【牛込②】大久保前町
町名:大久保前町
読み方:おおくぼまえちょう Ōkubo-Maechō
区分:町丁
起立:江戸期
廃止:1872(明治5)年
冠称:「大久保」
後身:大久保余丁町
現町名:新宿区余丁町
概要:『備考』に「往古に武州豊島郡野方領市谷村の由」とある。はじめ小宮山伝三郎の屋敷地であったが、1699(元禄12)年に旗本3人に給され、百姓町屋を開くことを許された。1713(正徳3)年、町奉行支配となる(備考)。1828(文政11)年の家数9軒(町方書上)。
慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1872(明治5)年、大久保余丁町に編入となり消滅。なお、『角川日本地名大辞典』には「翌(明治)6年大久保前町を分離」とあるが、その後の明治期の地図を見ても当町は大久保余丁町町域にある。
なお、『東亰明細圖』(1876(明治9)年)によると、西光庵より西、稲荷鬼王神社より東に「大久保前町」とあるが、「大久保前町」は1872(明治5)年に大久保余丁町に併合されているので別物か誤謬かと思われる(『牛込市谷大久保繪圖』による「大久保村丁ヤ」、「町ヤ」の間違いか)。『安政改正御江戸大絵図』には抜弁天の東に「大クホマヘ丁」とある。
なお、『東亰明細圖』にはその先の現在の新宿職安通りが描かれており、通りを中心にその南北に大久保簞笥町、さらに大久保百人町についても北・中・南の3町に分けて記載されている。これらの記載は『内藤新宿新屋敷辺之図』で見ることが出来るが、他の地図や資料に記載されていないため、大変貴重ではあるが真偽は不明。
何故なら、大久保百人町は1874(明治7)年に起立したが、1878(明治11)年には郡区町村編制法施行に伴い、南豊島郡大久保村大字大久保百人町(その後、大字百人町)とされてしまった。その際に南通、仲通、仲通北側、北通の小字を設けたが、一度も北百人町、中百人町、南百人町と名乗ったことはない。本来なら武家地は町名を持たなかったはずだが、俗称は数えきれないほど存在していたため、北・中・南の百人町と大久保簞笥町も同様ではないかと見ている。
撮影場所:大久保前町