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古代人と巨石

2022.08.25 08:44

https://www.youtube.com/watch?v=GDksvkv9rAY

1【古代ピラミッド】米神山 超古代文明!世界最古のピラミッドは日本にある!2万3千年前の巨石の謎 / Japanese ancient civilization

大分県宇佐市安心院町熊 にある米神山に登ってきました。

ここは、麓に佐田京石という巨石のストーンサークルがあり、その山頂には環状列石が設置されています。

途中にも巨石が人工的に南西に向けられ、何かの受信基地のように感じました。

日本には、はるか太古に巨石の文明がありました。その痕跡から古代の超文明の高度なテクノロジーを登山しながら考察していきます。

世の中の見識や技術が発展しあらゆることが解明されようとしています。しかしこの日本の本当の歴史を知る人は少なく、未だ手付かずな秘境が点在しています。全世界の中でもこの日本には最古の歴史が眠っています。そしてその痕跡を追い求め秘境を探検していきます。


https://www.megalithmury.com/2016/11/blog-post.html 【古代人は巨石をどのように運んだのですか?】より

「歴史観の形成」の授業でいただいた質問にお応えします。

"疑問としては巨石をどのように運び出し、祀ったのかということです。"(2回生の方より)

巨石の運び方

運び出し方について、最も基本に忠実な説明をされているのが下記の研究です。

中根洋治ほか「運ばれた巨石に関する一考察」(土木学会第63回年次学術講演会、2008年発表)

http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00035/2008/63-04/63-04-0190.pdf

巨石の移動・運搬は超技術ではなく、古代人の多大かつ地道な努力により説明できる現象です。説明はできますが、いま目の前にある巨石が実際に古代人が運んだ産物なのか、それとも運ばれたわけではなく、自然の力でそこに行きついた産物なのかは、また別の議論になるので注意が必要です。

その岩石が、自然そのままのものであるのか、人工的にもってきたり組み合わせたものであるのか。この結論をはっきり出したいなら、必ず理化学的な調査が必要です。

でも、理化学的な調査には専用の装置と調査費がかかるため、一個人には大変です。

地学的な知識で巨石の人工説/自然説を推定する

そこで、見た目からある程度の推定ができると良いですね。

見た目からは、自然とも人工とも即断できないことが多いですが、地学的な知識をある程度持っていれば、推定することはできます。

その点で、 下記の研究は巨石の成因の地学的裏付けを学ぶにあたって参考になります。

吉村光敏「信仰巨石の地学観察技能講座」(2016年発表)

http://chibataki.moo.jp/kyosekitigaku/slideindex.html

巨石が織りなす光景を見て、それを人工の産物と感じるか、自然の産物と見るかは、ひとえに受け取り側の「常識」に委ねられています。

「常識」を飛び超えた瞬間、その人にとって「これは自然では説明できない=人工である」という図式が成り立つわけですから。

であるなら、その「常識」を形作る知識は事前に広げておくことが求められると思います。

個人的には、各地の巨石を巡れば巡るほど、自然が織りなす光景は、人間の常識や経験則なんてものを軽々と凌駕していることに気づけると思います。

古地磁気調査の取り扱いは注意

一方で、巨石の人工設置説を証明する方法として、古地磁気調査がしばしば援用されます。

下記の研究が著名ではないでしょうか。

森永速男「雑感 古地磁気研究が縁で関わった『巨石文化!?』について考える」(『文化財と探査』6巻1号、2005年発表を『イワクラ』4号に掲載したもの)

http://iwakura.main.jp/magazine/4-10.pdf

古地磁気とは、火山岩が冷却される時に、当時の地球の磁場と同じ磁気が岩石に帯びたもので、磁気の向きは地球の磁場と同様に一定の向きに揃います。

つまり、岩石が冷却後ずっとそのままその場所にあるのなら、岩石の磁場は一定の方向に向いたままと仮定でき、一方で、岩石の磁場の向きがバラバラだったり自然の磁場の向きに逆らうものであれば、その岩石は人工的に運搬・設置された証拠になるのではという見方をします。

この論理に立って、高知県唐人駄馬の巨石群や、岐阜県の金山巨石群、奈良県の鍋倉渓、岡山県の高島・白石島巨石群の4か所が上記論文で取り上げられていて、そのうち前3者について、磁気の方向が一定しないことから、岩石同士が「回転・移動」していることは証明されたといいます。

この「回転・移動」が曲者です。さすが上記論文の森永氏は職業研究者だけあって全編にわたって理性的な記述にとどめていますが、「回転・移動」の動作主が人間か自然かについては一言も決めつけていません。

それは当然、森永氏は巨石群の歴史学的な研究者ではないからです。この態度が学問的態度というものです。

しかも、高島・白石島の例からは、冷却時の古地磁気が後世、二次的な原因により攪乱されてしまう岩石もあることを指摘しており、あらゆる火山岩がこの方法で「回転・移動の有無」を明らかにするわけでもないことを記しています。巨石人工設置説に立つ方々は、あまりこの点に触れませんが・・・。

そもそも、この古地磁気調査の安易な援用を気をつけなければいけないのは、それぞれの立地や地理的環境を考慮していないことでしょう。

冷却時の岩石が、ずっとそのままの位置にあるだけが自然のままとは言えず、後世の自然災害により岩石が二次的に動くのも自然の範疇であり、立地的に傾斜している場所であれば、地面から浮いた巨石が別の巨石の上に乗りかかったり、より傾斜下に移動することも自然の範疇でしょう。

実際、岐阜県の金山巨石群は、立地的に地滑りで原位置を動いた自然配置の巨石群の可能性が指摘されており(宮下敦「岩屋岩蔭遺跡」http://earthprobe.blue.coocan.jp/megalith/iwaya.html、2016年11月2日閲覧)、古地磁気で磁気の向きが一定ではないことが、すなわち人為を証明するわけではないことを押さえておかないといけません。

私の疑問としては、「自然のまま長年の時を経た露岩群=磁気の向きが一定になる」 という仮定が正しいかということです。

サンプル抜き取り調査という意味で、自然の露岩群に対しても何例か古地磁気調査をかけてみてはいかがでしょうか?

その結果と、人工的に配置した岩石群との結果との間に有意差があるかをまず明らかにするべきでしょう。

"考古学抜き"で巨石遺構を議論することはありえない

文献が残っていない時代の巨石人工移動・運搬を説明するには、考古学抜きでの議論はありえません。

上記の巨石群を縄文時代の巨石文明の例と主張する方々を見かけることがありますが、共通して言えるのは、縄文時代を専門とする考古学者が介在しないまま、縄文時代の「遺跡」として語られている異様さです。

縄文時代がどういう時代か、どのような遺構と遺物に基づいている時代なのか、熟知して語られているとは思えません。

少なくとも、縄文時代という一つの時代と、日本列島というひとくくりの空間幅で語られるほど安易なものではないのです。それこそ、数多の考古学の成果が蓄積されています。

私ですら専門は古墳時代なので、現在の考古学の縄文時代研究について熟知している人間ではないことを自覚しています。だから私も、縄文時代の岩石信仰の有無については保留の立場です。

考古学は、人が活動した痕跡である遺構・遺物が確認されて、初めて研究できます。

文献が登場する奈良時代以降であれば、文章に書かれてさえあれば、現地に痕跡がなくても、人の思いを抜き出すことができますが、古墳時代以前は文字資料が激減するため、遺構と遺物に依拠しなければいけません。

そのため、まず遺構・遺物が巨石群から見つかることが大前提です。見つかっていなければ、そもそも人が関わった岩石であることを説明できないからです。

遺構・遺物が見つかっただけでも、まだまだです。巨石との関連がまだ説明されていないことに気づかないといけません。

そこからの分析方法はケースバイケースです。

岩石そのものが自然石でも、それを据えつけた場所・地層自体が整地されていないか、噛ませ石など周囲の痕跡がないか、岩石自体に運搬・移動の痕跡を見つけるかなど。

私は、巨石であればあるほど、それを無理に移動したことによる考古学的痕跡が残るのではないかと思っています。

つまり、逆にそれが確認できないということは、人為性は疑わしいとも思っています。

ただし、私はそう判断できるほど理系の専門を歩んでいないので、今後、そのようなアプローチから研究される方が現われることを待っています。

私は、私が活躍できるであろうアプローチで岩石信仰の研究を研鑽していきます。


https://www.megalithmury.com/2022/01/kyoisi-kosiki.html  【佐田の京石と熊のこしき石(大分県宇佐市)】より

京石(きょういし)

安心院町の佐田地区にある京石なので、佐田京石の名がある。

元来、京石は9本露出していたが、平成3年に水田の整備作業をしていたところ、地中から19本の棒状石が新たに見つかった。

平成に見つかった京石を立てたもの。「ドルメン」と形容された岩石。

これら19本は、平成4年に「平成の京石」として、石を立ててある状態に「復元」された。実際に今のような形で立っていたかは不明な点が残る。

神々がこの地に都を作ろうとし、米神山から100本の石を麓に飛ばそうとしたが、99本目でみだりに騒ぐ者がいたため、そこで作業は中断され、都が建設されることはなかったという。麓に残る京石はその名残という。

京石の名は、この石の上に立つと京が見えるという由来のほか、清ら石、経石という通称もある。

経石が京石の名の由来とする傍証として、京石の下から「写経」あるいは「写経の入った石筒」あるいは「一字一石経」のほか、京石からは弥生時代の土器片が見つかったという情報がある。

しかし、これらの遺物に関する調査報告書などの一次情報をまだ突き止められておらず、実際は不明点が残る。

一字一石経は鎌倉時代末期~江戸時代の間に盛行したとされ、埋納形態としては以下のパターンがある(大塚初重・戸沢充則編『最新 日本考古学用語辞典』柏書房、1996年)。

土坑内に直接埋納。甕に入れた上で、その甕を埋納。土坑内に石室を造り、そこに埋納。

埋納地表面に碑や石仏や供養塔を設置する。京石は、最後者のパターンになるだろうか。

こしき石(こしきいわ)

こしき石は、暴風石の別称を持つ。

立石の上に乗っている蓋石を動かすと、暴風あるいは祟りが起こるといわれる。また、終戦後までは豊作祈願のためのお供えがされていたという。

こしき石

こしき石(写真左下)と背後の米神山

こしき石は、安心院町の熊地区の田んぼの中に所在し、斜めに立つ立石の景観をなす。

その立石の向く方向に米神山がそびえ、米神山頂上から山腹の「日ノ神谷」「月ノ神谷」と呼ばれる山腹にかけて複数の岩群の存在が確認されている。

昭和時代後期の超古代文明ブームの中で米神山の巨石群は注目されるようになり、現在も地元の観光施策の一環で毎年3月に「米神山巨石祭」が開催されている。

(佐田の京石の説明看板に「ペトログラフ」「ドルメン」などの文字が見えるのもこの影響だろう)

米神山の現地看板。未踏。

米神山の南に佐田の京石、そして北にこしき石を擁することから、京石、こしき石と合わせて米神山が語られることが多い。


https://www.megalithmury.com/2016/03/blog-post_3.html 【日本の岩石信仰は、いつどのように始まったのか?】より

岩石信仰の始まりはいつか?

これは大きなテーマです。

しばしば、縄文時代から巨石信仰があったという前提で話をされている方や、超古代文明・古史古伝・神代文字・ペトログリフ・ペトログラフ・日本ピラミッドと絡めて、後代に下る磐座を取り上げられる方がいます。

このあたりについての調査はかつて数年自分なりに納得するまで追究したことがありますが、結局確たる根拠を掴むことはできなかった思い出があります。

確たる根拠がないのに、それを前提として語ることは、歴史への捏造にもつながるわけですから、歴史を語る者は自制するべきでしょう。

今回は、あくまでも考古学的根拠からこのテーマについて回答しようと思います。

回答内容は地味に見えるかもしれません。でも、おおむね歴史というのはそういう性質のものだと思います。地味と片付けられがちなものに、どう目線を向けるかです。

ひとつ間違いなく言えるのは、文字が登場する前の時代から岩石信仰はあったということです。

文字がない以上、土の中から出てきた石の遺物や遺構を、考古学者がどのように判断するかにかかっています。

私は、次の3つのパターンがあると考えています。

(1)自然石を信仰した場合

(2)人工的に整えた岩石を信仰した場合

(3)岩石を使って、別のものを信仰した場合

考古学的に、日本最古と言えるのは(2)か(3)のパターンでしょうか。

旧石器時代の岩石信仰の有無

最古級の考古学的発見としては、後期旧石器時代(約20000~15000年前)に岩偶が出土した事例があります(大分県岩戸遺跡出土例)。

岩偶は、自然石の表面に刻み線を入れて人間などの生物の姿を表現した遺物とされています。

岩戸遺跡の出土例も線刻が施されています。

これが人を模したものであるなら、当時、石を加工しようとここまで手間をかけて作ったものが単なる人形であるとは言い切れず、信仰に関わるものだったのではないかと推測されるわけです。

当時は打製石器の時代でしたから、石器は「割る・欠く」だけでした。

その時代に「人の形に整える」「線を彫る」までしたことで、単なる石器を超えた手の掛けよう、力の入れようが見られます。

これは私の考えですが、当時で言う「最先端技術」を込めた石に、信仰の意味を持たせたというのはあながちおかしい論理ではないと思います。

(時代は下りますが、弥生時代の銅鐸や、古墳時代の須恵器がそれぞれの時代で祭りの道具として神聖視された理由も、それらが当時最高の技術を持って作られた最先端の品だったからとする考えが考古学の研究であります)

つまり、最古級の岩石信仰が自然石ではなく人工の岩石(岩偶)だったとするならば、その理由はここにあったかもしれないということです。

ただし、この岩偶が本当に人間を模したものかは、線刻がまだ曖昧な部分もあるので分かりません。

また、石の人形だからといって、イコール(2)の信仰の対象かとも言い切れません。(3)のようにお祭りに使う道具として人形を作った可能性も否定できません。

しかも、自然石を当時の人々が信仰した証拠がまだないからと言って、自然石への信仰がなかったという証明にもならないでしょう。

つまり、まだまだ旧石器時代の信仰については不明点が多いのです。だから、岩石信仰の始まりというテーマは語りにくいのですね。

縄文時代の岩石信仰について

そこで縄文時代になるとどうかという話ですが、岩偶や岩版と言われる線刻遺物の類の出土が増加します。

ここまで来ると明らかに人を模したものが登場するのですが、旧石器時代の岩偶と同じように、石の人形=信仰とは言い切れないものがあります。

さて、縄文時代早期になると、集石土壙墓が登場します。

これは、地面に穴を掘ってその下に死者を葬るというお墓の一種で、その墓穴を覆った土の上に小石が集められています。

お墓と言うのは、亡くなった人を葬ってその心を鎮め、死者の心を祖先の霊に転化させ、自分たち子孫をいろいろな面で守護する存在に導く施設と考えられます。

お墓は葬儀の場所ということで、祭祀行為とは別物に思われがちなのですが、祖霊を対象にまつるという点で、お墓も立派な祭祀施設です。

そんなお墓に、小石を集めて地表に露出させることで、ここが祖先の眠る場だとわかるようにしたのでしょう。

土を埋めるだけでいいはずなのに、あえて地表面にだけ岩石を集めた。この心の動きをどうとらえるか。

土は流され、木は腐りますが、岩石は土より重くて流されにくく、木より見た目に変化が出ません(朽ちない)。

神道考古学の大場磐雄先生いわく、岩石は長年の風化侵食にも耐え現状をとどめるので、「恒久不変の象徴」「永久性」を持つ素材だとかつて述べられました。

こういった実用的な側面が、他の素材ではなく岩石を墓標とした理由の1つなのかもしれません。

しかし、岩石を一種の墓標としたことで、岩石はおのずと、祖先の霊と交流できる場所の意味を持ち、信仰の要素を帯びます。

墓標は「(3)岩石を使って、別のものを信仰した場合」です。

集石を通して、祖先の霊をまつったのです。

岩石そのものをまつっているわけではないので、はじめは実用的な理由で人工的に岩石を並べて、信仰の道具としたのだと言えます。

というわけで、岩石そのものへの信仰ではないのですが、岩石を使って信仰をしていたことは縄文時代早期には認めて良いと私も思います。

自然石信仰が始まった時期

ところで、おそらく岩石信仰という言葉でイメージされやすいのは、「(1)自然石を信仰した場合」のパターンなのではないかと思います。

これの最古級はどこまで遡れるかという話ですが、考古学者によって見解が分かれていて、縄文時代という人と、弥生時代という人と、古墳時代からだという人がいます。

・縄文時代派

縄文時代の集落遺跡から丸い石(おそらく川の浸食作用で磨かれた自然石)が固まって出土する例が複数見られる。この丸石を信仰の石とみなす説がある(ただしそれ以上の論が発展しない)

・弥生時代派

巨大な自然石や岩肌の近くから青銅祭器(銅鐸など)が発見される場合があり、これらの岩石が青銅祭器を奉られる信仰対象だったとする説がある。しかし、これらの青銅祭器は中世の再埋納の痕跡が見つかっている例もあることから、弥生時代の配置のままではないとする反論も根強く有力。

広島県の木の宗山銅鐸出土地。後世、この巨石に再埋納した説が有力。

・古墳時代派

奈良県三輪山の磐座、福岡県沖ノ島の磐座、島根県大船山の石神など、自然石を神の座る場所や神そのものとしてまつる遺跡が各地で見つかっています。これに反対する研究者はほぼおらず、定説化している。

奈良県三輪山の山ノ神遺跡。古墳時代の磐座遺跡として有名。

よって、自然石への信仰時期について全員が文句なく従うのは古墳時代前期です。

古事記に「磐座」という岩石信仰の記述が登場する300年前ということで、学術的にはそんなに古くは遡れていないのが現状です。

でも、自然の岩石というのは、言葉の通り「自然のまま」のため、科学的に一番証明しにくいものだと思います。

考古学は岩石に限らず何でもそうですが、土の中から見つからない物は「ない」ものとして判断するしかないので、これは逆に言えば「まだわからないロマンの部分」で後世の研究の楽しみに任せられて、それはそれでいいのではないでしょうかと私は思います。

このように、岩石信仰の始まりというテーマだけでも、将来的な研究の余地は大きく残されています。