Okinawa 沖縄 #2 Day 206 (27/08/22) 西原町 (5) Kaneku Hamlet 兼久集落
西原町 兼久集落 (かねく、カニク)
- 兼久公民館、西原兼久劇場跡
- 我謝ガニク (馬場) 跡
- 旧沖縄製糖株式会社工場跡
- 工場社宅跡
- 旧集落跡
- 兼久山 (カニクヤマ)
- 宿道
- 兼久船揚場跡
- 尚家御殿原跡
- ソニー坊や像
先日、右脚が肉離れとなり集落巡りは少し休んで、8月24日に再開した。その日は問題なく終わったのだが、まだ少し張っているようだ。今日は坂道が少ない訪問地にする。西原町の集落巡りはニ年前の2020年5月24から6月4日にかけて行ったのだが、まだ集落巡りを始めたばかりで、資料も参考にせず、あまり深掘りは出来なかった。もう一度、この西原町の集落を資料を調べて巡ることにした。今日は兼久集落、小那覇を散策する。兼久集落には文化財が残っておらず、2年前の西原町集落巡りでは訪れていなかった地域。今日の天気予報は午後から雨。沖縄の天気予報は当てにならず、雨予報で外出を断念した際に全く雨が降らないことが多かった。雨予報の的中率は50%ぐらいのように思うので出発。
西原町 兼久集落 (かねく、カニク)
兼久は200年ほど前に我謝から四、五軒の農家が兼久に分家した事に始まる。 最初に我謝から兼久に移り住んだのは、中城間切添石村の掟加勢を勤めていたハルヤー (畑屋) 仲座と言われている。その後、明治期にナーカ宮平、チーヤー仲大田良、玉城などが移り住むようになった。明治41年には、沖縄で最初の近代的製糖工場が設置され、次第に他町村から人々が職を求め、集まり住み始めた。
兼久は元々は我謝に属していたので、我謝と兼久を合わせた人口データが下のグラフで、我謝も兼久と同じような傾向にある。現在の兼久人口は本村だった我謝と比較すると、我謝:兼久= 6:4となり、兼久人口増加割合が大きい。
西原町の他の地域との比較では、独立行政区になって以来、ほぼ真ん中に位置している。本村の我謝と合計すると、西原町では最も人口が多い地域となっている。
昭和19年の十・十空襲で、敵機の爆撃を受け製糖工場は焼失。この空襲の後、住民は山原へ疎開したが、沖縄戦での犠牲者は195人で集落人口の41.5%におよんでいた。一家全滅は12戸で当時の世帯の13.3%にもなる。生存者のうち6.5%は戦争孤児となっていた。
この兼久は、我謝からの分家や他町村からの転入などで形成された集落のため、古い集落のように字の守護神を祀っている御嶽や拝所、井泉などはない。
兼久集落訪問ログ
兼久公民館、西原兼久劇場跡
兼久の公民館は国道329号から路地を入った所にある。この奥には製糖工場があり、戦前は西原町の中心の賑やかな所だった。ここにある公民館が以前の村屋であったかどうかはわからないのだが、ここには西原兼久劇場があったそうだ。
戦後の復興期、1954年以前に開場した様だ。その後、西原劇場と名を変え、少し北に移動して、隣村の与那城に移動して1965年まで営業していた。(写真は与那城にあった西原劇場)
我謝ガニク (馬場) 跡
公民館のすぐ南、国道329号線沿いに長細い空地がある。ここは馬場だった所。現在は金網で囲まれて、草は生え放題で土地は活用されていない。かなり広い土地だ。兼久は我謝部落のハルヤーとして発達した集落で、集落名のカニクが砂地を意味する事は先に述べたが、このカニクにはもう一つ意味がある。この地域では馬場の事をカニクと呼んでいた。いつのころからか我謝兼久 (ガジャカニク) といえば、クゥーディーサー並木のあった我謝馬場を指すようになった。
この我謝馬場は比較的大きな間切馬場で、明治40年ごろ我謝馬場が糖業改良事務局用地として買収されるまでは、原山勝負、大綱引、競 馬、小学校の運動会などが催され、西原間切の公共的広場として利用されていたそうだ。明治42年頃に撮られた古写真 (上) が残っている。 航空写真には沖縄製糖西原工場と県立農事試験場が写り、その前の道路沿いに長細い我謝馬場も見られる。
旧沖縄製糖株式会社工場跡
公民館のすぐ西側にはかつては沖縄製糖工場、北側には社宅地域があった場所になる。現在、跡地はかなり広い広場になっており、その中にゲートボール場が置かれている。
1895年 (明治28年) の日清戦争後、政府は財政需要が拡大、北清事変の軍資金のため、増税や新税設置を行った。1901年 (明治34年) には砂糖消費税法が施行され、沖縄産の黒糖にも砂糖消費税が賦課された。購入が負担する外税の消費税という事で、当初は業者には影響が無いと説明されていたが、消費税分の値下げをせざるを得ない状況になり、沖縄の糖業農家は窮地に追い込まれた。政府は沖縄県の度重なる要請で、沖縄糖業の中心ではあるが先細りの黒糖から精製糖原料の分蜜糖生産への転換に政策転換を支援する事になった。1908年(明治41年) には、近代的な機械による製糖工場が竣工し、沖縄で最初の分蜜糖の製造が開始された。工場に隣接した場所には試験場も置かれていた。
製糖工場は農家からの委託製造も行い、自家製糖を行っていた農民らに新たな製糖方法を伝授し、一般農家に原料甘蔗売却に移行していった。会社側は米を外地から持ち込んで付近農民に安く売却し、田を甘蔗畑に切り替えさせた。これを俗にタードーシ (田倒し) といった。西原平野一帯の多くの水田が畑に変わり、作られた甘蔗は製糖会社が買い取っていた。1912年 (明治45年)、初期の目的が達成されたとし、製糖工場は民間の沖縄製糖株式会社に払い下げられ、研究施設や農場は県に移管され、沖縄県立糖業試験場として再発足することになった。(写真上が製糖工場、下が試験場)
工場社宅跡
戦後、この地域一帯は米軍に接収されていたが、1947年頃に米軍が引き揚げた後、区画整理され、各世帯に割り当てられ規格小屋を建てた。米軍に土地を奪われた崎原、仲伊保、伊保之浜出身の人々も、そこに住居を構えるようになった。この旧沖縄製糖株式会社社宅跡地も、同様に村民らに割り当てられた。社宅跡地は現在は住宅地になっている。何か遺構があるかもしれないと思い跡地を行くと、大きな井戸跡があった。個人宅に置くような井戸では無く、かなり大きい。その一つには古い汲み上げモーターが残っていた。多分、社宅住民の生活用水をまかなう為に、こんなに大きな井戸を作っていたのだろう。
旧兼久集落跡
公民館の東が国道329号沿いに旧集落があった場所になる。現在はスーパーマーケットの MaxValue が建っている付近だ。兼久は製糖工場とともに発展した企業城下町的な集落で、住人の多くは他町村からの寄り集まりだった。 大正期ごろから急速に人々が集まるようになり、兼久は小那覇と共に村内でも賑やかなところとなった。戦後は、与那城に村役所や西原小中学校が置かれ、兼久には商店や映画館、写真館などが建ち、西原村一の繁華街になった。1968年村役所が現在の嘉手苅に移転するまで、兼久はそこの入口にあたり西原村の表玄関として賑わった。現在でも、国道329号には多くの商店が建ち並んでいる。
兼久山 (カニクヤマ)
兼久は、我謝からの分家や他町村からの転入などで形成された集落のため、古い集落のように字の守護神を祀っている御嶽や拝所、井泉などはない。唯一の聖地として、海岸近くの兼久山 (カニクモー) に尾類小墓 (ジュリグヮーバカ) と呼ばれる墓地があった。そこには 四、五軒の屋取があった。墓地の側には古井戸あったことから、兼久の屋取が形成される以前に誰かが住んでいたとも考えられる。現在はその面影はなく、近所の人に聞いてみたが、そのような話は聞いたことがないと言っていた。
宿道
兼久集落の東側を南北に通っている農道は、かつてスクミチ (宿道) と呼ばれ、首里王府時代の東海岸側の主要道路の一つで、首里と中城間切、美里間切、与那城間 切などを結ぶ重要な道路だった。そのスクミチはほぼ 一キロメートル毎に直角に折れ曲がり、追手から逃れるため、故意に道を曲げたといわれる。現在は、新たな道路に変わり一直線の道になっている。言い伝えではこのスクミチより東側は海浜だったという。
兼久船揚場
尚家御殿原
このことがあってから、我謝ではウフムラ(大村) とクムラ (小村)に分裂して対立するようになり、綱引行事なども別々に催した。この対立が大正期に始まるシルークルー (白黒=政争) 争いへと引き継がれた。小作人らは、生活の糧を本土出稼ぎや海外移民に求めるようになった。 そのような小作争議は、県内各地で頻発した。
ソニー坊や像
これは史跡ではないのだが、国道329号線沿いにソニー坊やの像が建てられている。先日は宜野湾野嵩で別のソニー坊やを目にした。このソニー坊やがどのような経緯で建てられたのかは、はっきりとはわからないそうだが、沖縄本土復帰前にソニー製品の代理店をやっていた「電波堂」の創業者の新川唯介さんが、得た利益を還元して沖縄の各地に交通安全を訴えるソニー坊やを建て始めたという。どれだけのソニー坊やを建てたのかは不明だが、沖縄全土で10体以上あったそうだ。現在は本部町謝花、うるま市安慶名、宜野湾市野嵩、糸満市名城とここ兼久の5箇所にのこっている。地元住民は大切にしているそうだ。いつかは史跡になるかもしれない。
参考資料
- 西原町史 第1巻 通史 1 (2011 西原町教育委員会)
- 西原町史 第1巻 通史 2 (2011 西原町教育委員会)
- 西原町史 第2巻 西原の文献資料 資料編 1 (1984 西原町史編纂委員会 )
- 西原町史 第4巻 西原の民俗 (1990 西原町役場)
- 西原町史 第5巻 西原の考古 (1966 西原町役場)
- 西原町 歴史文化基本構想