のように、歴代天皇から降雨・止雨の祈願に際しては、その都度、生きた馬が奉納される習わしになっていた。

しかし、時には生馬に換えて、馬形(土馬)や鞍掛馬(木馬)を献上することも行なわれ、平安時代の「類聚符宣抄」によると、さらに簡略化された「板立馬(馬の姿を板に描いたもの)」が奉納されたという。この「板立馬」こそ今日の「絵馬」の原形といわれ、貴船神社が絵馬発祥の社とされている。

絵馬:貴船神社(京都・貴船町)の絵馬(黒馬と白馬)

絵馬が、一般に広まったのは、鎌倉時代以降のことで、当初は馬の絵だったものが、室町時代になると、他に狐、蛇、虎など祭神の神使や、神仏、干支、武者、祈願する内容(例えば目の悪い人が目の絵)といったように絵柄も変化した。また、専門絵師による大きな絵馬を神社や堂に奉納することも行われた。絵馬の大半は板の上部を山形にしたもので、通常は、祈願や感謝の意を記して、神社の絵馬掛に奉納する。絵馬:鶴岡八幡宮(鎌倉市)の絵馬

今日の絵馬は、かつて、生きた馬を献上して祈願していた名残でもある。

手向山八幡宮(奈良市)の板立馬の絵馬

華麗に彩色された黒馬の板を立てたもの、絵馬の原形といわれる「板立馬」を伝える。

手向山八幡宮 立絵馬

④ 謡曲「竹生島」 と 蛇、龍、波兎

謡曲「竹生島」のあらすじ

翁の面:「朝倉尉」(東京国立博物館蔵)

⇒龍神の面:「黒髭」(東京国立博物館蔵)

弁財天はいろいろな面

 醍醐天皇に仕える朝臣が、琵琶湖中にある竹生島の明神へ参詣しようと湖畔に来ると、老漁夫と若い女が釣船を出しているので、声をかけて同乗させてもらいます。のどかな浦々の春景色を楽しんでいるうちに、船は竹生島に着き、老人は朝臣を神前に案内します。女も同行するので、女人禁制の島と聞いていたがと問うと、老人と女は、弁財天は女性の神なので女人を分け隔てはしないなど、島の明神の由来を語ります。やがて二人は、実は人間ではないことを明かし、女は社殿の扉の中へ、老人は波間へと姿を消します。(女は弁財天、老人は龍神だった)

しばらくして御殿が鳴動し、きらびやかに光り輝く弁財天が現れ、舞を舞います。やがて月光の澄み渡った湖上が波立ち、龍神も現れ、朝臣に金銀珠玉を捧げて勇ましい舞を見せ、衆生済度、国土鎮護を誓って、弁財天は社殿へ、龍神は龍宮へと帰ります。参照:「宝生の能」平成十三年一月号より)/高橋春雄氏のHP「謡蹟めぐり」内

「竹生島」の題材 :竹生島の弁財天と龍神

竹生島 滋賀県長浜市早崎町

謡曲「竹生島」は、滋賀県の琵琶湖の中にに浮かぶ竹生島が弁財天と龍神の棲む処として信仰されていたことを題材にしています。島には、現在、宝厳寺と都久夫須麻(つくぶすま)神社の二社がありますが、明治初期の神仏分離令以前は神仏習合の信仰が行われて竹生島明神などと呼ばれていました。祭神は、市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)=弁才天、宇賀福神(うがふくじん)=龍神、浅井比売命 (あざいひめのみこと)= 産土神、の3柱。

                竹生島の弁財天と龍神(絵馬)

弁財天と神使の蛇

            宝厳寺 本堂内 弁財天像

         弁財天の神使、「白巳大神」の蛇

龍神の神使の龍

「八大龍王遥拝所」の龍

都久夫須麻神社「常行殿」の下の「放生会斎庭」の龍

波兎の由来は謡曲「竹生島」の一節

波間を兎が跳ねる「波兎」の図柄はよく知られますが、波と兎の組み合わせとは、かなり突飛な発案です。「波兎」の図柄の由来は謡曲「竹生島」の次の一節「月海上に浮かんで 兎も波を奔(カケ)るか」とされます。

 上掲のあらすじで、湖畔から竹生島までの舟の上で「のどかな浦々の春景色を楽しんでいる」うちに、竹生島もまじかになってきます。

竹生島も見えたりや

(竹生島もまじかに見えてきましたね)

緑樹影沈んで 魚木に登る気色あり

(緑の木々が陰影も濃く湖の中にまで映っていて湖水の中を泳ぐ魚がまるで木に登っているように見えますね)

月海上に浮かんで 兎も波を奔(カケ)るか

(月が湖面に映えて浮かんでいるように見えるときにはきっと月の兎も湖面の波の上を駆け跳ねているのでしょうね)

面白の島の景色や

(竹生島の景色は趣があって素晴らしいですね)

波兎(波乗り兎)の像や図


http://shinshizo.com/2020/12/%e8%83%bd%ef%bc%88%e8%ac%a1%e6%9b%b2%ef%bc%89%e3%81%a8%e7%a5%9e%e4%bd%bf%e3%80%80%e5%be%8c%e7%b7%a8-%e2%91%a4%ef%bd%9e%e2%91%a7/ 【能(謡曲)と神使 後編 ⑤`~⑧】より

⑤ 謡曲「加茂」と 丹塗り矢伝説・夫婦子持ち猿

謡曲「加茂」あらすじ

別雷神の面:「大飛出」(東京国立博物館蔵)

播州(兵庫県)室の明神と、都の賀茂明神とは御一体であるというので、室の明神に仕える神職は、都へ上り賀茂の社に参詣します。すると、その川辺に新しい壇が築かれ、白木綿に白羽の矢がたててあります。それを見て不審に思って、丁度、そこへ水を汲みにやってきた二人の女に問いただします。女は『昔、この里に住んだ秦の氏女が、朝夕この川の水を汲んで神に手向けた。ある時、川上から白羽の矢が流れてきて水桶に止まったので、持ち帰って家の軒にさしておくと、懐胎して男子を産んだ。その子の父親は不明だったが、三歳になった時、「父と思われる人に御酒をあげなさい」といわれると、「父はこの矢であり、雷神である」と天に上って行った。この子は別雷神(わけいずちのかみ)と名付けられて上賀茂神社に、母(玉依比売)は下賀茂神社に、そして矢(火雷神)は乙訓の郡の社に、と「賀茂三所」に祀られている』と賀茂三社の縁起を語ります。 つづいて水汲みながら川に因んだ歌を引き、その流れの趣を語り、やがて自分が神であることをほのめかして消え失せます。

[賀茂」の駒札 下賀茂神社(京都市北区上賀茂)内

「賀茂」の題材 : 丹塗り矢伝承

丹塗り矢伝承について

丹塗り矢伝承と呼ばれる伝説は、渡来系豪族、秦氏に残る古文などによる伝説とされ、これら神話に関係する神社は、いずれも、秦氏ゆかりの社です。この神話は、いくつかの異なるバージョンが伝わります。

丹塗り矢伝承の大筋は、『加茂玉依日売(かもたまよりひめ)が川で水を汲んでいると、川上から丹塗りの矢が流れてきて、水桶にかかった。玉依日売はこの矢を持ち帰り、寝室の柱に刺し置いたところ、懐妊し、男子を出産した。この子(別雷神=わけいづちのかみ)の父神が誰だか判らなかったが、成人式の時「お前の父神に酒をあげなさい」と言われると、別雷命は杯を持って天に昇っていったので、父神が誰だか判った。』というものです。

大筋はほとんど同じですが、矢に化身して賀茂玉依日売を懐妊させた主(別雷神の父神)が異なります。上賀茂神社の由緒では、矢の主は「火雷神(ほのいかずちのかみ)」とされますが、古事記によると矢の主は、比叡山の山王で日吉大社の祭神の「大山咋神(おおやまくいのかみ)」とされており、また一説によると、「大物主神」とする説もあるようです。

上賀茂神社の丹塗り矢伝承

上賀茂神社(加茂別雷神社 かもわけいかづちじんじゃ)

京都市北区上賀茂本山339 祭神:加茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)

上賀茂神社の由緒書(下掲)には、「丹塗矢の神話」として、火雷神(ほのいかづちのかみ)が丹塗り矢に化身して、賀茂玉依比売(たまよりひめ)を懐妊させ、生まれた子が当社の祭神賀茂別雷神(わけいづちのかみ)だとあります。

上賀茂神社の丹塗矢の御神話 上賀茂神社のHPより引用  クリック→拡大

日吉大社の丹塗り矢伝承 古事記の記載

日吉大社(ひよしたいしゃ)滋賀県大津市坂本

祭神 東本宮:大山咋神(おおやまくいのかみ)、西本宮:大己貴神(おおなむちのかみ=大国主神)

古事記には、大山咋神について次のように記載されています。「大仙咋神、亦名山末之大主神、此神者坐近淡海之日枝山、亦坐葛野之松尾用鳴鏑神者也」(『大山咋神(オオヤマクヒノカミ)。またの名は山末之大主神(ヤマスエノオオヌシノカミ)。この神は、近淡海(チカツオオミ)国(滋賀県)の日枝山(比叡山・日吉大社)に座す。また葛野(カズノ)の松尾(京都・松尾大社)に座す。鳴鏑(ナリカブラ)になりませる神なり。』)とあります。 注:鳴鏑(ナリカブラ)とは、射ると風を切って鳴りながら 飛ぶ矢のことで、ここでは丹塗り矢と同意。

すなわち、大山咋神が丹塗り矢(鳴鏑)に化身して川を流れ下って、賀茂玉依比売を懐妊させ、賀茂別雷神をもうけたとの伝承から、大山咋神(日吉・松尾大社の祭神)と加茂玉依日売(下鴨神社・加茂御祖神社の祭神)とは夫婦とされ、両神の子は加茂別雷神(上賀茂神社・加茂別雷神社の祭神)とされました。

飛騨山王宮 日枝神社  岐阜県高山市城山

飛騨山王宮・日枝神社では、古事記の上記記載に由来して、社紋を「かぶら矢の鏃(やじり)」としています。かぶら矢の鏃(やじり)三つを交叉(こうさ)させたものです。 クリック→拡大

山王系神社の子連れ夫婦猿は丹塗り矢伝承が由来

猿が山王系の神社の神使とされます。神使の猿の像は「子どもを連れた夫婦の像」が多くみられますが、これは、山王系総本宮、日吉大社の祭神である大山咋神にまつわる、上掲の「丹塗り矢伝承」に由来するとされます。

江戸山王日枝神社(東京都千代田区永田町)拝殿前(左)     神門(右)

三沢・日吉神社(福岡県小郡市三沢    小針・日枝神社(埼玉県行田市小針)

水屋・山王宮(佐賀県鳥栖市水屋町)   荻・日吉神社(埼玉県都幾川村西平)

相模町・日枝神社(埼玉県越谷市相模町) 郡山・日吉神社(福島県富久山町久保田)

清水・日吉神社(福岡市南区清水)   円蔵・日吉社(神奈川県茅ヶ崎市円蔵)

 ⑥ 謡曲「三輪」と 蛇

謡曲「三輪」のあらすじ

三輪明神(里女)の面:「十寸髪」早稲田大学演劇博物館蔵)

大和国(奈良県)三輸山の麓に庵室をかまえている玄賓(げんぴん)僧都のもとへ、毎日、樒(しきみ)と閥伽(あか)の水(神前に供える榊さかきと水)を持ってくる女があります。今日も、この淋しい庵を訪れた女は、罪を助けてほしいと、僧都にたのみます。

そして、秋も夜寒になって来たので、衣を一枚いただきたいといいます。僧は衣を与え、「住家はどこか」と尋ねると、女は「わが庵は三輪の山もと恋しくば、とぶらひ来ませ杉立てる門」という古歌がありますが、その杉立てる門を目じるしにおいでなさい、といい残して、姿を消します。

三輪明神に日参している里人の知らせで、僧都が三輪の社に来て見ると、その者のいう通り、以前女に与えた自分の衣が二本の杉に掛かっており、その裾に一首の歌が書いてあります。それを読んでいると、杉の木陰から御声がして、女姿の三輪明神が現われて、神といえども衆生を救うため迷いの心を持つことがあるので助けてほしいといい、三輪の妻訪い(つまどい)の神話を語り、天照大神の岩戸隠れの神話を物語り、神楽を奏します。そして夜明けと共に消えてゆきます。 参照;能楽手帖(権藤芳一)

「三輪」の駒札 大神神社(奈良県桜井市三輪)内

三輪明神・大神神社(奈良県桜井市三輪)

衣掛杉(ころもがけのすぎ): 謡曲「三輪」で、僧の玄賓が三輪明神の化身の里女に与えた衣が懸かっていたと謡われた伝説の杉。株だけが保存されている。

「三輪」の題材 : 三輪明神の妻訪い神話

謡曲「三輪」は、古事記・日本書紀などに載る三輪の神婚伝説(妻訪い神話)を題材としています。神話では、三輪山の祭神大物主命(三輪明神)は蛇神だったとされています。

三輪明神・大神神社(おおみわじんじゃ) 奈良県桜井市三輪

三輪山(神奈備山、三諸山)をご神体とし本殿を持たず、上代の信仰のかたちをそのままに今に伝えるわが国最古の神社。大和国一の宮。祭神の大物主神は、別名、大国主神・大己貴神で知られる。国土開発、農工商の産業開発、治病、造酒、製薬、交通、航海、縁結びなど生活全般の守護神。

二の鳥居の三輪明神の神額      大鳥居  背後は三輪山

古事記・日本書記に載る「三輪の妻訪い神話」 (あらすじ)

古事記の「三輪の妻訪い神話」

活玉依毘売(いくたまよりびめ)のところに、立派な男が夜毎通ってきた。毘売(姫)はすぐに身篭った。このことを知った両親が姫を問い詰めると、姫はその男の名前も素性も知らないという。そこで両親は、男の氏素性を知るために、夜、男が訪れたとき、糸巻きに巻いた麻糸の先に針をつけ、その針を男の衣の裾に刺しおくようにと、娘に知恵を授けた。

朝になって、男の裾に刺した麻糸をたどると、糸は戸の鍵穴を通って外に抜け出し、さらに、三輪山の社まで続いていたという。

 この神話では、男の正体は、鍵穴を抜けることの出来る蛇(巳)で、三輪山に座す大物主神であることを暗示しています。また、姫の部屋の中には三勾(みわ)すなわち三巻の糸が残っていたので、この三勾が三輪の語源とされたといいます。境内に姫が糸巻きの糸をたよりに三輪山に至った時に、糸が終わっていたとされる伝説の杉「おだまき杉」の根株が祀られています(緒環(おだまき)とは糸巻きのこと)

日本書紀の「妻訪い神話」

日本書紀の「三輪の孝霊天皇の皇女倭迹迹日百襲姫命(やまととどひももそ姫)が、毎夜通ってくる夫(大物主神)に「昼のお顔を拝見したい」と頼むと、「明朝、私はあなたの櫛箱の中に入っているが、その姿に驚かないようにとのことだった。

朝になって姫が、櫛箱を開けてみると、中にいたのは小さな蛇だった。姫は驚

き泣き叫んだ。正体を見られた大神は恥じ入り、人の姿になって、三輪山に帰ってしまった。このショックで姫は、急にしゃがみこんだはずみに陰部を箸で突いて絶命したという。(三輪山の麓に姫の箸墓があります)

巳の神杉(みのかみすぎ) 右図

根元の洞に三輪の大物主大神の化身の白蛇が棲むことから名付けられたご神木。巳の好物の卵とお神酒が供えられています。蛇は「巳(み)いさん」と呼ばれています。

手水舎の水口

手水舎は、三輪の「しるしの杉」(神杉)の傍らにあります。 三輪の祭神、大物主神が蛇神で酒造りの神であることに因んで、蛇が、宝珠を抱え、三本杉の神紋のある酒樽に巻きついて、口からを水を吐いています。

⑦ 三番叟(さんばそう)と 猿

三番叟(さんばそう)とは

三番叟後半の面:「黒式尉」(東京億立博物館蔵)

三番叟(さんばそう)とは、能の「翁」(式三番)で、一番目に父尉(ちちのじょう)が「千歳」を、二番目に「翁」が「翁ノ舞」を舞い終わった後、三番目に演じる老人(叟)」の舞をいいます。狂言方によって演じられます。三番叟の「叟」は訓読みだと「おきな」で年寄り、老翁の意です。和泉流では「三番叟」と称しますが、大蔵流では「三番三」といいます。、近年「三番叟」の部分だけが独立して演じられることも多いようです。

最初の「千歳(せんざい)ノ舞」に続いて、翁が舞台上で面をつけ、天下泰平・国土安穏を祝して荘重に「翁ノ舞」を舞って退場。その後、狂言方になり、三番目の翁(三番叟)が、五穀豊穣を祈って、面をつけずに足拍子を踏みしめ力強く舞い「揉ノ段」、さらに、黒式尉(こくしきじょう)の面(上掲)をつけ鈴を振りながら、種まきのような所作を含めて、はじめはじっくりと、次第に急速に舞い納めます「鈴ノ段」。

三番叟は、冬が終わり生命が躍動する初春を迎えたことを喜び、天下泰平と五穀豊穣を祈る、祝言・祝舞で、農民の豊作祈願を表す舞です。初春を祝う目出度い舞なので、幕開けや演目の最初に演じられることが多く、「おさへ おさへ おう、喜びありや 喜びありや。わが所より外(ほか)へはやらじとぞ思ふ」で謡が始まります。

「舞う猿」の由来は 能の三番叟(さんばそう)

「能」と呼ばれるようになったのは明治に入ってからで、能は、江戸時代までは狂言も含めて「猿楽」と呼ばれていました。「式三番」は平安時代にまでさかのぼる、滑稽味のある祝言・祝舞で、農村の祭りが起源とされ、物語性はなく、能の舞台演芸の起源とは異なるとされます。また、式三番中でも三番目に当たる「三番叟」は前一番、二番と異なり、狂言方によって演じられ、古来の猿楽・田楽の趣が残ります。

猿が、烏帽子を被り、扇や鈴を持ち踊る姿を像、絵画、土人形などでよく見かけます。これは、三番叟」が「猿楽」と呼ばれていたことや、五穀豊穣を祈る、シンプルで滑稽味のある軽妙な舞であることなどから庶民に親しまれ、その装束や動きが猿に取り入れられたからです。また、「三番叟」が初春を祝い、農事など物事の始まりを意味する舞であることから、正月の「猿回し」で新年を祝い、魔や厄、難を祓う(魔、厄、難が去る)、物事や商売がうまくいく(人に勝る)などとして猿に関連付けられたものです。

扇を持つサル

猫実の庚申塔(浦安市猫実) 山脇神社(尾道市東久保町) 大豊神社内日吉社(京都市右京区)

鈴を持つサル

江戸山王日枝神社(東京都千代田区永田町)  川越・浅間神社(川越市藤見町)   富士浅間神社(川越市今福、菅原神社内)

庚申塔の踊るサル

上段 御霊神社(鎌倉市坂ノ下)  下段 宗健寺(青梅市千ケ瀬町)

年賀切手の三番叟

昭和28年「三番叟人形」 平成4年 金沢張子の「猿の三番叟」 平成16年 愛媛県の「伊予一刀彫三番叟」

+

⑧ 狂言「蝸牛(かぎゅう)」と でんでんむし

蝸牛(かぎゅう)とは、かたつむり、でんでんむしのことです。狂言は、650年くらい前の室町時代からある滑稽味のある伝統芸能です。その時代の人達の日常生活をテーマに、会話や囃子・踊りなどで展開します。この「蝸牛」も、蝸牛を山伏と取り違える設定の面白さに加えて、当時の子供たちの「カタツムリへの呼びかけ唄(わらべ唄)」が題材とされています。

「蝸牛(かぎゅう)」のあらすじ

主人は家来の太郎冠者(かじゃ)に蝸牛(かぎゅう)を捕ってくるよう命じますが、命じられた冠者は「蝸牛が何か」を全く知りません。そこで、主人は「頭は黒く、腰に貝をつけ、折々角を出し、藪にいる」と教えます。

慈恩寺の山伏(山形県寒河江市)web「ヨシミの慈恩寺ガイド」より—頭に黒の兜巾(ときん)腰にほら貝

蝸牛を探しに出た冠者は、藪の中で、「黒い兜巾(ときん)を頭にかぶって、腰に法螺貝(ほらがい)を付けて寝込んでいる」山伏に出会い、その特徴から山伏を「蝸牛」と思い込んで、主人の所へ連れて帰ろうとします。

冠者の勘違いに気づいた山伏は、からかってやろうと蝸牛のふりをします。そして、囃子事(はやしごと)をしてから行こうと、冠者に「雨も風も吹かぬに 出ざ 釜打ち割ろう」と囃させ、自分は「でんでん むしむし」と合いの手を絶妙な間で入れて、二人で、足を踏み鳴らして 唄い踊り呆(ほう)けます。そこへ帰りが遅いのに業(ごう)を煮やした主人がやってきて、その様に驚きながらも冠者に山伏の正体を知らせますが、ついには自分もつり込まれて、三者で唄い囃しながら退場します。

蝸牛の題材 :でんでんむしのわらべ唄

「 雨も風も吹かぬに 出ざ 釜打ち割ろう 」「 でんでんむしむし 」

この囃子詞を日常語にすると、「雨も風も吹いていないのに(殻から)出てこないなら、殻を打ち割ってしまうよ」「出てこい、出てこい、虫よ、虫よ」です。「でんでんむし」とは、殻から顔(=つの・やり)を「出せ出せ虫よ」の意なのです。室町時代の子供たちが唄った「かたつむりへの呼びかけ唄(わらべ唄)」とのことで、当時の習俗を題材とする、この狂言「蝸牛」は「かたつむり」が「でんでんむし」の愛称で呼ばれるようになった由来の一つとされます。

石造りのかたつむり

上 多摩川台公園(東京都大田区田園調布)下 東京農大「食と農の博物館」(東京都世田谷区上用賀)

かたつむりの呼び名

古来、身近で接して親しまれてきた「かたつむり」には様々な呼び名があります。名の由来には諸説ありますが、下記に例示しました。

かたつむり

硬い殻を背負っている虫。「かた」は硬い、「つむり=つぶり」で巻貝(かいつぶり、つぶ)の意。

でんでんむし

「でん」は、殻にこもる虫に「出んか(出てこないか、出てきなさい)」の意で、殻から「出よ、出よ、虫よ」との呼びかけ。「出ない」ではない。

蝸牛(かぎゅう)

蝸はかたつむりとも読む。触覚が牛の角のようで渦巻き状の殻をもつ虫。「咼」は「渦(うず)」の意で、虫偏にして「蝸」と記し「かたつむり」とした。

その他、「マイマイ」「つぶり」「ナメクジ」などとも呼ばれているとのことです.

文部省唱歌 「かたつむり」

今日、親しまれている「かたつむり」の歌は、1911(明治44)年に『尋常小学校唱歌』一年生用として発表されたものです。平安・室町の昔から伝えられてきた、わらべ唄や詩歌などがベースになっていると思われます。