Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

7300年前、南九州の縄文人を絶滅させた「鬼界アカホヤ噴火」

2022.08.23 12:48

https://www.gentosha.jp/article/16240/ 【7300年前、南九州の縄文人を絶滅させた「鬼界アカホヤ噴火」】より

1707年に起きた「宝永大噴火」以降、沈黙を続けている富士山。専門家の間では、「いつ噴火してもおかしくない」と言われています。もし本当に噴火したら、首都圏はいったいどうなってしまうのか……。いざというときに備えるためにも読んでおきたいのが、「マグマ学」の権威、巽好幸さんの『富士山大噴火と阿蘇山大爆発』です。緻密なデータを駆使し、噴火と地震のメカニズムを徹底解説した本書から、一部をご紹介します。

*   *   *

なぜ「先祖返り」が起きたのか

日本で最後に巨大カルデラ噴火の悲劇が起こったのは、今から7300年前、縄文時代に遡る。縄文時代早期の日本列島では、南九州で成熟した縄文文化が発達していたという。本州ではまだ先の尖った尖底土器を使っていたのに、南九州では既に平底型の土器が使われていたのだ。

尖底土器は、屋外で地面に穴をあけてそこに立てるように置いて使われていたものらしい。

一方、平底土器は住居の中での調理や貯蔵にも使うことができた。すなわち、平底土器の出現は、縄文人のライフスタイルが定住型に変化した証拠だと言われている。他にも南九州では耳栓やツボ型土器などのモダンな道具が使われていた。

ところが、この南九州で、ある時を境に「先祖返り」が起きたのである。

(写真:iStock.com/AZ68)

それまでの最先端の土器は姿を消し、当時本州で使われていた旧式のものが復活したのだ。この突如として消え去った進んだ文化は「もう一つの縄文文化」とも言われている。

これらの最先端縄文土器は、南九州の遺跡では特徴的なオレンジ色の火山灰層の下にだけ見つかる。この火山灰層は、宮崎ではアカホヤ(「ホヤ」は役に立たないものの意味)、人吉ではイモゴと呼ばれていたものだった。

そして東京都立大学(当時)の町田洋氏と群馬大学の新井房夫氏によって、これらはすべて同じ火山灰であることが証明された。その根拠は、火山灰に含まれる鉱物の種類やガラスの屈折率にあった。火山灰の主要な構成要素である火山ガラスは、高温で融けていたマグマが空気に触れることで急速に冷え固まったものである。マグマの化学組成の違いによってガラスの密度や屈折率が異なるのだ。

同様の火山灰は、九州から遠く離れた中部地方でも発見された。そして東北以南の日本列島に広く分布するこの火山灰層の厚さを調べることで、その噴出源が鬼界カルデラであることが突き止められた。この火山灰は「鬼界アカホヤ火山灰(K-Ah)」と呼ばれるようになった。

「もう一つの縄文文化」の上限を定めるこの火山灰の噴出年代は、考古学でも重要だ。

火山灰で「死の世界」に

都立大学(当時)の福沢仁之氏は、若狭湾に臨む三方五湖の一つである水月湖の湖底堆積物の中に、アカホヤ火山灰が含まれることに注目した。

この堆積物は1ミリメートルスケールの明暗が繰り返す縞状の構造を示す。春から秋にかけて大量に発生するプランクトンの死骸が降り積もると、有機物に富む黒っぽい色の層ができる。

一方、白っぽい層は生物質のものではなく、黄砂を含むので、冬から春にできたことになる。つまり、この明暗の縞の1対が1年に相当するのである。年輪と同じようなものだ。

(写真:iStock.com/1971yes)

福沢氏はアカホヤ火山灰の上に積もった堆積物の縞を丹念に数え上げることで、この火山灰が1995年から数えて7325年前に降り積もったことを明らかにしたのだ。

火山灰の噴出年代は放射性炭素の量で決めるのが一般的だが、どうしても誤差やズレが出てくるので、それを補正しなければならない。今では水月湖の年縞とアカホヤ火山灰は、いわば世界の標準時となっている。

さて、この鬼界アカホヤ火山灰は九州南部では30センチメートル以上の厚さがある。

これほどの降灰があると、森林は完全に破壊され、その回復には200年以上の時間が必要だと言われている。

こうなると、縄文人の主要な狩猟ターゲットであったイノシシやシカなど森林動物は姿を消してしまったに違いない。また火山灰が厚く堆積したために、エビやカニなどの底生生物の多くも死滅したであろうし、その連鎖で魚も激減したと思われる。すなわち、鬼界アカホヤ火山灰の降灰によって、南九州の縄文人は食料を調達できなくなったのだ。

https://www.gurutto-oosumi.com/school/oosumishidankai/news/news-2178.html  【縄文文化を壊滅させた「鬼界カルデラ」の大噴火】より

鬼界カルデラは鹿児島県南方およそ50kmの硫黄島と竹島を含むカルデラで,大半が海底にあります。

約7,300年前(約6,300年前とする説もある)に生じた鬼界カルデラの一連の大噴火の際に、最後の大規模火砕流(幸屋火砕流)が推定時速300km位の高速で海上を走り、大隅半島や薩摩半島にまで上陸しました(下図左)。その時のアカホヤと呼ばれる火山灰は東北地方まで達しました(下図右)。

幸屋火砕流は当時住んでいた早期縄文時代の縄文人の生活に大打撃を与えたと考えられています。その後、1,000年近くは無人の地となったようです。

その後に住み着いた前期縄文時代の縄文人は以前とはルーツが異なり、土器の様式も変わりました。

また、大噴火の際に海中に突入した火砕流の一部は大津波を発生させました。津波の推定高さ(下図左)は大隅半島で30mです。津波の痕跡は長崎県や三重県でも確認されました(下図右)。

https://shuchi.php.co.jp/voice/detail/8526 【海の倭人はどこからやって来たのか】より

関裕二著『海洋の日本古代史』

鹿児島から見つかった古い遺跡は、縄文時代に対する見方を変えている。旧石器人は獲物を求めて移動生活をしていたと信じられていたが、縄文早期前葉に、すでに南部九州では安定した定住生活が始まっていたことを示していた。いったい彼らはどこからやってきたのか。そのカギを握るのが、幻の大陸スンダランドの存在である。

※本稿は、関裕二著『海洋の日本古代史』(PHP新書)を一部抜粋・編集したものです。

鹿児島は縄文の海人の発祥地?

日本列島と朝鮮半島の間を、自在に往き来してきた倭の海人(あま)は、いつ、どこからやってきたのだろう。ヒントを握っていたのは、南部九州だ。

南部九州から、常識はずれの古い遺跡が、次々と見つかっている。たとえば、水迫遺跡(鹿児島県指宿市)からは、後期旧石器時代終末(縄文時代に入る直前の約1万5000年前。この時代は獲物を追いかけて移動する生活が続いていたと信じられていた)の竪穴住居跡や道路状遺構、石器製作所、杭列(くいれつ)などが出土している。

「定住化へ向かう集落」ではないかと疑われている。旧石器人は獲物を求めて移動生活をしていたと信じられていたから、これは大発見だった。

縄文時代に対する考え方を変えたのも、鹿児島県の遺跡だった。縄文人が海に出て、沿岸部の貝を採取し、漁撈(ぎょろう)を始めたのは縄文時代早期前半とされていたが、この常識も、鹿児島県の遺跡が覆してしまった。

縄文時代草創期から早期にかけて、鹿児島県霧島市周辺に、突発的に先進の文化が花開いていたことがわかってきた。それが、上野原遺跡(鹿児島県霧島市国分)の発見で、縄文早期前葉に、すでに南部九州では安定した定住生活が始まっていたことを示していた。

日本列島で、いち早く平底の土器(円筒形土器)が使われていたこともわかってきた。縄文時代早期の縄文土器は、底が尖っていた(地面に突き刺した)のである。

上野原遺跡から計52棟の竪穴住居も出土していた。同時代に存在したのは10棟と見られている。日本最古最大のムラが九州にあったのだ。そして、燻製を作る炉穴も作っていた。

幻の大陸スンダランドからやってきた海人たち

では、南部九州になぜ、最先端の文化が花開いていたのだろう。東南アジアの幻の大陸・スンダランドからやってきたのではないかとする説がある。

スンダランドはマレー半島東岸からインドシナ半島にかけて、寒冷期に実在した沖積(ちゅうせき)平野で、地球規模の温暖化によって海水面が上昇して住める土地が減少していった。すると住民の一部が5万〜4万年前に北上し、東アジアや日本列島にたどり着いている。

彼らが日本列島の旧石器人にもなった。さらに、ヴュルム氷期(最終氷期)が終わって海面がさらに上昇すると、スンダランドは水没を始めた。

小田静夫は、この時、スンダランドを脱出した人間の中に、黒潮に乗って直接日本列島にやってきて、南部九州に定住した人びとがいたのではないかと推理している(『遥かなる海上の道』青春出版社)。

証拠になるのが、拵ノ原遺跡(鹿児島県南さつま市)から出土した鋭利な磨製ノミ、拵ノ原型石斧だという。

磨製ノミがあれば、外海を航海できる。丸木舟を外洋航海用に作ることが可能になる。それが1万2000年前ごろの薩摩灰地層の下から見つかっている。石を磨みがいて丸ノミ状にしたもので、丸木舟を作るための海人の貴重な道具だった。

海人の分布域でもある宮崎県、長崎県、沖縄県でもよく似た石斧が見つかっている。しかし、前述した上野原遺跡は突然消滅してしまう。約6400年前に鬼界カルデラの大爆発が起き、アカホヤ火山灰が降り注いだ。この火山爆発は巨大で、西日本の縄文社会に多大な影響を及ぼした。

また、南部九州の縄文人たちは南方に逃れ、一部は日本列島に散らばっていったようだ。

倭の海人の原型は、この時生まれたのだろう。スンダランド沈没時、はるばる黒潮に乗って日本列島にたどり着いた南島の海の民は、せっかく安住の地を見つけたのに、火山の大爆発によって、逃げ惑い、日本列島各地に広がっていったのだろう。

九州西岸から北西部や北部、壱岐、対馬、朝鮮半島最南端に拠点を構えていったにちがいない。こうして、縄文の海人のネットワークは1万年の年月をかけて、形成されていったのである。

九州北西部の人びとは縄文的と指摘されているし、『風土記』は五島列島の人びとの話す言葉は異質で、隼人と似ていると記録していた。

倭の海人は縄文的だったのだ。旧石器時代の終わりから縄文時代の始まるころ、スンダランドから日本列島にたどり着いた海の民が、縄文と倭の海人の先祖だったことになる。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/geosocabst/2021/0/2021_251/_article/-char/ja/ 【長崎県五島列島の層序と堆積年代】より

抄録

五島列島は長崎県本土の西方約100kmに位置し,北東-南西方向に配列する5つの島(福江島,久賀島,奈留島,若松島,中通島)と約140余りの小島からなる.五島列島の基盤岩類は中新世の堆積岩類からなる五島層群(植田,1961)とそれを覆う流紋岩類(五島酸性凝灰岩類)と15Maの花崗岩類(河田ほか,1994)からなる.我々は,五島層群および五島酸性凝灰岩類についての柱状図作成および年代測定により全体の層序を復元した.五島層群下部層(層厚300m+)は緑色火山砕屑岩,中部層(層厚約1000m)は泥岩優勢で,リップルラミナをもつ砂岩泥岩互層,上部層(層厚約1500m)は斜交層理を多く含む厚い砂岩を主体とする砂岩泥岩互層からなり,それを不整合で五島酸性凝灰岩(層厚およそ500-3000m)が覆う.

本研究では,五島層群中の凝灰岩や五島酸性凝灰岩中の流紋岩溶岩や火山砕屑岩についてジルコンのU-Pb年代測定を行った.また,斜交層理の発達する五島層群中の砂岩層において,Dickinson(1983)に基づく砂岩モード組成の測定と古流向測定を行い,堆積物の供給方向を推定した.

(U-Pb年代)五島層群下部層は塊状緑色火山砕屑岩を主体とし,下部は角礫を豊富に含み,上部ほど斜交層理を伴う火山砕屑岩に移り変わる.この火山砕屑岩中には18億から1億年前の年代を示す円磨されたジルコンが多く含まれる.そのうち角張った小さいジルコンから21.7±0.5Ma,22.6±0.5Maが得られた.奈留島では,五島層群中部層の砂岩泥岩互層中の酸性火山灰層が17.66±0.19Maを示した.福江流紋岩類は,流紋岩質の凝灰角礫岩と白色流紋岩を測定し,それぞれ16.36Ma±0.09Ma,16.80±0.36Maを示した.

(砂岩組成)モード組成は五島層群中部層の砂岩は石英約80%,長石約20%,岩片数%,五島層群上部層の砂岩は石英約90%,長石約10%,岩片数%であり,上部層は石英の量比が増加する.

(古流向)五島層群中部層の砂岩は砂泥互層中の比較的薄い砂岩層が多く,リップルラミナを持つものが多い.比較的厚い砂岩は,波高5 cm~30 cmの斜交層理を保存しており,古流向はNWからNEの範囲を示した.五島層群上部層は,厚い層厚をもつ砂岩層が卓越しており,そこで見られる波高20 cm~1,2mの斜交層理が示す古流向はほとんど南から北方向の流れを示した.

(まとめ)五島層群下部層の火山性砕屑岩は,20-18Ma頃,中部層の砂岩泥岩互層は17.5-17Ma,上部層は17-16.5Maに堆積したと考えられる.五島酸性凝灰岩(福江流紋岩類)は2カ所で16.5Maの年代が取得でき,五島層群の砂岩層堆積後に火山活動により形成したと考えられる.また,砂岩モード組成から中部層から上部層にかけて石英の量が増加し,厚い砂の層が形成する.中部層は北方向に幅広い方向の流れでできるが,波高の大きい上部層は南から北への方向を示した.つまり,丁度西南日本の回転時期(星,2018)に堆積場が大きく変化しており,蛇行河川から網状河川-河口デルタ環境への変化が起こったと考えられる.

〈引用文献〉

植田, 1961, 九州大学理学部研究報告 地質学, 5 (2), 51-61. /河田ほか, 1994, 5万分の1地質図幅「福江」調査報告, 地質調査所, 4-32. /Dickinson et al., 1983, GSA Bulletin, 94 (2), 222–235. /星, 2018, 地雑, 124 (9), 675-691.