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Okinawa 沖縄 #2 Day 206 (27/08/22) 西原町 (7) Nakaiho / Ihonohama Hamlets 仲伊保/伊保之浜集落

2022.08.29 11:09

[更新: ミーガー (2022年9月10日 訪問)]


西原町 仲伊保集落 (なかいほ、ナケーフ)


西原町 伊保之浜 (いほのはま、イフヌハマ) 



小那覇から仲伊保集落に移動する。



西原町 仲伊保集落 (なかいほ、ナケーフ)

仲伊保 (なかいほ、ナケーフ) は旧崎原集落の東側、中城湾に面した海岸地に立地していた。集落の北東側は中城村南浜に、南側は伊保之浜にそれぞれ隣接している。地名である仲伊保のイーフは海岸地帯の砂洲を意味している。仲伊保は元々は小那覇の屋取集落で、約240年前、我謝から大城家の先祖が仲伊保に移り住んだ事から始まり、大城家は仲伊保集落の草分家とされ、屋号も集落名の仲伊保 (ナケーフ) を名乗っている。その後、長島御殿 (総地頭家) がこの地に別荘を建て、しだいに人々が集まり、ハルヤーが点在するようになった。190年前頃から、中城間切から安里家や泉川家などが転入し、次第に大きくなって行く。仲伊保は半農半漁の集落で、大半は農業に従事していた。仲伊保の土壌が大根の栽培に適しガチチャー (ウニ) の殻や海草を施肥に使いナケーフデークニ (仲伊保産の大根) と呼ばれる県内でも屈指の大根の名産地となった。1916年 (大正5年) に行政区として小那覇から分離独立している。1977年 (昭和52年) に行政区改編がおこなわれ、字制から区制になり、仲伊保は小那覇に吸収され消滅した。


沖縄戦時中、仲井保と伊保之浜の多くの住民は、米軍艦隊攻撃の恐れがある東海岸沿いにあったため、本島北部の久志村三原に強制疎開させられた。 疎開したことによって他部落と比べて戦死者が少なかった。

終戦直後、すでに米軍は仲伊保の集落にあった未完成だった旧日本軍東飛行場 (西原飛行場) を接収し、海軍飛行場 (与那原飛行場) を建設し駐屯していた。飛行場建設で、集落地の立ち入禁止区域となり、元の仲伊保集落地付近には、誘導路や格納庫が建設され、伊保之浜集落跡地には、米軍兵舎のコンセットハウスなどが建てられた。元の集落地域が米軍に接収されたため、仲伊保と伊保之浜住民らは我謝、与那城、小那覇、兼久などに分散居住を余儀なくされた。

米軍による海軍飛行場 (旧日本軍東飛行場) の拡張工事に伴い、仲伊保付近より大量の土砂を採取したため、かつての集落地は池沼となってしまい、その後、返還された後も、宅地として使えず放置されたままだった。飛行場跡地の土地改良事業に大きな期待を寄せたが、土地改良事業は実現しなかった。元の住民は沖縄県立農事試験場跡地や他部落へ分散して住むようになった。仲伊保住民は他部落に分散して生活していても、戦前同様に一行政区として機能し、公民館も、兼久の沖縄県立農事試験場跡地に建てられていた。1972年 (昭和47年) の本土復帰後は多くの企業が進出して工業団地となっている。1977年 (昭和52年) に行政区改編がおこなわれ、字制から区制になり、仲伊保は小那覇に吸収され、区長は置かれなくなった。元々集落があった場所は工業地帯となり民家は見られなくなっている。


仲伊保集落では、戦前、主な行事として

  • クスッキー (旧暦2月2日) 製糖期を無事終了したときの慰労の宴で、戦後は元の仲伊保集落内にある拝所に字民が集まり、祭祀がおこなわれている。
  • 各家でお重をつくり、海辺に出て潮干狩などをして遊んだのが、サングッチサンニチー (旧暦3月3日)
  • ユッカヌヒー (旧暦5月4日) には、伊保の浜で、仲伊保、伊保之浜、中城村南浜の三カ屋取対抗でハー リー (爬龍船競漕) が行われた。ハーリーが終って後には、相撲大会も持たれていたそうだ。
  • 旧盆最終日のウークイ (旧暦7月15日) にはエイサーが行われ、青年達が公民館に集まり、集団で太鼓や銅鑼を打ち鳴らし、エイ サーを踊りながら各戸を廻ったという。
  • 戦前、仲伊保独自での綱引は行われず、本部落である小那覇の大綱引にムラガシー (村加勢) として参加した。仲伊保は雌綱、伊保之浜は雄綱それぞれ加勢していた。


インスジー (御衣脱瀬、内間高干瀬) 

仲伊保は屋取として発達した集落で、他の百姓平民村 落のような御嶽や拝井泉などは少なかった。仲伊保集落の海岸から東側約500m沖合の隆起サンゴ礁でできた内間高干瀬の一角に、インスジー (御衣脱瀬、内間高干瀬) があり、祠と石碑があった。かつては干潮時には陸地から歩いて渡れたという。

現在は埋め立てられて南西石油株式会社のバース付近にあたる。沖縄ではよく知られている話だが、その昔、尚円王が内間地頭の時、群臣らが首里から轎を持って迎え、長島ヌ嶽 (仲伊保拝所) まで来たが、尚円はインスジーまで逃げた。群臣らが執拗に王位につくよう進言し、尚円はそこの干瀬で竜衣に着替えたので、この干瀬はインスジー (御衣脱瀬、内間高干瀬) と名付けられ たという。この内間高干瀬について、中頭郡誌には 「海岸に尚家の別荘浜の御殿あり、其一哩餘の海上に内間高干瀬と称する岩礁あり、これ尚円王内間の地頭たり時、釣を垂れたる所なりという」とある。戦前には、毎年旧暦3月3日に首里から尚家一族が来て、インスジーで祭祀が執り行われ たという。今でも、嘉手苅の大屋は、旧暦3月3日には南西石油株式会社正門付近からお通しの御願を行っているそうだ。この拝所は既に消滅してしまったのだが、出来るだけその場所に近い所まで行ってみた。


仲伊保の拝所 (長島ヌ嶽)

かつての長島御殿の別荘地跡に長島ヌ嶽があり、長島家一族によって崇められていた。現在は仲伊保の拝所として改修され、毎年旧暦2月2日の腰憩い (クスッキー) に仲伊保集落住民一同が会し、祭祀を行っている。長島ヌ嶽の祠には、下森神、上森神、火神、国元、長島神、火神が祀られている。

長島ヌ嶽の隣には長島ヌ井 (写真左上) があり、仲伊保集落の産井 (ウブガー) として拝まれていた。これ以外にも井戸の拝所があり、合計五つあった。広場の隅には小さな祠があり、海神が祀られている。


南西石油

沖縄の本土復帰を目前に控えた1960年代後半、米国の大型石油資本は、本土への足掛 として沖縄進出をはかっていた。当時は村内で誘致派と反対派に分かれ、激しく対立していた。村議会代表団が 本土の石油精製所の現状調査を行い、その結果、 本土の石油産業では公害問題に関しては問題なしと報告された。これにより、1968年 (昭和43年) にエッソ・スタンダードの進出し、琉球法人エッソ・スタンダード (沖縄) を設立し、伊保之浜、仲伊保の両海岸地域の公有水面を埋め立て、大型石油精製工場を建設した。1972年 (昭和47年) に石油精製所が竣工し、ゼネラル石油 (25%)、住友化学工業 (25%)、 エッソ・イースタン (50%) の三社共同出資による南西石油株式会社に社名を変更し再発足している。

同社は操業当初から、陸上油送パイプの油漏れ事故や原油流出事故が絶えなかった。1976年 (昭和51年)、工場内の常圧ポンプが人為的ミスにより発炎上した。翌日も事故が起き、住民を恐怖の中、激怒し、南西石油正門前で「六六南西石油爆発事故糾弾抗議大会」を開き、会社側に抗議し、村当局は南西石油株式会社と公害防止協定を締結した。 1979年 (昭和54年)、エッソ・イースタンは南西石油株の50%をゼネラル石油に譲渡し撤退。外資比率がゼロとなりゼネラル石油が最大の株主となった。


金秀グループ

工業地帯の一角に金秀グループ各社が集まっている地域があった。金秀は沖縄地場企業で、この西原町に戦後の昭和22年に金秀鉄工所として開業している。この場所には金秀鋼材工場 (左上) がある。鉄鋼業から始まり、多角化経営に移行して、建設業、小売業、健康食品、リゾート経営など多岐にわたる事業を展開している。小売業は金秀商事 (右上) がここに本社を構えて、業界3位のスーパーの「かねひで」を展開、近年はセブンイレブンとフランチャイズ提携し、セブンイレブンの沖縄進出が実現している。




西原町 伊保之浜 (いほのはま、イフヌハマ) 

伊保之浜 (イフヌハマ) は、18世紀以降に首里の帰農士族が小那覇村落から遠く離れた荒蕪地に開墾し、そこに畑屋 (ハルヤー) を建て定住するようになった屋取集落で小那覇ヌ下 (ウナファヌシチャ) とも呼ばれ、中城湾に面した小那覇川の下流域の海岸べりにあった。集落の東側には、サンゴ礁のイノー (礁池) に形成された広大な干潟が広がり、満潮時には遠浅の海、干潮時には広大な砂泥床が露出していた。(遠浅の砂浜は、1968年エッソ・スタン ダードの進出で埋め立てられ消滅してしまった。) 

17-18世紀頃から、伊保之浜には港があり、そこから勝連方面へ船が出ていたものと思われ、漁村として発達した。そのころから、4、5世帯ほどの漁民が定住していたものと思われる。戦前は糸満漁民が泊込みで、伊保之浜近海で漁をしていた。多くの山原船が出入りし、山原方面から炭やマキ、木材などを積載し、帰りには泡盛や日用雑貨などを積出していたという。

戦前、伊保之浜集落の生業は農業と採石業が主だった。農業は、主食の甘藷や換金作物である甘蔗などの栽培が主体だったが、専業農家は僅か六戸ほどで、農閑期になると、殆どの住民が採石業に従事した。伊保之浜のイノーからウミイサー (サンゴ石灰岩) を切り出し、井戸や墓石などの石材として供給していた。

伊保之浜は昭和初期に独立行政区となっていた。戦後、伊保之浜集落地域も飛行場用地として米軍に接収され、他集落での生活を余儀なくされ、与那城新部落や我謝の試験場跡地などに住むようになった。米軍飛行場が小禄に移転し軍用地が返還された後も、元住民は元の集落地に戻らず、終戦直後から住み続けた場所に定住している。 1977年 (昭和52年) の行政区改編前までは、伊保之浜区長が置かれ、一行政区として機能していた。 現在の元の集落地は農耕地として利用されている。

戦前の村行事としてクッスキーやハーリーなどが行われていたが、白黒争い (シルークルー、政争)の煽りで集落内は二分され、クッスキー やハーリーも両派に分かれて行われていた。

  • 旧暦2月2日のクスッキー (腰憩い) にはミーガーとクムイ、竜宮神の三カ所を拝んだという。尚王家浜之御 殿の広場で製糖終了後の慰労会が催された。
  • 旧5月4日のハーリーでは戦前までは、仲伊保、伊保之浜、中城村南浜の三集落で爬龍船競漕が行われていたが、多くの若者らが徴兵や移民で出て行き、ハーリーは行われなくなった。
  • 旧暦8月15日の十五夜には、尚王家の人々が浜之御殿」で月見の宴を催した。

小那覇川マングローブ、尚家浜之御殿、宜野湾御殿

小那覇川に沿って海岸に向かって道路がある。埋め立てられた東崎地区に通じている。小那覇川河口付近は一気に川幅が広がり海に流れ込んでいる。この河口はマングローブが密生していたそうだ。マングローブは今でも少し残っている。この辺りがかつての伊保之浜集落があった場所になる。伊保之浜 (イフヌハマ) の海岸線は、風光明媚な景勝の地として知られ、戦前までは集落北側の浜田原に敷地が三千坪もの尚家別荘の浜之御殿や宜野湾殿内の別荘などがあった。戦時中、浜之御殿は日本軍の慰安所に使われていた。木材で作った偽装高射砲を設置したため、米軍の艦砲射撃を受け、別荘や集落は木端みじんに吹き飛ばされてしまった。

浜之御殿の由来について言い伝えがある。

  • 昔、尚家の王妃は、臨月になると琉球開闢の地久高島に渡り、そこで出産する習わしがあった。そのとき、王は久高島への同行は許されず、女官たちだけが王妃に同行した。そのため、伊保之浜に久高島との連絡場所として浜之御殿を建てた。 浜之御殿から、中城湾上に浮ぶ久高島はよく見え、夜など松明で合図したといわれる。
明治32年には浜之御殿が増築され、浜之御殿の周囲は高さ2~3mの石垣に囲われ、二階建の木造竹葺家屋と、サンゴ石灰岩の大きな池があった。毎年、中城御殿 (現県立博物館) から20~30人の尚王家の人々が浜之 御殿へ遊びに来ており、住民総出で尚王家の人々を迎えた。別荘内の広場で行われる余興などにも地元の人々がでて、空手や棒術、相撲などを披露していた。

浜之御殿のほか、昭和初期ごろまで、現南国養豚団地に宜野湾御殿の別荘があった。その別荘は火災で焼失し、井戸だけが残っているそうだ。


ミーガー (2020年9月10日 訪問)

小那覇集落の南東の沖縄コカコーラの前の道を進んだ内間川沿いにはミーガーというかつての伊保之浜集落井戸跡があり、現在は、コンクリート製の筒が置かれていると資料にあり探すも見つからず。ミーガーは掘り込み井戸で、円形に石が積まれ、以前は二、三人が雨宿りできる位の大きさのカブイ (屋根) が造られていたという。正月の若水を汲んだというので、伊保之浜の村井 (ムラガー) だったのだろう。道沿いには井戸が見つかったのだが、どうもこれではなさそうだ。

後日、この記事を見た幻日さんからこの井戸の情報をいただき、教えられた場所に行ってみた。沖縄コカ・コーラに塀の奥まったところにあり、拝所になっていた。資料の写真は沖縄コカ・コーラの工場が建設される前の様で、畑の中に井戸が写っていた。資料は古いものだと、その後、消滅していたり、様相が全く変わっていることが多い。


これで小那覇にある三つの集落跡巡りを終えて、海岸沿いの埋め立て地の東崎地区にあるあがりティーダ公園、西原きらきらビーチ、西原マリンパークをポタリングしながら家に向かう。今日は土曜日で外出制限もないせいか、多くの家族連れが訪れていた。


参考資料

  • 西原町史 第1巻 通史 1 (2011 西原町教育委員会)
  • 西原町史 第1巻 通史 2 (2011 西原町教育委員会)
  • 西原町史 第2巻 西原の文献資料 資料編 1 (1984 西原町史編纂委員会 )
  • 西原町史 第4巻 西原の民俗 (1990 西原町役場)
  • 西原町史 第5巻 西原の考古 (1966 西原町役場)
  • 西原町 歴史文化基本構想