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五島神楽

2024.08.21 07:23

「五島神楽」に神圖舞には、「峰は八つ門は九つ戸は一つ我が行く先はあららぎが里あららぎが里」という件があり、旧事本紀の天隠山と関係がありそう。

https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/312/00000793 【五島神楽】より

 五島神楽は、長崎県五島列島の各地で伝承され、地元の各神社の祭礼の折などに行われている。これらの神楽は、一間四方の畳二畳分という狭い場所の中をめぐるように舞うもので、二基の太鼓と笛、時に鉦の演奏にのせて舞われている。

 五島列島は、長崎市の西方約一〇〇キロメートルにある一四〇ほどの島々で、一市一二町がある。この地域の神楽に関しては、一七世紀に長刀舞【なぎなたまい】を舞ったことや江戸時代に十二番神楽が上演された記録が残っている。かつては列島全体で神楽が伝承されたが、現在、神楽が演じられる神社は、福江【ふくえ】市、北松浦郡宇久町【うくまち】、南松浦郡の富江町【とみえちょう】、玉之浦町【たまのうらちょう】、岐宿町【きしゅくちょう】、上五島町【かみごとうちょう】、新魚目町【しんうおのめちょう】、有川町【ありかわちょう】の一市七町で確認されている。

 五島神楽のうち上五島町と新魚目町を中心に伝承されている神楽は、上五島【かみごとう】神楽として昭和五十六年(一九八一)に長崎県の無形民俗文化財に指定されている。上五島神楽は、毎年、両町内の一四社の祭礼をはじめ有川町の三社の祭礼のほか、参詣人の個人的祈願の際にも希望に応じて上演されている。上五島町の青方【あおかた】神社では、旧暦一月一日の春祭り、新暦七月十六日と十七日の祇園祭、新暦十一月二日と三日の例大祭で公開されている。同社拝殿は二〇畳ほどの畳敷きで、その中央のやや本殿寄り畳二畳分の広さが板敷【いたじき】になっていてマイイタと呼ばれている。神楽は基本的にマイイタの中だけで舞われる。青方神社の秋の例大祭では、十一月二日に地区内の御輿渡御【みこしとぎょ】の後で、夜の七時ころから九時三〇分ころと翌三日の午前一一時ころから一二時ころに神楽が行われる。本殿に向かって右側に二基の太鼓を据え、それぞれ打ち手がつき、別に笛がいる。上五島神楽は三〇演目を伝承し、二日の夜は、そのうち一五、六演目が舞われる。一人舞が多いが二人、四人、五人の舞もある。手に御幣【ごへい】や鈴、扇などを持ち、狭いマイイタの中を、ぐるぐるとめぐる舞が多い。最初に場を浄める「座祓【ざはらい】」が舞われる。両手に御幣を持った舞である。このような儀式的な演目の間に、米をいれた盆を左右の手のひらで支え、盆の米がこぼれないように急速に回転する曲芸的な「折敷舞【おしきまい】」なども舞われ、最後は獅子舞で、周囲の大勢の子どもたちから大きな掛け声が掛かる。 

https://ameblo.jp/shiogama4081121/entry-12547258830.html 【古代の叡智「天隠山(あめのかぐやま)理論」】より

 『謎の根本聖典 先代旧事本紀大成経(徳間書店)』の著者、後藤隆さんは、『先代旧事本紀大成経』――以下『大成経』――を貫く一本の背骨のような理論を、便宜上、「天隠山(あめのかぐやま)理論」と名づけております。通常の『先代旧事本紀』で「天香語山」と表記されるカグヤマを『大成経』では「天隠山」と表記しているわけですが、『大成経』の思想上、この漢字表記には重大な意味がこめられております。『大成経』には「天隠山八十万里、地水湛山五十万里」という一文があり、後藤さんによれば「つまり、真ん中に高さ八十万里の天隠山があり、その周囲を高さ五十万里の地水湛山(くにのみずたたえやま)がとりまいているという」とのことでした。後藤さんは引き続き次のように述べます。

――引用:前掲書――

 この構造を頭に入れておいていただき、地水湛山を東西南北に分けたものをイメージしていただきたい。中心部がひときわ高く、その四方にそれよりは低い四つの山が取り囲んでいる。それはまさにアンコールワットの構造そのままではないか。

 実は日本の前方後円墳も同じものを表している。

 前方後円墳というのは、三角形の先端に丸を突き刺したようなかたちをしているが、これは天隠山を中心軸とした宇宙の回転を表しているのだ。

 『旧事本紀』には、「天隠山八十万里の中ほど、四十万里は天に隠されている」と記されている。実は天隠山という名の由来もここにある。天に上のほうが隠されている山だから、天に隠れる山ということで「天隠山」というわけだ。

 天の動きは『旧事本紀』を解読して求められる乱数表によって割り出すことができるので、前方後円墳のようなものを作り、天の運行を当てはめていくと、さまざまなことを占うことができる。天の巡りと地の数字を合わせ、この年はどういう年かということを知り、それに従って神事を決め、祭事を行うことができるということだ。

 この前方後円墳を立体的に立ち上げ、天に相当する円の部分を省略したものが、エジプトのピラミッドである。

 後藤さんが言う『旧事本紀』とは『大成経』のことです。前に触れましたが、後藤さんはいわゆる『先代旧事本紀』については「10巻本」と表現し、これはあくまで『大成経』の「ダイジェスト版」に過ぎないとしております。つまり72巻本の『大成経』こそが『旧事本紀』の完本であるから、これをごくあたりまえに「旧事本紀」と表現する姿勢で稿を進めているのです。

 また、ここでアンコールワットやらピラミッドやらが出てきて面食らった方もいるかもしれませんが、これは後藤さんの考える「天隠山理論」が「森羅万象の発生理論」として「普遍的な学問」であるという前提があるためです。 前に触れましたが、後藤さんは『大成経』の実質編纂者と考えられる「秦河勝(はたのかわかつ)」、すなわち「秦氏」が、自称どおりの「秦(しん)の始皇帝」直系一族であろうことはもちろん、さらにその根源をたどれば、はるか古代にエジプトやバビロニアも恐れたという「ヒッタイト・ハッタイト」帝国の、特に「ハッタイト民族」ではなかったか、と考えているのです。

 ヒッタイト・ハッタイト帝国は、ヒッタイト民族とハッタイト民族の両者が一つとなって作り上げた帝国とのことです。ヒッタイト民族は、「青銅」が主流の時代にあって、世界で初めて「鉄器」を発明し、その技術によって強力な軍事力を有したといい、ハッタイト民族は高度な学問を有していたのだそうです。この帝国は紀元前1200年頃から衰退し始め、姿を消してしまったと言われております。後藤さんによれば、「帝国が崩壊したといっても、何か大きな戦いがあって滅ぼされたというわけではない」とのことで、彼等は「各地に散っていき、結果として帝国は衰退したと考えられる」のだそうです。そして後藤さんはこう続けます。

――引用――

 その各地に散っていった中の一つが中国を統一し、秦の始皇帝を輩出したのだろう。そしてその母体となったのは、ヒッタイトではなくハッタイト民族だと思っている。

 技術は常に新しい発見に駆逐されていくが、学問は違う。しかもそれが超古代の叡智に繋がるものであれば、決してほろびることはない。学問を持っていたハッタイト民族は、どこへ流れていっても、その国の重要なポストに就けたはずだ。

 世界中に散っても尚各地で存在感のあるユダヤ人を思えば、その理屈はわかるような気がします。正直なところ、このあたり私も詳しくはないのですが、後藤さんの学生の頃は「ヒッタイト・ハッタイト」文明として学んでいたそうで、最近の教科書では「ハッタイト」の名が消え、ただの「ヒッタイト」文明になってしまっているのだそうです。いずれ、その高度な学問を有する「ハッタイト」民族の末裔が「秦の始皇帝」であり、秦氏であったのだろう、というのが後藤さんの仮説なのです。

 さて、「天隠山」を図式化して考えるならば、まず高さ八十万里の円錐形の主峰があり、その周囲に三十万里低い山々が取り巻いているということになります。そして、その主峰の上半分は「天」という名の球体に隠れているとのことです。

 言うなれば、前方後円墳の後円部分を上にして立体的立ちあがらせて、いわば巨大なテルテル坊主、あるいは一昔前の空気銃の弾のような姿とでも言えばいいのでしょうか。テルテル坊主の頭が「天」すなわち宇宙空間にあたるわけですが、これが回転しているのだそうです。要はそれが太陽も含む星座の動きを表しているということになるのでしょうか。この回転の動きは、『大成経』解読の結果に求められる乱数表によって割り出すことが出来るとのことで、それによってさまざまなことを占うことも出来るのだそうです。

 ここで私達が意識しておきたいのは、当然ながら推古帝時代にはまだコペルニクスの「地動説」が存在していなかったということです。『大成経』が仮に17世紀の創作だとしても、地動説が公に受け入れられ、日本に伝わったのは、一般に八代将軍吉宗の時代と言われておりますので、『大成経』の焚書事件よりもやや遅れた時代になります。したがってこのテルテル坊主の図式は、あくまで天空が回る「天動説」の感覚で受け止めておくことが適当かもしれません。

 もちろん、後藤さんの言葉を信じるならば「天隠山理論」は現代科学よりも優れたものであるはずなので、そういう意味ではこの理論を理解出来たならば地動説どころか宇宙の起源であるビッグバンに至るまでも全て因果づけることが出来るはずです。言うなれば、この理論を極めることは物理学に言う万物を知り得る仮想生物「ラプラスの魔物」に近づく術でもあるのでしょう。ただ、これは古代の叡智である一方で一つの宗教であり、はたまたイデオロギーにもなり得るものです。したがって、それがどのようなものか云々について、本来、当該書籍“一愛読者”に過ぎない私が一朝一夕の知識で述べることは、数字に弱い「ハクション大魔王」のような私が「相対性理論」について述べること以上に大変おこがましい話でもあります。正直なところ、出来れば触れるのを避けておきたい部分でもあるのですが、そう言ってしまっては話が進まないので、さしあたりその風景に触れている次第です。今触れていることは、あくまで「天隠山理論」に対して“私なり”に受け止めた“風景”であるということを念押ししておきます。

 このように言い訳がましい補足をしてでもこの理論に触れておきたかったのは、このような思想を脈々と伝え続けてきたのが何者であったか、ということを少しでも絞り込みたかったからに他なりません。

 『大成経』の序文を信じるならば、これは推古天皇の元、聖徳太子と蘇我馬子、そして太子のブレーンとされる秦河勝が主役であることになります。

 おおよそ、そのとおりだと思います。思うに、特にこの秦河勝という部分は信頼していいのではないでしょうか。

 しかし、一般的な『先代旧事本紀』、つまり後藤さんのいうダイジェスト版の『10巻本』については、近世の研究によってその内容からまるっきり反対の第三勢力である「物部氏」の末裔が黒幕であろうとされております。どんどん混乱していきそうにも見えますが、私の頭の中では両者にさほどの矛盾はありません。