ZIPANG TOKIO 2020「能生白山神社春季大祭 越後三十三観音霊場 古の巡礼護法神とは(その壱)」
毎年4月24日の春季大祭には、国指定重要無形民俗文化財の舞楽が奉納される。
本殿は、室町時代の特色を残す国指定重要文化財。
宝物殿にも国指定重要文化財の木造聖観音立像や船絵馬など多くの文化財があり、裏山の社叢(通称:尾山)には、国の天然記念物に指定されている「姫春蝉」が棲息するなど歴史と自然豊かな地。
能生白山神社はかつて越後三十三観音霊場の巡礼の際に、ここに立ち寄ってから巡礼を始めよとされた神社で、「能生町史下巻・354頁」に次のように書かれている。「この白山神を巡礼護法神としたのについては、天正年中(1573~91)に国府(直江津)在中の真言宗僧番玄が、能生の白山神社の小白山権現(本地聖観音)のご神託を受けて、越後三十三補陀落(観音を祀る霊山)を定めた。」という説があり、又、享和二年(1802)刊「本道案内」には巡礼せんと云う人の始めに、小白山権現に参詣し、それより一番の名立(岩屋堂)に始め、最明寺(下田村)に納むべしとある」と書かれている。
能生白山神社
由来
古代奴奈川族の首長、奴奈川姫を祀って産土神社としたのが始まりと云われており、かつては権現岳にありました。
社伝によれば第十代崇神天皇十年十一月初午の日に始まったとされ、醍醐天皇の命よって作られ927年に完成した「延喜式」に記載されている奴奈川神社にあたるともいわれている。
白山信仰を開いたと云われる泰澄大師(682-767)が奈良時代に加賀白山などを基地として両部習合を行った際、能生白山神社に仏像を安置し、白山信仰を布教し、社号を白山権現に改められたと伝えられている。
本殿は明応年間(1492-1501)に火災で焼失しましたが、永正12年(1515)能登守護畠山義元寄進により再興されました。 その建築様式は、三間社流造の前面に一間の向拝を付けたもので室町時代の特色を示しており、国の重要文化財にも指定された。
江戸時代、元禄2年(1689)7月11日奥の細道の際に松尾芭蕉が髄行僧曾良とともに能生に宿泊しましたが、この際に能生白山神社の「汐路の鐘」を詠んだ句があり、境内にはその句碑が建っている。
「曙や霧にうつまく鐘の声」芭蕉はこの鐘を見ていませんが「人の手を触れずに潮の満ちてくるのに共鳴して鐘が自然に音を出していたと言う」話を聞いただけでこの句を残した。
「 奥の細道むすびの地」大垣に建つ松尾芭蕉翁と門人曾良の銅像。
「蛤の ふたみに別れ 行く秋ぞ」という句を残している。
御祭神
伊弉那岐命
奴奈川姫命
大巳貴命
御神徳
海上安全 厄 除 け 学業成就 五穀豊穣 家内安全 交通安全 子孫繁栄 無病息災
越後三十三観音霊場
末社
厳島神社(弁天岩)
秋葉神社
秋葉神社龍図
能生白山神社春季大祭
白山神社では、毎年4月24日に春季大祭が行われる。
この春祭りを、能生町内に住む人々は「能生まつり」と呼んで親しみ、いく日も前から
楽しみにしている。
「能生まつり」は、その構成が大規模であること、お祭りを行うために奉仕してくれる 人数の多いこと、古い伝統のある舞楽を奉納すること等で近隣には類のないものとなった。
さらにそれまでには、大祭の決定や稚児の決定、舞楽の練習や小泊社人への使い、 能生谷2部落(大王、大導寺)の総代に協力を依頼する等いろいろな準備や後始末があ り、何日もの日数を要し、 特に舞楽の練習は、春休みを利用して行うが十数日もの日数を必要とするほど心身共に大変なことだ。
能生白山神社に伝えられている舞楽は、大阪四天王寺の舞楽を伝承しているものと云われており、 能生の舞楽は永享年代(1429~40)の室町時代の重立衆が四天王寺より習え伝えたとされ、長い年月を経て、中央とは異なる、能生の風土に培われた姿の舞の形で演じられており大祭の日、午前中は獅子舞が御神嚮行列の先払いとして舞われ、午後は特設された水舞台で十一の舞が日没まで演じられ、振舞・候礼・童羅利・地久・泰平楽・弓法楽・児抜頭・輪歌は稚児により、能抜頭・納曽利・陵王は成人男子により演じられる。
大祭スケジュール
夕 祭 4月23日
夕祭の行列 (区民会館から神社へ) 午後3時30分
夕 祭 (宵宮祭) 午後5時
本 祭 4月24日
社参の行列 (区民会館から神社へ) 午前7時半
御庭祓 (舞台修祓) 午前8時頃
七度半の使い (拝殿前) 午前8時頃
御神嚮の打出し (獅子の出の舞) 午前9時頃
御神嚮の打止め (お走り) 午後12時頃
供饌進 (御饌上げ)
黙礼の式 (秋葉神社前)
大 祭 (御旅所)
舞楽十一曲上演 午後1時頃
神霊還御 (御旅帰り)
下向の行列 午後6時頃
重要無形文化財 能生の舞楽
獅子舞・振舞・候礼・童羅利・地久・泰平楽・弓法楽・児抜頭・輪歌・能抜頭・納曽利・陵王
特殊神事
御筒粥祭
この神事はその年の豊凶を占う「粥占い」に相当するもので、小正月に行なわれ「管粥祭」・「筒粥神事」「粥占神事」等といわれる。
長野県諏訪神社(下社)が有名で、出雲大社、千葉県安房神社などでも行なわれている。県内では弥彦神社、分水町乙子神社、柏崎地方で行なわれ、能生ではかって新戸の日吉神社で行なわれていた。
白山神社での始まりは明らかな記録はないが、江戸初期にはすでに行なわれていたようである。
準備:1月7日頃、白米三升(粒選びをした極質の精白米)を石臼で軽く挽き、篩で大粒(早稲)・中粒(中稲)・細粒(晩稲)に分け、各々五合ずつ三個の重箱に入れておく。 葭は前もって比較的太く瑕の無いものを選び、水に漬け、よく煮て髄やあくなどを煮落とし、良質のものを三種類(短=三寸・早稲、中=三寸四分・中稲、長=三寸八分・晩稲)選び、各々の重箱の米粒の上に一本ずつ乗せて置く。(葭は昔、徳合の戸上から奉納されていたという伝説があるが、現在は大王から奉納されている。)
窯修祓:1月14日昼頃、拝殿入口の扉を閉め、窓も布で覆い宮司と総代のみで厳粛に行なう。窯を祓いきよめる修祓後すぐに、本殿前の御手洗水が三升入った鉄の大鍋を囲炉裏にかけ、火は火打石から採火し、薪を燃やす。煮えた湯の中へ重箱内の米・葭を早稲・中稲・晩稲の順にゆっくり入れながら杓子でよくかき混ぜる。通して約1時間半で終わる。
*「準備」・「窯修祓」は非公開のため写真はありません。
宵宮献灯祭(でっかい蝋燭)
14日夜、厄年祈願・無病息災祈願・商売繁盛を願い、大小十本の蝋燭(大は30kg~40kg)が奉納され、大勢の氏子が参拝する。昔は参詣者が大変多く、拝殿・秋葉神社で沢山の氏子が宮篭りした。
曉 祭:15日午前6時、修祓後、宮司により三本の葭が薄い刃物で四分六分に割られる(昔は午前二時頃に行なわれた)。割られた三本の葭を神前に供え、筒粥による作柄等を祭神に報告し、五穀豊穣等を祈念する。祭典終了後、筒粥を一般参詣者に公開する。占いの判断は公表しない。六分の方に詰まった粥の状態により、その年の早稲・中稲・晩稲の作柄・気象天候の予想を、見る人が自分で判断する習わしである。
暁祭に供えられる、3種類の筒粥 宮司により葦が割られる
公開された、御筒粥 割られた葦を見る氏子
祇園祭は京都八坂神社も祭りで、牛頭天王(除疫神)の信仰に始まる。
清和天皇の貞観11年(869)全国に疫病が流行し、その退散を祈願したことがその起源とされている。現在旧能生町では、7月7日に能生・藤後・溝尾の三地区で行なわれているが、「能生町史」によると、500年くらい前までは能生と藤後の間で神輿の受け渡しをし、同一神輿で祇園祭を行なっていたとのことである。
能生の祇園祭は白山神社の末社・八坂神社(祭神・須佐之男命)の祭礼として行なわれる。7月7日早朝、修祓後神輿は白山神社から町の西端西浜町へ運ばれ、現地での修祓後西部青年会の若者連中により担がれ、地区内を練り歩く。昼には中央青年会に、夕方には東部青年会に引き渡される。各々神輿出発前に現地で修祓が行なわれる。夜8時前後に神輿は町中央にある御旅所(江戸時代「天王屋敷」といわれた)へ担ぎ込まれ、神輿が安置されると、御旅所で修祓が行なわれる。御旅所では、翌日から13日まで宮司による祓いが氏子になされ、13日夜8時、神輿は神社へ還御する。この時、沿道の家々では、疫病を置いていかれないように戸を閉じて見送る習わしとなっている。
糸魚川燈籠祭
8月18日の夕刻から夜にかけて行なわれる。大正4年の「白山神社祭典年中行事録」には「悪疫除祈願献燈祭」とあり、赤痢・コレラ等の流行予防を祈願して行なわれてきたようである。その始まりについては記録が無く不明。
「灯ろう」は縦1.2m、横0.6mで、張られた紙の正面には主に武者絵が描かれ、側面には「秋八月」と書かれる。縁には赤紙で額縁様に飾り、長さ2mの竹竿には、細い割竹ヒゴに桜の造花・ススキ・ハギが一緒に結び付けられる。18日夕方6時頃、町東端の東小町から順に誘い合わせ行列し、西端の西浜町に集合する。「灯ろう」の蝋燭に灯りをつけ、全町内揃って行列し神社に向かう。神社では拝殿に各町内会長が整列し、神酒を奉納し修祓をうける。宮司は悪疫流行予防等の祝詞を奏する。祓いを受けた桜の造花は翌日各家庭に配られる。初秋に何故春の桜の造花が使用されるかについては、その理由は不明である。現在、全町の「灯ろう」が御旅所に1週間飾られる。昔は子供も「灯ろう」を作り、大勢参加し賑やかであった。
厳島神社式年祭(弁天様のお開帳)
弁天岩の厳島神社は江戸時代、市杵嶋神社いちきしまじんじゃ、又、岩窟弁財天ともいわれ、白山神社の由緒によると、千年前の昔から六十年毎にお開帳が行なわれてきた(間の三十年毎に行なうものを「中開帳」という)。厳島神社は白山神社の末社で、祭神は市杵嶋姫命いちきまひめのみこと、御神体の御像は弁財天像の姿である。市杵嶋姫・弁財天共に「水」の守り神で、航海安全・豊漁祈願の祭礼として行なわれてきた。御神体・御像を白山神社本殿から厳島神社へ遷し、1週間の期間お祀りし、御像をお開帳する。
「お開帳」は江戸時代、泰澄大師たいちょうだいしの徳を讃える祭典としても行なわれ、大師縁の仏像(聖観音・銅造十一面観音等)も公開された。泰澄大師は加賀白山の開山者で、奈良時代の白山神社に仏像を持ち込み、白山信仰を布教したとされる人である。
還城楽(雅亮会) 輪歌(能生舞楽)
平成18年のお開帳を記念して、大阪四天王寺雅亮会の舞楽と、能生白山神社舞楽の共演が行なわれた。
境内で行なう予定であったが、荒天のためマリンホールを会場として行なわれた。
能生白山神社 宝物殿
重文3件(聖観音立像・能生白山神社海上信仰「船絵馬」・無形民族文化財「能生の舞楽」写真)、県指定4件、市指定7件を展示。他に能生白山神社歴史年表、文化財年表の展示。能生白山神社の伝統と歴史に是非ふれてください。
国指定文化財
木造 聖観音立像
昭和25年8月29日指定
(明治39年国宝指定から指定替えになる)
平安後期の作で、桜材の一木造り。内刳が施され(後頭部から裾にかけて背中を細く刳りとってある)、素地仕げ、像高1m4cmである。頭部の宝髻(頭上の結いあげられた髻)は垂髻(平安後期の低く結って髪束を垂らした形)で、天冠台をつけ、首はやや前屈し、袈裟は左肩より斜めにかかり、両肩より天衣(上半身に着ける衣)は膝まで垂れ、腰に裙子(腰に巻く裳のようなもの)を着ける。
姿勢、服装、腰裳、顔、目、唇等は藤原時代の特徴をよく表し、清楚にして、温和な気品あふれる観音立像である。
頭部の枘穴から仏首が植え付けられた十一面観音が、又、両肩に千手脇手取り付け痕がみつかり、もとは十一面千手観音であったと考えられている。
両上膊以下を亡失する。
全体の虫食い損傷が著しく、昭和28年12月修理がなされ、欠損部(両足首以下)が後補され、台座が新造された。 聖観音は手に蓮茎を持つ観音菩薩である。
能生白山神社本殿(重要文化財)
明応年間(1492~1500)の火災により焼失した社殿を同地に再建したのが、この本殿である。棟札、墨書等から、永正12年(1515)の造立、文禄・寛永・貞享・元禄・文化・明治・大正・昭和年代の大小修理を経ていることが知られる。
三間社は社殿正面の柱間の数が三つのもので一間社、五間社もある。又、流造は前方の屋根が穏やかな反りをもって、流れるように庇の部分に延びてきているもので、
神社形式の最も一般的な形であるが、三間社流造の前面に一間の向拝(礼拝する場所)がつくものは少なく、本殿の形式、規模の大きさは地方では珍しい建造物である。本殿の組物、蟇股等は室町時代の特色(禅宗様式)をよく示し、和様(古来からの様式)を主体とした手法の中に唐様肘木(上からの荷重を支える横木)を使っているのが注目される。
寛永時代、向拝部に海老虹梁(高低差のある所に湾曲して架した化粧梁で、鎌倉時代から禅宗建築に用いられた)が附け加えられ、更に貞享時代には桁以上の軒廻り及び小屋組・床・縁・高欄が一新される等の大修理が行われた。昭和35年~36年の解体修理では、身舎(母屋)の円柱及びその上の組物は造営当初のまま保存された。
この時、旧本殿のものと判断される円柱当り型のある火中した礎石が四個発見されている。白山神社本殿(重要文化財)
昭和33年5月14日指定・三間社流造一間向拝付
杮(薄板)葺附棟札四枚(永正12年、文禄5年、寛永8年、貞享5年)
糸魚川・能生の舞楽(重要無形民俗文化財)
糸魚川・能生の舞楽(重要無形民俗文化財)昭和55年1月28日指定
獅子舞 振舞 候礼 童羅利 地久 能抜頭 泰平楽 納曽利 弓法楽 児抜頭 輪歌 陵王
糸魚川市の糸魚川地区天津神社と能生地区白山神社に伝えられている舞楽は、共に大阪四天王寺の舞楽を伝承しているものと云われ、糸魚川天津神社では4月10日・11日、能生白山神社では4月24日、各々の祭礼の日に境内の舞台で演じられている。
能生の舞楽は室町時代の永享年間(1429~1440)、能生の重立衆が大阪四天王寺より習い伝えたとされ、長い年月を経て、中央とは異なる、能生の風土に培われた姿の舞の形で演じられている。
大祭の日、午前中は獅子舞が御神嚮行列の先払いとして舞われ、午後は特設された水舞台で十一の舞楽が日没まで演じられる。
振舞・候礼・童羅利・地久・泰平楽・弓法楽・児抜頭・輪歌は稚児五人により、能抜頭・納曽利・陵王は成人男子により演じられる。
能生白山神社の海上信仰資料
(重要有形民俗文化財 江戸時代中・後期、明治時代)
昭和62年3月3日指定 船絵馬93点 船額4点
この指定に先立ち、白山神社の拝殿にあった船絵馬が日本で唯一の「はがせ船図絵馬」(明和3年・1766)であることが確認され、昭和44年3月県文化財に指定された。
拝殿外陣の屋根裏にあった大量の船絵馬については、昭和61年詳細な調査が国により行われ、62年、「はがせ船」を含め重要有形民俗文化財の指定となった。
平成2年~4年にわたり奈良県元興寺文化財研究所で修理がなされ、宝物殿に保管されている。97点の中、年号のあるものは37点で、中でも宝暦2年(1752)、同3年、明和年代(1764~72)のもの12点の計14点は現在のところ、青森県深浦町円覚寺所蔵の「北国船」船絵馬(寛永10年・1633)に次いで古い日本の船絵馬である。
「はがせ船」はハガイソ、羽ヶ瀬等とも書かれ、鳥の「羽交」に似ているのでこう呼ばれたといわれる。走行は帆(莚)と櫓で行い、水夫(乗員)を多く必要とした。
能生白山神社社叢(天然記念物):昭和12年12月21日指定
白山神社の裏山は神社の境内で、権現山或いは尾山と言われる。
尾山は地域の人々の篤い信仰心によって守られ、一木一草をも大切にされ、数百年來の自然が保たれて来た。
尾山は標高90m、面積約3.5ヘクタールあり、基岩は輝石安山岩質の集塊岩で、対馬暖流の影響で暖地性樹種(ツバキ、アカガシ、シロダモ等)が多生し、寒地性樹種も混在し、北越海岸地方の植物分布の特徴がはっきり現われている極めて稀な林相を示している。
暖地性シダ類(フモトシダ等)の日本海側に於ける自生地の北限であり、亜熱帯性の昆虫や珍しい陸産貝類(エムラシーボルトコギセル等)も生息している。
能生ヒメハルゼミ発生地(天然記念物):昭和17年10月14日指定
日本に産する蝉は33種あるが、中でもヒメハルゼミは最も小さい仲間に属し、本州中央部より琉球列島に至る地域に分布し、本州では限られた地域にしか生息していない珍しい蝉である。シイ、カシの樹液を吸って生息する為、白山神社々しゃ叢そう(尾山)のアカガシの純林は好生息環境地となっている。能生では神社々叢が唯一の生息地である。神社々叢は日本に於けるヒメハルゼミ発生の北限地であり、又、本州日本海側のヒメハルゼミの発生地としては、当神社々叢の他に兵庫県城崎きのさき温泉付近があるのみである。
小さく細身の蝉で、翅はねは透明で緑色の条斑がみられ、鳴きかたに特徴がある。「音頭取り」と呼ばれるセミに合わせて他のセミが一斉に鳴きだし、全山セミの大合唱となる。
発生期間は7月中旬~8月初旬で、最盛期は7月下旬である。全山の蝉時雨せみしぐれは「残したい日本の音風景100選」(環境庁の公募・平成8年7月)の一つに選ばれている。
能生白山神社「社号額」
交通アクセス
能生白山神社 住所 〒949-1352 新潟県糸魚川市大字能生7238 ℡025-566-3465
車の方
・上越方面からは「弁天大橋東詰」信号を左折して100m
・富山方面から「能生」信号を右折しすぐの十字路を左折。直進1Km
・北陸自動車道 能生ICからは高速を降りて最初の信号を左折
糸魚川市役所能生事務所前信号を右折、そのまま直進
電車の方
・JR能生駅より徒歩20分
今号はここまでといたします。この続きは明日の【その弐】にて紹介いたします。
鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」の明和町 観光大使
協力(順不同・敬称略)
能生白山神社 〒949-1352 新潟県糸魚川市大字能生7238 ℡025-566-3465
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